第3話 はじめて
急斜面に伸びた山肌を駆け下り、父親が遺した唯一の門を潜り、結は貧しい麓の村に着いた。
空には美しい月が浮かび、暗雲も何処かへと鳴りを潜め、蟋蟀の鳴く茂みに囲まれて、其の村はひつそりと集まつてゐた。
村には何軒かの竪穴住居が点在し、其の先には米庫と思われる高床倉庫、そして田畑が濶がつてゐた。
都に程近い村々には、長屋といふべき住居が一般的であつたが、少し外れた貧しい村々では此のやうな形態がよく見られた。
「御免下さい」
結は村を一通り徘徊した後、何処にするか決めかねて、其時一番近くにあつた住居を訪ねた。
屋敷に棲んでゐた結にとつては見窄らしく感ぜられた筈だが、幼い結はそんな邪心を持たなかつた。
結は未だ純心であつた。
其の竪穴の中から、髭面と抜け落ちた二本の歯がよく目立つ、一人の男が苦い顔をして這い出て来た。
「なんぢや。こんな夜更けに」
「すいません。山の上の結といいます・・・・・・えーっと・・・・・・あの・・・・・・」
前述した通り、結は山の外に征く事を赦されてはゐなかつた。
其れ故、彼女は父親と母親以外と
はじめてであつた上、酷い顔で睨まれてゐたのだから仕方が無かつた。
「あの家ぢや」
男は結の目的を察してゐたやうであつた。
其れでも尚、不恰好で不機嫌な目鼻を晒しながら、指を差した。
男が指差す方角には、此れ又一軒の家があつた。
六本の木の棒に、藁の天井、藁の壁のみが充てがわれ、秋風を堪え、冬の凍えを堪えても、春の嵐が全てを吹き飛ばしてしまいさうで、望み溢れる未来は見えなかつた。
竪穴住居よりも、更に貧しい。
「え・・・・・・あ、はい。ありがとうございます」
結は最後まで相手の眼を見ることも出来なかつた。
礼を申し上げるのが限界であつたのか、小さい唇を益々小さくして、男の指差す方角へと、早足に向かつた。
胸の奥がむずむずとしてゐた。
頭の髄が熱くなつてゐた。
細い息はより細くなり、いま始まらうとしてゐる新たな交流に対し、避け難い強い不安を抱いた。
小さく見えた藁の家が段々と大きく見え、歩みも緩やかになつた時、己の心音が聞こえてくる程であつた。
「犬神筋めが」
其のやうな声が聞こえたのは、空耳の筈だつた。
────────────────────
「御免下さい」
結は藁の向かう側へと呼びかけた。
藁の壁からは独特の匂ひが流れ出てゐた。
結の声は震えてゐたが、親しい匂いは其れを柔らげた。
「・・・・・・」
然し、藁の向こうから声は返つて来なかつた。
夜の更けた村には静寂が横たわり、結の足元を寒風が凍えさせ、先程まで鳴りを潜めてゐた暗雲も、満足な月の顔を汚し始めた。
結は迷つてゐた。
先程の空耳が頭に染み付き、結の身体の芯を震えさせ、其の混乱は理解し難い躊躇を与へてゐた。
結は己の手中に在る櫛が気になつた。
母親の声、顔、そして記憶が呼び起こされ、凄惨な骸の姿、美しい母親の姿が同時に浮かび、複雑な精神をより搔き乱した。
結は其の混沌を認知してゐた。
認知してゐたが故、己を奮い立たせることが出来た。
結は意を決して、もう一度声を絞り出した。
「御免下──」
「去れ!!」
裏返った声が闇を引き裂いた。
あまりに唐突だつたが故、結も怯むことは無かつた。
「あの・・・・・・私、山の上の結です。今晩会う約束を──」
「黙れ!!」
二度の拒絶を経て、結にもやうやく理解が追いついた。
いや、あの"空耳"を入れれば三度目であらう。
父親は嘘をついてゐた。
村の人間は親切だと教へてくれた。
だが現実は違つた。
結達のことを「犬神筋」と呼称し、忌み嫌つてゐたのだ。
結の
「ああ!此の世の終わりぢや!孤児といふだけで・・・・・・何故私なのぢや!!」
畳み掛けるやうに、狂乱した男子の声が響いた。
此れだけの騒ぎが起こつても、誰も起きて来ない。
其れだけ予測されてゐた事態であつたといふ事だらうか。
結は、遠くから自分を見ているやうな気分になつた。
「ああ・・・・・・成りたふない成りたふない!犬神筋なんぞに成りたふない!!」
結には自分の感情が理解出来なかつた。
精神が切り刻まれた痛みも感じなかつた。
血も流れていなかつた。
ただ──
「犬神筋なぞ!一族の恥ぢや!」
ただ、眼の前の人間が赦せなくなつてゐた。
「死んだほうが──」
空気が動いてゐた。
空気の流れが、幾分か結の身体を撫でながら、曲がり曲がりくねって、冷たさを帯びた魂の芯を揺らし始める。
男子が飛び出してきた。
藁の葛がはらはらと舞ひ、匂ひを掻き消した。
「いっそのこと、死んだほうがましぢや!!」
唾を飛ばしながら、すれ違いざま言い放つた。
男子からは女子の髪しか見へていなかつた。
その髪が僅かに動いた。
男子は先ず虚に違和感を感じ、次に
そして、其の人肌の熱が首筋へと駆け上り、其れに合わせて、眼の前の景色も空へと消えた。
「あ・・・・・・」
男子の眼には満月が映つた。
静寂の夜に、気味の悪い音が鳴つた。
男子の首は不自然に曲がり、細い身体はゆらゆらと揺れて、倒れた。
「・・・・・・お母様」
震えに震えた手から、櫛が零れ落ちる。
「お母様も・・・・・・こんな風に?」
土に埋まつた櫛を、結は何度も何度も拾おうとしたが、指先は其れを拒絶してゐた。
「お母様だけが・・・・・・お母様だけが人間なのに・・・・・・!」
櫛に付いた血は既に乾き、茶色く濁つてゐた。
結は其れを置いたまま立ち上がり、藁の家の中へと進んだ。
中には殆ど何も無かつた。
「あ・・・・・・」
だが、結の目に止まるものがあつたやうだ。
「これ。お父様の・・・・・・」
結が持ち上げたのは刃物だつた。
少しばかり値の張りさうな、鉄製の刃物で、ずつしりと重かつた。
結は其れを持ち、手に馴染ませた。
見事な刃捌きだつたが、結自身も確信を持つたやうで、己が曾て鍛錬で使用したものであつたことが判つた。
「何だ。あいつ盗人か。なら・・・・・・」
結は床に落ちてゐる鞘をも拾ひ上げ、懐にしまつた。
外へ出て櫛も拾ふ。
「・・・・・・何?」
眼の前から、新たな生物の気配がした。
「まだ生きてたの?」
犬神だつた。
「その目、やめて」
犬神は涎を垂らして結を見つめてゐた。
夜風は生温く二人の間を縫い、結の身体をより緩めた。
「やめないんだ・・・・・・」
結の声は又もや獣に届かなかつた。
結自身も其れは承知の上であつた。
「じゃあ、消えて」
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