第9話 甲斐国
甲斐国。
現在の山梨県。
もとは山と山の交う所、即ち交いという文脈から名付けられたとされていたが、近年では、東海道と東山道の交わりであることが由来とも言われる。
交わりの国、甲斐国。
そこで彼らに待ち受けているのは、見慣れた狂人との交わりか、それとも、見慣れぬ神祇との交わりか。
*
「無手姫は鶴太郎を夜這ひしたさうぢや」
其の噂は瞬く間に拡がつて、鶴太郎を取り巻く巫女等の注目の的となつた。
勿論、いま鶴太郎と結の後ろを歩いてゐる藍と濃の耳にも這入つており、二人共妬ましい視線を結の背中へ注いでゐた。
「鶴太郎どのは巫女に興味がなかつたのではないのか」
「いや、あの犬神筋は怪力ぢや。無理矢理冒したに違いない」
噂は既に、大きく肥えてゐた。
無手姫は純真無垢の鶴太郎を冒した大罪人としての汚名を着せられてゐた。
無論、其のやうな現実は何処にも無い。
結がどうしても側で寝たいと云ふので、嫌がった鶴太郎を平三が宥めたに過ぎない。
然し、拡まつた噂と云ふ物は中々しぶとく、平三くらいしか味方の居ない結には此の事態を収束させる手立は無かつた。
「あの・・・・・・わたくし鶴太郎どのには何もしておりませぬ。嘘を流すのはやめて下さい」
結は振り返つて云つた。
「あれ。聞こえておつたかなう」
「しまつたしまつた」
結から見て右手にゐるのは藍と云ふ女子で、柳の葉のやうな眉を持つ、容貌の優れた艶女でありながら、其の蘭々と晃る眼差しに躊躇はなかつた。
対して、左手にゐるのは濃と云ふ女子で、色の濃い柔らかな眉を持つ、此方は艶女とは異なる可愛らしい見た目でありながら、やはり藍と同じやうな眼光を滾らせてゐた。
「・・・・・・やめて下さい」
結は再び訴へた。
憤恚に震える声は少し涙ぐまれて、滲んだ視界も其れを堪える精神もまた震えた。
「お身たち、無駄口を叩くな」
立ち止まった彼女等を咎めるやうに、鶴太郎は云つた。
「私はいち早く甲斐国に着きたい。そして私は此の一行の頭ぢや。私の命に従わぬ者は此処で捨てて征く」
一行は甲斐国へと向かう道中であつた。
山々の狭間を進む足元は険しく、長旅に慣れてゐる彼等でさへ難儀な道であつたが、甲斐国へ向かうには最も近い道であるとして、鶴太郎が定めた順路であつた。
「鶴太郎どのは犬神筋を庇われるので御座いますか」と、濃が云つた。
「庇うのでは無い。私も此の筋者は大嫌いぢや。然し時は無駄にしたくない。一人でも多くの筋者を殺さなくてはならぬ」と、鶴太郎は返して、結の小さい顔を睨んだ。
彼の眼は、天邪鬼ではなく精神の底から彼女を嫌っている眼であつた。
結が萎縮するのは勿論であつたが、其れは藍にも伝わり、彼女の美しい眉は突然柔らかく和んで、結を蔑むやうに追い越し、鶴太郎の後ろに付いた。
濃も其れに続いた。
「では急ぎませう。鶴太郎どの」
二人の女子に鶴太郎を奪られ、結は愈々泣きさうになつた。
三人の後を着いて征く自己が惨めにさへ思へた。
挫けるな。
結は精神の強い女子であつた。
懐に隠した櫛を握り締め、身体を奮い立たせ、彼等の後を追つた。
然うして一行は二晩を過ごした後甲斐の関に着いた。
鶴太郎はお師匠から貰った関銭を使い、関所を越え、其処から更に暫らく歩くと、日の暮れないうちに一つの農村へと辿り着いた。
「此処で一度解散ぢや。各自村人に取り入り、筋者について聞いて来い」
鶴太郎は開口一番、然う云ひ放つた。
藍と濃は返事をする間も無く各々村人の竪穴住居へと散つて、鶴太郎と結だけが残された。
