第5話 鶴太郎

「鶴太郎どの。お師匠様とは、どのようなお人なのですか?」


場所は森の中であつた。

結と青年──鶴太郎の二人は連れ添つて、もうすぐ晩秋といふ晴天の下、緑の繁茂する深い森の中を歩いてゐた。

まだ冬は遠かつたが、此処は特別に山の高みであつたため、二人は肩を擦り付けて身体を温め合つてゐた。


「神のやうなお人ぢや」


鶴太郎は優しげな眉を高く上げ、行く先を見上げながら云つた。


「か、神様ですか・・・・・・」

「案ずるでない。犬神とはまるで違うわ」


結は其の鶴太郎を上目遣いでと見ながら山道を登つてゐた。


二人は、結の棲んでゐた或る国の末端から幾日も歩き、遂に鶴太郎の主人の館の近くまで来てゐた。

地理に疎い結は、此処が何処の国だか、何処の山だかも知る由は無かつたが、ただ山奥に佇む館といふだけで親しみが湧いた。


「わ、私を気に入つて貰えるでしょうか・・・・・・」

「お身は聡い。必ずや、お師匠様のお気に召すぢやらう」

「だといいのですが・・・・・・」


鶴太郎は、結の未だ不安さうな様子を見ると、其の足を止め、擦り合わせた肩を回して、結を此方に"ぐつ"と寄せてから小声で囁いた。


「お身に良い事を教へてやらう・・・・・・お師匠様はな、隠れた高貴なお血筋らしい」


結は鶴太郎の突然の囁きに対し、顔を瞬く間に紅く染め、胸の奥を震わせながら訊いた。


「・・・・・・ど、何処のお血筋なのですか」

「其れは判らぬ。ぢやが、彼の御方が天文道に関する膨大な知識をお持ちになるを見るに、私は安倍氏ぢやと睨んでおる」

「・・・・・・?」


結には安倍の氏が何を意味するのかは識らなかつたが、兎にも角にも高貴な血筋である事は何とか判つた。


「此の事は口外するでないぞ。二人だけの秘密ぢや」


結は其の蕩けるやうな言葉に正気を失いかけた。


「急ぐぞ。お師匠様がお待ちぢや」

「鶴太郎どの!」


結は思はず彼を呼び止めた。

今こそ、自己の気持ちを訴へるべきだと思つた。

其の小さい唇を遅々と開き、寒空に震えながら、少しばかりせて見ゆる彼に伝へた。


「私・・・・・・鶴太郎どのの事が──」

「云うな」


結は凍りついた。


「な、何故ですか」

「お身はまだ私としか逢つておらぬ。其のやうな女子に手を出すなど、男として自己を赦せぬ」


鶴太郎はまた歩き始めた。

過酷な山道を歩いて征く其の後ろ姿は、陽に照らされ、緑に囁かれ、神々しくも見えた。


結は談話しが不得手であつたが、鶴太郎の云つてゐる事くらい理解出来た。

彼女の胸は跳ねるやうに疼き、居ても立つても居られなかつた。


嬉しかつた。


「着いたぞ」


館は緑に溶け込むやうにして其の身を置いてゐた。

頭部は無数の枝に囲まれ、木々の間にも屋敷の壁が貫いており、其の体躯の全体像は見えない。

綺麗なのは門のみである。

此のやうな不思議な建物を官人が建てたとは思えないため、鶴太郎はと呼んでゐたが、先程の噂話を抜きにすれば、恐らくでは無いのだらう。


鶴太郎は門番の男達と何やら談話し合い、結を中へと通した。


中は大木の幾つか見られる大きめの庭が濶がつてゐたが、丁寧に整えられてゐる訳でも無く、正面に座る池と渡殿が此の"館"の大きさのみを物語つてゐた。


「結。此処が巫覡館ぢや」


鶴太郎は結を案内した。

渡殿を二人で歩き、お師匠様の元へと向かつた。

其間、結は何人かの人間とすれ違つた。

誰もが巫女服のやうなものを身に着けており、結の身に着けてゐる汚い装束とは真反対であつた。


「服が気になるか。大丈夫ぢや。直ぐに替えてくれやう」

「ありがとう、ございます・・・・・・」

「何ぢや。固まつておるのか」


結は腹が痛くなるほど緊張してゐた。

こんなに沢山の人と、一日のうちに触れ合う事など無かつたが故であつた。

