第8話 無手姫

「といふ訳で、私は結を巫女として迎へる事にした」


鶴太郎の眼の前には、美しい白と紅の装束を纏った結が座つてゐた。

彼女の白い頬は夕焼けに照らされ、白衣と緋袴の間を彩るやうな、絶妙な色合いに染まつた。


隣には満足げな貴人もゐた。


「・・・・・・巫覡館の皆は犬神筋撲滅を望んでおりまする」

「そんな事は無い」


四郎か。


鶴太郎は其の整つた顔を歪めて、あの憎き古株の妬むやうな視線を思い出し、彼の思惑を悟つた後、もう一度結を見た。

彼女は物憂げな眼で此方を"ぢつ"と見つめたまゝ静寂を保ち、呼吸をつめて身体を固くしてゐた。


「案ずるな。お身のの件、私は変えるつもりはない」

「では、冬を越えれば歩き巫女の一団を持つても良いと」

「おゝ」


其の言葉に、鶴太郎は精神の中で窃と胸を撫で下ろした。

四郎への嫌疑は彼の頭の中で消え去り、自己の憎悪も知らぬ顔で何処かへと去つていつた。

然し、彼の不機嫌は完全に解消される訳ではなかつた。

何故結だけが赦されるのか、何故結だけが生かされるのか、其れを我が主の口から聞かなければ、彼は納得しなかつた。


又、嫌な予感もした。


「其の代わり結もつける」


嫌な予感は瞬く間に的中し、のみを望んでゐる彼は其の出鼻を挫かれた。

彼の頭はまたもや四郎への嫌疑に染まり、奴の薄笑いを浮かべた顔を眼の前の主の顔に重ねた。

彼は此処で引き下がる訳にはいかなかつた。


「結には少し早すぎる気も致しますが」

「構わぬ。結は無手で犬神を仕留める程の実力者ぢや。其上彼女自身が犬神筋であるからも懸念するに至らぬ」


犬神堕ち。

犬神を殺したものが、其の強過ぎる祟りで自己も犬神となつてしまふ事である。

此の懸念の為に、通常は犬神の手足に切り込みを入れ、捕縛したのち巫覡館のあの部屋へと運ばれていくのである。


「なら私以外がよいかと。私は既に二体の犬神を殺していますが、全く魔の気に侵されておりませぬ。役被りに御座います」

「此れは私の命令ぢや。聞けぬと云ふなら話は終いぢや」


鶴太郎は其の固い下唇を小さく咬み、結の顔を睨んだ。

結は此方に視線を注いだまゝ、やはり微動だにしなかつた。が、其の白い頬には雫が一粒垂れており、眼の奥からは憤恚とも嫉妬とも取れぬ強い意思を発していた。


───何故お身が泣いてゐる。


鶴太郎の腹の底には憤恚の念が渦巻いた。

結の涙は、彼の立場を憐れんでゐるとも、自己が受け入れられない事を悲哀しんでゐるとも思へたが、何方にせよ彼の憤恚を打ち消すに至らなかつた。


「承知しました。結は私が引き取りませう」


苦しい胸から吐きでた言葉は、貴人の顔を明るくした。 


「おゝ。それで良い。早速結に仮名を与へやう」

「魂の穢れた者に仮名等必要ございませぬ」

「静かにしておれ。私の命令ぢや」

「・・・・・・」


貴人は結と見詰めながら唸つた。

我が子に名を授けるが如く、幸せさうな、其れでいて真剣な眼で考え始めた。

彼は結を大層気に入つてゐた。

結が捕縛された後、貴人は引き捕らえられたまゝの結と語らつた。

結局談話しは幾時にも及び、遂に彼は結を巫女にしたいと云ひ出したのである。


「よし。決めた」


然う云つて彼は立ち上がり、背後から筆を取り出した。

机を前に置いて其の腰を座らせると、筆を進めて何かを書き始めた。

鶴太郎は其の間も結の事を睨み続けた。

結は眼を伏せつつも、と鶴太郎の方を見た。


「よし、完成ぢや」


貴人はまた立ち上がり、高らかに掲げた。


「無手姫」


鶴太郎は余りに仰々しい名だと思った。

何処かの高位な公家の娘かと間違へさうである。


「無手姫には刃等無用。人に刃を向けず、自己にも刃を向けない。素晴らしい名ぢやらう。喃、無手姫」

「あ、有難う御座います」


結の顔は真赤だつた。


「私も其の名で呼ばなくてはならないのですか」

「勿論ぢや。只今より此の者は、犬神筋の結ではなく歩き巫女の無手姫となつた」


鶴太郎は屈辱であつた。

京に上り、高位の者に取り入らうと考へてゐる彼にとつて、姫といふ名を呼ぶ度に犬神筋の娘の顔が浮かぶなど一種の拷問であつた。