「おい。お身も早う征け」
「私も・・・・・・?」
「無論ぢや。お身は巫女の無手姫ぢやらう」
「でも何をどうすれば・・・・・・」
「知らぬ。何とかして宿と食物を貰へ」
結は愕然とした。
「で、できませぬ・・・・・・」
「私ももう征く。
取り入るとはどうすれば良いのか、結には一片足りとも判らなかつた。
いや、判らないと云ふより恐怖してゐた。
山の麓の一件。彼女にとつては大きく世の有様が変わつた事件であつた。
其れと殆ど同じ事をせねばならなかつた。
「せめて・・・・・・!最初の一言を教えて下さい!」
結は藁にも縋る思いで鶴太郎に問いかけた。
「最初の一言?・・・・・・決まつておらう」
鶴太郎は、結にも判らない程に少しだけ微笑んで云つた。
「巫女の口ききなさらんか、ぢや。覚えておれ」
然う云つて、鶴太郎は村で一番大きな家へと姿を消してしまつた。
*
懐かしい薫りがする。
あの山を離れたのは満月の夜であつた。
今宵の月は、湧き出でた煙のやうな雲に隠されて見えない。
結は一番静かな村の一角へと向かひ、独り佇む小さな竪穴住居の中へと呼びかけた。
「御免下さい」
結は云つてから思い出した。
──巫女の口ききなさらんか。
鶴太郎に教えて貰つた言葉である。
結は其れを思うと胸を熱くして、妙な自信が湧き出でた。
自信は彼女の羞恥心も不安も一度に隠し、口から白い息を吐くやうに、自然と優しげな声が出てきた。
「巫女の口ききなさらんか」
結は下を向いたまゝ云つた。
其の魔法のやうな言葉の効能は明らかであつた。
小屋の中から一人の老人が這ひ出て来て、結の小さな顔を覗き込んでゐた。
「あ、あの・・・・・・巫女の口ききなさらんか」
結は魔法の言葉を再び口ずさんだ。
老人は無表情を保つたまゝ口をほんの少し開いた。
「婆や・・・・・・」
「え?」
「婆や・・・・・・婆やが戻つてきた!」
老人は歓喜に咽び泣いてゐた。
彼の談話しから察するに、結は生き別れた妻と瓜二つのやうだ。
「婆や。覚えておらぬか。儂ぢや」
興奮してゐる老人は、見た目からは想像出来ない力で結の腕を掴んだ。
「わ、私は、まだ十五です!」
「近頃は寒くなつてきおつた。早く家に入るのぢや」
結は雪崩れ込むやうに住居の中へ引き込まれた。
「ですから!私はお婆さんじゃありません!」
「あれ」
燈火の光を結の顔に当てて、やうやく老人は我に返つたやうだつた。
「近くで見ると全然違うなう」
「ですから・・・・・・私は巫女です」
「みこ・・・・・・?仏様のことか!」
「違います!」
「仏様!婆やは生きて居られますか。帰つて来ますか!」
老人は悲愴な顔で結に訴へた。
返答に困つてゐると、老人は催促を始めた。
「何をして居られるのです!」
「え?」
「早く仏様を降ろして下さいませ!」
降ろす。
神降ろしのことである。
神祇を巫女の身を依り代として降ろし、神祇の御言葉として談話すのである。
「なんの──」
結は思い出した。
鶴太郎は「巫女の口ききなさらんか」を云つた後、微笑んだ。
あの微笑みの意味がいま、明らかになつたのだ。
「口ききって・・・・・・神降ろしのこと?」
「お願いします!仏様!」
結は遂に困り果てた。
老人は既に其の気になつてゐる。
腹も大層空いてゐる。
寝るところも無い。
寒さを凌ぐ宿も無い。
結は、口ききせざるをえなくなつてゐ
た。
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