鶴太郎との会話もさうであつたが、結は晰らかに経験が足らなかつた。


「大丈夫ぢや。直ぐに馴れやう」


然し結は前回とは異なつてゐた。

結には真直に前を見ることは叶わなかったが、ぴたりと鶴太郎の後ろに引つ付き、其の影に隠れて早足に渡殿を進むことが出来た。


「此処ぢや」


鶴太郎が立ち止まつたのは、何やら重々しい扉の前であつた。


家屋と家屋の間を抜け、人の通らない奥の奥の場所にあつた。


「ここに居られるのですか」

「そうぢや」


鶴太郎が其の扉を勢いよく開けた。

中は暗闇である。


「入れ」


結は云われるが儘、暗闇の中へと歩を進めた。

鶴太郎も同じやうに這入つて征く。


「あれ、お師匠様はお留守のやうぢや、喃」


だが然し、彼等の所望する人物は此処には居ないやうであつた。

暗闇の中は少し肌寒く、耐え難い恐怖の塊が蠢いてゐるやうで、結は無意識に鶴太郎の方を見た。


鶴太郎は凛々しい眉を寄せて、暗闇を見詰めながら暫く立ち止まつてゐた。が、突然歩き始めた。


彼は結の周りをぐるりと廻つた後、彼女の背後で再度立ち止まり、外からの光を背に思案してゐた。


然う、結は思った。


「私がお師匠様を探してくる。暫し待っておれ」

「・・・・・・鶴太郎どの?」


結は鶴太郎の様子に違和感を感じた。

声だらうか、其れとも顔つきであらうか、兎に角何処かに違和感を感じた。


結は鶴太郎に近づこうと、左脚を出す。


「・・・・・・!」


其れを見た鶴太郎は光の中へと走り、衣服を豪快に振つて此方を向き、先程とは比にならない程の勢いで扉を閉めた。


「鶴太郎どの?!」


結は扉を開けやうと必死に扉を押した。


押したが、全く動かない。


「鶴太郎どの!開けてください!何のご冗談ですか!」


結の額には冷たい汗が流れてゐた。

固く閉ざされた扉に其の汗が飛び散り、何度も突進した小さい肩は主人に感覚を伝えることすら出来なかつた。


彼女の顔は段々と悲哀の色に染まつていつた。


「冗談ではない。お身には死んで貰わねばならぬ」

「何を言って──」


背後から獣の声がする。


一、二、三・・・・・・一体何匹の犬神が居るのだらうか。


「さらばぢや」


鶴太郎の足音が遠ざかつて行くのが判る。

結は其れでも突進を止めない。


獣の猛る音が段々と増えていき、結の思考を奪つていく。


「鶴太郎どの!鶴太郎どの!」


裏切られた。


何がなんだか判らないうちに、其れだけが真実として結の身に襲ひかかつた。


「何処へ!何処へ行かれるのですか!」


獣の猛る音が大きくなつていく。


数を数える暇など結にはなかつた。


心の奥の、何か大事な部分が揺らいだ。


「私を助けてくださった優しさも、私を叱ってくれた厳しさも、偽りだったというのですか!」


其の瞬間、右腕に激痛が走つた。


其れでも結は叫ぶのを止めなかつた。


「鶴太郎どの!鶴太郎どの!!」


結は周りの敵を手当たり次第に攻撃し始めた。

何体にも何体にも打撃を加えていくが、一向に減る気配が無い。


藻掻くやうに、苛立ちをぶつけるやうに、傷ついた身体で犬神達を殴り続けた。


「鶴太郎どの・・・・・・」


結は遂に後退の兆しを見せた。  


無数の犬神が結を襲い続け、身体を蝕み始めた。


「貴方を・・・・・・」


脚を噛まれた。


結は其の場に倒れ込み、小さい身体の上に獣の体躯が折り重なるやうに載つていく。

獣の匂ひが鼻を刺すやうに薫り、其れに続くやうに左腕にも思わず叫び声を上げる程の痛みが走つた。


結の身体は、次々と、喰われていく。


「・・・・・・あいして、います」


結は遂に、絶望した。

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