第4話 あの川
さらさらと音を立てて、小川が流れてゐる。
川の際には草花が茂り、まだ暑さの残る空気を吸い、冷たい汗をかいてゐた。
その川の上から、獣の肉片が落ちた。
妙に重く、酷い匂いのする肉片は、水際の生命には大層嫌われたことであらう。
其の肉片が、何処かへと流れて征く。
「なんぢや。これは・・・・・・」
異臭放つ肉片は天然の木網にかかって雁字搦めになつてゐた。
まるで親子のやうであつた。
其の親子を見つめる男が居る。
青年とも、少年とも云へる、絶妙な年齢の男であつた。
彼は男らしい顔立ちであつた。
彼の身に付けた、神祇に仕へる真白な衣服が
「これは・・・・・・犬神か」
青年は振り返り、下流を見下ろす。
先程死体を確認した大きな屋敷と、豊かな自然が彼の目に映り込んだ。
そして、上流へと目を向ける。
「もう一人・・・・・・居るのか?」
彼は不安げな顔をしてゐた。
彼に任された仕事は、既に想定の範疇を超えてゐた。
彼のやうな新人に任される仕事ではなかつたのだ。
其れでも、彼は
彼は仕事を遂行することを決意した。
上流まで登つて征くと、彼より二つか三つほど小さな女子が目に入つた。
彼は其れを見て驚愕した。
彼女は大岩の上に座り、あの肉を喰らってゐたのだ。
ただの肉ならまだしも、犬神の肉である。
正気の沙汰ではない。
彼は息を呑んだ。
いま彼が対面しやうとしてゐる彼女は、足も竦むやうな化け物なのではないかと危惧してゐた。
彼は人が見た目に依らない事を知つてゐた。
「其処の女子」
岩の上の女子──結は、彼の声を無視した。
「其処の女子や。聞こえんか」
青年は気づいた。
彼女は何やら、ぶつぶつと独り言を云つてゐるやうだつた。
水面に向かひ、誰かに話しかけてゐる。
「お母様・・・・・・お母様も食べますか?」
其の声が聞こえると、青年は一安心した。
この娘は物怪に憑かれてゐるのだ。そうでなければ狐に化かされてゐるのだ。
神祇に比べれば、妖怪など我々を化かすのみで大した物では無い。
殆どの人間は妖の類を恐れるが、彼等は然うでは無かつた。
青年は結に近づき、肩を叩いた。
「女子よ。こんな所で何をしてゐるのぢや」
結は一度彼を見たが、何と云へば良いか判らず、眼の前の肉へと視線を戻した。
「なんと呼べばよい」
青年は優しげな声で問いかけた。
結は怯えたやうな眼を
「結よ。いま一度訊く。こんな所で何をしておるのぢや」
青年は優しい声色のまま問ふた。
結は声を出そうとしたが、震えからか、掠れからか、全く出なかつた。
其れを見た青年は結に水を飲ませ、落ち着かせた。
隣に座り、背中を擦つた。
「私・・・・・・お母様とご飯を食べてたの」
結は恥ずかしさうに話し始めた。
「これ美味しいのに、お母様は嫌いだつて言うの」
「美味いのか」
青年は聞き返しただけであつたが、結は上手く対応出来てゐなかつた。
此れは結が人見知りであるが故とも云へるが、近い年頃の男と話したことが無い故と云ふ方が幾分正しい。
彼女は回答に困り、ぎこちない笑顔を浮かべた。
「・・・・・・あれ?」
肉を見つめてゐた眼を、青年へと移そうとしたが、結の視線は水面の上で止まつてしまつた。
「お母様?・・・・・・お母様、何処です?」
結は突然立ち上がり、周りを見廻した。
「どうしたのぢや」
青年も立ち上がり、ふらふらと揺れる結を両の手で支えた。
「お母様!お母様!私を独りにしないで!独りにしないで下さい!」
「落ち着くのぢや」
結は青年の大らかな胸の中で藻掻いた。
青年は結を優しく抱きしめ、背中を擦つた。
青年の仕事は順調であつた。
「落ち着いたか。もう母親は見えぬか」
「見えない・・・・・・見えないよぉ」
結は泣き始めた。