彼は貴人の顔を上目遣いで睨んだ。

無論彼は気づいて居らず、其のまゝ何かを思い出したかのやうに云つた。


「そうぢや。霜月までまだ丸二月ある。お身に無手姫と巫女を二人ほどつけて、仕事をやらう」

「仕事に御座いますか」


お師匠様は結に目配せをして、彼女を鶴太郎の隣に座らせた。

其れを鶴太郎は歪んだ顔で迎へた。


「甲斐国を歩いて来い。霜月までには帰るやうに」

「・・・・・・心得ました」


鶴太郎は貴人の前から退ると、渋い顔のまゝ自己の舎屋へと向かつた。

未だ連れ添って来る結を背中で見て、先程までは行き場を無くしてゐた憤恚が放たれた。


「何故着いてくる。女子の舎屋は此方ではない筈ぢや」


彼は、結が女子の舎屋の在り処を識らない事を認めた上で、意地悪く云つた。

鈍感である結は其の憤恚にも気づく事無く、早足で先へと進む鶴太郎の背中を見つめ、立ち尽くす他なかつた。


「何方が女子の舎屋なのですか」


結の問ふ声は頭こそ大きかつたものの、尾に近づくにつれ自信を失い、徐々に小さくなつていつた。

結は彼に無視されてゐることを識つたが、理不尽に癇を昂ぶらせる事はなく、苛立ちも起こさずに、彼の後ろを一所懸命に着いて廻つた。


「私は人見知りなのです。鶴太郎どのと同じ舎屋が良いのです」

「着いてくるな!」


鶴太郎は速い足を更に速めた。

彼の苛々は頂点に達し、黒い烏帽子も頭を痒くさせて、今直ぐ顎下に食い込んだ紐を投げ捨てたい気分になつた。


「誰か!侍女は居らぬか!」と、鶴太郎は突然立ち止まり、大声で恫喝した。

其の激しい憤恚に気づいて、一人の女子が彼に近づいた。


「此の者を舎屋へ送れ」

「はい」


結は侍女に連れられ、鶴太郎の前から消えた。

去り際でも彼女は憐れむやうな悲哀しい眼を鶴太郎に向け、何か云いたさうにしてゐた。

其の態度が余計に彼を刺激し、益々苛立ちを昂らせた。


「あの女子は犬神筋の貧乏神ぢや。連れ添つては必ずや不幸が訪れる」


彼は男の舎屋に戻り、其処に居た友人に話しかけた。

友人は平三と云う男であつた。


「悪く云つてやるな。お身こそ、犬神に成る前の犬神筋を殺さうとした人でなしぢや。人でなし同士仲良うしやれ」


平三は四郎とは違い、鶴太郎と仲が良かつた。

故に此のやうな発言も鶴太郎の気に障る事は無かつた。

加へて、平三の論を説き伏せるだけの術を、鶴太郎は持ち合はせてゐなかつた。

彼は平三の優しげな眼差しに沈黙する他なかつた。


「平三、私は明日から甲斐へ征く」


沈黙を破つて、彼は話を横に逸らした。


「甲斐?随分と近いなう。神無月も跨ぐとなると・・・・・・また犬神か」


彼等巫覡館の者共は庶民の神事を非公認に執り行つてゐるが、神無月には祈祷るものも不在だと、村の人々はゐるので、彼等に仕事と云ふ仕事は無い。


然し犬神は違う。


犬神は、神祇とは云へ呪術であつた。

委細を申すことは出来ないが、家が富を独占するための、悪い呪術である。

呪術であるが故、村人からも忌み嫌われ、神無月には神が不在等と云ふ俗説も彼等犬神には適応しないのである。

因つて神無月にも彼等巫覡には仕事がある。


「恐らく。いつも通り犬神筋を炙り出すまでよ」と、鶴太郎は高らかに云つた。

「おゝ。然し油断は禁物ぢやぞ。おれは此処一番で転んだ巫覡を何人も見て来た。侮つてはならぬ」

「判つておる」


平三は犬神堕ちを懸念してゐるのである。巫覡館には覡である男が少なく、巫である女が多い。

少ない覡は一行の用心棒の役割をも果たし、死傷する事は勿論、生命の淵を往来せねばならない彼等は犬神に堕ちてしまう事も多かつた。


既に日も暮れて、彼等の談話しも盛り上がつてゐた。


「巫女は誰が良い。やはり藍か」

「私は巫女に特別な情を抱かぬ」

「面白くない男ぢや──」


平三が揶揄しやうとした其時、慌ただしい足音が聞こえて来た。


「鶴太郎どの!」


足音の主は結である。


「やっぱり、鶴太郎どのとじゃないと寝れません!!」


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