第10話 口きき

「うんだらばら・・・・・・うんだらばら・・・・・・うんだらばら・・・・・・はっ!」


結は神を降ろした。


「おゝ!」


老人はすつかり信じてゐるやうだ。

両手を掲げて、其のまゝ倒れ込むやうに身体を折り畳んでゐる。


結は一先づ安心した。


だが然し、本番は此処からである。

 

「お、お身の願いを云へ」


兎にも角にも、此の老人からあらましを聞かぬ事には彼の談話しに乗つてやることも出来ない。


結は先づ、聞くことに徹した。


「はゝ。儂と永らく付き添つて居つた婆やが、去年の冬に山で行方知れずとなり申した。此の度は仏様に婆やの行方を教へて頂きたく・・・・・・」


老人の言葉は最初めから涙に濡れて、末尾の至る頃には聞き取れない程においおいと泣いてゐた。

まるで本当に仏様が居るように、深々と頭を下げて懇願してゐた。


「・・・・・・」


結は困つた。


去年山で遭難した人間など生きてゐる筈が無いのだが、其れを、仮にも仏の言葉として、老人に伝えるべきか真剣に悩んだ。


老人は目の前でおいおいと泣き続けてゐる。


──どうしよう。いま本当の事を云つたら此の人は死んでしまうかもしれない。


「仏様!」


──でも、いまこんなに苦しんでるのに、私が本当のことを言わなかったら、これからずっと苦しいままだ。


結の精神は揺れてゐたが、其の行方は片方に倒れかかつてゐた。


老人は涙を止め、結の険しい顔をぢつと見つめてゐる。


──この人が死なないように、私が私の言葉で励ましてあげればいい。そうだ。そうに違いない。


結は答えを出す決心をした。


老人に酷く悲哀しんで欲しくない。せめて談話しが出来る程には精神を保つてゐて欲しい。然う思つて、できる限り声色に抑揚を付けず、呟くやうに云つた。


「老人よ。婆やはもう、この世には居ない」


結は云ひ切つた。


「・・・・・・然うで、御座いましたか」


老人は泣き喚くわけでも無く、ほつとした表情で天啓を迎へた。


其れを見て安堵の息を漏らした結は、自己の前で頭を垂れる老人を見て、思はず身体を寄せた。


「も、もう終わりです。どうでしたか?」

「有難う御座いました。仏様」 

「・・・・・・」


結は老人に三つの事を云わねばならなかつた。


一つは慰め。一つは食。一つは寝床である。


「御婆様は、どうでしたか?」


巫女が神の言葉を憶えてゐるのかを知らなかつた為、結は慎重に訊いた。


落ち込むだらう彼を、励ます準備をしてゐた。


「婆やは・・・・・・」


其れに対して、老人は困つたやうな、何とも云えない顔をして、嗄れた声で云つた。


「婆やは・・・・・・生きておつた」


──え?


「生きておつたさうぢや。此処から三つ山を挟んだ、小さい村でいまも生きておるさうぢや」


老人は輝かしい程の柔らかい笑顔を浮かべた。


結は老人に驚きを悟られないやうにしつゝも、思はず下唇を少し噛んで、目線を少し逸らし、大きい眼の奥には恐怖のやうな落胆のやうな色を浮かべた。


そして、何か云はねばと思ひ、


「それは・・・・・・良かった、ですね」と、咄嗟に云つてしまつた。


談話しは其れ以上続くことは無かつた。


「仏様、腹が減つておいでぢやらう。粗末な物ぢやが、頂いてはくれまいか」

「・・・・・・はい」


老人が支度をする間も、結は彼の背中を見たまゝ呆気に取られてゐた。

腹が鳴る事も無かつた。

涎が出る事も無かつた。

ただ、雪のやうに真白になつた精神で、時を浪費するばかりであつた。


結は、震える手で粟を口に入れた。


「いかがですか」

「・・・・・・美味しいです」


全く美味しくなかつた。


苦い、変な味がした。





夜が明けた。


未だ陽は其の姿を完全には現してゐなかつた。

冷たい空気が足元から霧のやうに立ち込め、其の湿つた匂いが陽の匂いと混ざり合ひ、結の鼻の中を充たした。


結は藍と濃と合流した。


「あれ無手姫。宿はあつたのかなう」


濃は顔を引き攣らせたまゝ結に問いかけた。


彼女はてつきり結が野宿をしたと思い込んでゐたやうで、藍と顔を見合わせて、横目で結を睨んでゐた。


「優しいお爺さんに泊めて頂きました」


結の顔は少し蒼かつた。

だが其れは藍と濃には判らない程であつた。

が、藍の顔は結の眼にも明らかな程蒼ざめてゐた。

其の所以は判らなかつたが、まるで物を吐き出した後のやうな、苦しげな様子が見えた。


「ほう。左様な翁が」

「珍しいお人」


三人が険悪な空気を作り出してゐると、朝の陽差しから鶴太郎が現れた。

彼の顔は自信に満ち充ちてゐた。


「犬神筋を見つけた。各々精神の準備をせよ」

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