まるで赤子のやうな様子であつた。
青年はそんな結を受け入れ、黙つて彼女の快復を待つた。
小一時間ほど経過したであらうか。
結は落ち着きを取り戻してゐた。
青年は物怪やら狐やらが退散したと思ひ、彼女の拘束を外した。
結の眼は不完全に開いたまま虚空を見つめ、両腕は脱力し、口は半開きのまま座り込んでゐた。
「結よ。何があつたか教へてくれぬか」
結は
話しているうちに涙が溢れてきて、遅々とした言葉が、更に遅々と聞こえて来る。
其れでも青年は優しく話を聞いてゐた。
今まで、外の人間と
「犬神を殺した?」
だが時々、青年でも思わず聞き返すほど信じられない事があつた。
結は狼狽えた。
「やっぱり、殺しちゃ駄目ですよね・・・・・・神様を殺してしまうなんて・・・・・・私はどうなってしまうのでしょうか」
又泣き始めやうとする結を、青年は優しく励ました。
「大丈夫ぢや。ほれ見ろ、今こんなに元気ぢや」
「・・・・・・でも──」
「大丈夫ぢや」
青年は次の手を決めてゐた。
其れを実行する為、彼は結の手を取り立ち上がつた。
「他に何か言い残した事はないか」
「・・・・・・無いです」
「なんぢや。隠さず云うてみい」
此の頃には既に、結は青年の事を信頼してゐた。
元々明るい性格だつたのだ。
一度談話し始めれば容易い。
「あの・・・・・・人も・・・・・・」
「人?人がなんぢや」
結は、身体の膿を全て吐き出すやうに云つた。
「男の子も一人、殺してしまいました」
無論、青年は絶句した。
「でも仕方無かったんです!・・・・・・あの男は盗人だったから・・・・・・お父様の小刀を盗んだ・・・・・・」
結は必死に声を出してゐた。
だが今までに無いほど饒舌であつた。
身体の中に蠢く魔物が、一匹ずつ跳ねて口から飛び出し、其れが何体も何体も永遠に続くやうにさへ感ぜられた。
一方、青年は今までとは違う顔を見せた。
「お前、人殺しに言い訳するのか」
青年の眼は、先程の優しげな青年からは想像も出来ないやうな鋭い眼をしてゐた。
高らかだつた眉は低く寄り、結を癒やした声は硬い拳のやうに結の
衝撃で又魔物を吐く。
「違います!私は──」
「人殺しが違うのか」
「いや!・・・・・・そうじゃなく──」
「なら何故所以を語る!」
結の身体は凍りついた。
「どんな理由があらうと人殺しは悪ぢや。誰かに人を殺させるのも、人を殺す掟があつても、人を殺すことを想像するのも、相手が悪人であつても、全て悪ぢや」
結は、己の全てを否定されてゐる気分になつた。
父親ともう一人。
結の小さい身体には其の命の重みは到底抱えきれるものでは無かつた筈だ。
仕方無かつた。
心の奥底まで浸透するやうに、自己に云ひ聞かせる。
「でも・・・・・・でも!」
「仕方無かつた?其れは責任から逃げてゐるだけぢや」
青年は冷徹に結の言葉を潰していつた。
結の逃げ場は何処にも無くなり、自己の精神さへ、迎へ入れてはくれなかつた。
「でも、でも──」
結は遂に、語るべき言葉を失つた。
低く跪いた彼女に、青年は屈んで近づいた。
「罪は背負うのぢや。まだやり直せる」
青年は一変、優しい声音で励ました。
「
結は顔を上げた。
いつの間にか、涙が溢れてゐたやうだ。
結は涙を拭い、青年の顔を見上げた。
視界が、
「巫覡館に来い。お師匠様が面倒を見て下さらう」
結は込み上げてきた想いを抑へる訳にはいかなくなつた。
青年の胸の中へ飛びつき、彼の肩を涙で濡らした。
「ごめんなさい・・・・・・!ごめんなさい・・・・・・!」
小川がさらさらと流れてゐる。
青年は、仕事を完遂した。
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