第7話 憤恚

朝は肌を擦りたくなる程寒かつたが、柔らかな陽差しは渡殿を歩く男の足を照らし、少しばかりの暖かみを与へてゐた。


「鶴太郎」


鶴太郎は正面からの声に顔を上げた。


眼の前には馴染みの顔が幾つもあつたのにも関わらず、何故か声をかけられるまで気がつくことはなかつた。


鶴太郎は落ち着いて云つた。


「なんぢや。四郎」

「其れは我等の言葉ぢや。何処を見て歩いておる」


反して、四郎は活気のついた声で云つた。

彼の顔は鶴太郎ほど整つてはゐなかつたが、其の元気の良い顔つきと性格は評判で、後ろに控へてゐる女子達にも人気があつた。


「すまない。少し考え事をしてゐた」

「ほう。其のやうには見えなかつたが」


四郎と一緒にゐる三人の女子達は、皆薄い笑みを鶴太郎に向けてゐた。

彼女等は四郎率ゐる歩き巫女の一団で、いまはお師匠様への報告の為、此の屋敷に還つてゐた。


其の凱旋は華々しく、四郎とは巫覡館の元へ這入つた頃以来の友人であつたが、未だ独りで動いてゐる鶴太郎からすれば煙たい存在でもあつた。


「案ずるな。お身も時をかければ──」

「実はな」


其の古参の男の言葉を遮り、鶴太郎は懐に手を入れ、六つの包みのうち一つを取り出した。


「其れがどうした」

「他にも五つ此処に在る」


五つ、と彼は零して、背後にゐる巫女たちも顔を曇らせ始めた。


「此れで、私も関所を幾つか跨げる」


陽光に晒した一つを再度懐に戻した。


四郎は無表情とも妬みとも云へる顔を浮かべて、鶴太郎の眼を"ぢつ"と見つめた。


「並んだな、四郎」


鶴太郎の顔はまるで鬼女のやうな笑みに塗り替えられ、其の美しくも勝ち誇つたやうな面に四郎は絶句した。


「・・・・・・どんな手を使った」

「女子を口説いた。お身の得意技を盗ませてもらうた」

「私は其のやうな軟弱者ではない!」 

「おやおや。何を然う怒つていらつしやるのか」


其の言葉に、四郎の顔は憤恚いかりの色に染まつた。

然し、彼は相応の気品をわきまえてゐたが故、腹の底の燃え滾る嫉妬を正面からぶつける事は無かつた。


「又逢はふぞ。鶴太郎」

「おゝ」


すれ違いざま、鶴太郎は巫女たちからの冷たい視線を集めたが、彼の顔は其のまゝであつた。


彼等の足音が消へると、鶴太郎は乾いた唇を舐めて又歩き出さうとした。

此度は早足ではなかつた。


鶴太郎が談話し合っている内に朝日は高く昇つて、陽陰となつた渡殿は冷たく、彼の足元は能く冷えた。


其の渡殿を歩き、角を曲がつた其の時、


「鶴太郎どの」


突如、女子の声が響いた。


居るはずのない女子の声は、鶴太郎の背後を静かに捉えた。


「何故、私を裏切られたのですか」


鶴太郎は瞬く間に石化したが、其の意識に反して、唇は遅々ゆつくりと動いてゐた。


「ゆ、結・・・・・・」


言葉にしてからやうやく、彼は気づいたやうだ。


振り返つた先にゐるのは自己が殺した筈の犬神筋であり、其れが、ただの犬神筋でないことを。


「何故此処にゐる?!・・・・・・何故生きておる!」


青年の声は憤恚と動揺とに震えてゐた。


「さあ。私もよく覚えておりません。ただ、裏切られたということは、覚えているのです」


鶴太郎の頭の中は混沌としてゐた。

結の言葉も半分しか這入つて来ず、己の焦燥感のみが身体を動かしてゐた。


「誰か!誰か居らぬか!犬神筋が出たぞ!」


彼の叫びは使用人の女に届いた。

其の女は即座に貴人の居る殿の方角へと走つて行つた。


「もう一度訊く。何故生きておる、結」


───兎に角、時を稼がねばならぬ。


彼の頭は其れだけが先行し、頬には冷や汗が流れ、拳は固く握り締められてゐた。


「ですから・・・・・・私にもよく判りません。それより、私の質問に答えて下さい」


自己の精神を把握する間もなく此処へ来たのか、結の眼は虚ろで、魂が籠もつてゐなかつた。


だがそんな結の眼は、鶴太郎には殺意の籠もつた眼に見えたのであらう。


彼は懐から小さ刀を取り出した。


「・・・・・・お前を裏切ったのは私心ぢや。赦せぬと云ふのなら、いま此処で私を殺せ・・・・・・殺してみせよ!」


彼は小さ刀を逆手に持ち、尤もらしく構えた。


彼の実力は定かではなかつたが、少なくとも結には中途半端な構えに見えた。


「鶴太郎どの。私には貴方への殺意などありません。ですから貴方も其れをしまって下さい」


結は一歩ずつ鶴太郎に躙り寄つた。


其れに合わせて、鶴太郎も一歩ずつ下がる。


「ならば私はもう一度お前を殺す」

!」


虚実の混ざつた斬撃が結を襲つた。

然し不思議なことに、結の身体には傷一つ付かなかつた。


結は鶴太郎の関節を極め、制圧した。


今度は殺さなかつた。


「私は貴方の言葉に胸を打たれました。勿論、貴方の優しさにも・・・・・・」


鶴太郎は苦しんで声を上げ、思わず小さ刀も手放してしまつた。


「貴方は・・・・・・貴方は一体、どれほどの死を抱えてらっしゃるのですか。私を殺して、また重荷が増えるだけではありませんか」


結は鶴太郎を抑へながら云つた。


声に少し涙が滲んでゐた。


「黙れ・・・・・・黙つて殺せ」

「出来ることなら、私も共に、御座います」


結は鶴太郎を抑へてゐた手を離した。


鶴太郎は千鳥足になりながらも立ち上がり、未だ痛みの残る腕を抑えながら、結を睨みつけた。


「・・・・・・お前に、良い事を教へてやらう」


彼は懐に手を入れた。


そして例の金の包みを取り出す。


「これは、お身を殺した褒美ぢや」

「・・・・・・!」


其れが一体何なのか、結には見当もつかなかつたが、彼女は其れを一瞥した後、鶴太郎の眼を真直に捉えた。


「私はこれで・・・・・・何れ京へ征く。強者に取り入り、念願を果たす」


鶴太郎は足元の覚束ないまゝ、後退し始めた。


「人の死など重くもない。寧ろ糧ぢや。其れが現実ぢや。覚えておれ」


然う云い遺して、鶴太郎は視界の向こう側へと姿を消した。


結は最後まで其の背中を見つめてゐたが、彼が振り返ることは一度たりとも無かつた。


「・・・・・・どうして」


結は持つていた櫛を見た。


「どうすれば良いのでしょう。お母様」


父親は化け物に変はり、家族以外の人間には犬神筋と蔑まれる。


頼れるのは亡き母親だけであつた。


「・・・・・・!」


慌ただしい足音が聞こえてくる。


「居たぞ!」

「例の犬神筋ぢや!」


いつの間にか結は囲まれてゐた。


鶴太郎は此れを察して、自己の役割を果たしたと思ひ、彼女の元から逃げたのだ。


結は又裏切られた気分になつた。


「鶴太郎どの!」


彼女の声は舎屋の角の向こうへと飛んで行つた。


「私は・・・・・・私は、怒つています!」


其の切実な精神こころの叫びは、誰にも遮られなかつた。

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