第2話 顕現なさる

「お父・・・・・・様?」


母親の悲鳴に駆け付けた筈なのに、口から溢れたのは母親を呼ぶ声ではなかつた。


月光が結の背中を刺すやうに焼き、鋭い痛みが結の胸の奥を傷つけた。

影は長く伸びてゐた。


「なんで・・・・・・」


結は立ち尽くしてゐた。

視線は一点に集中し、身体の奥の傷口が熱くなつた。


「嫌だ・・・・・・」


目の前には父親がゐた。

だが奇妙な様をしてゐた。

父親の身体の半分に、恐ろしく深い毛が生えてゐる。


其れだけではない。


その毛が次々と、もう半分の身体を侵食し、目は潰れ、歯は埋もれ、新しい獣の眼と鋭い歯が生えた。


父親が人間でなくなつた。


「お母様・・・・・・」


父親だつた獣の右手には大量の血が付着してゐた。

その血の滴る先には、母親の骸が横たわつてゐた。


「嫌だ・・・・・・お父様・・・・・・嫌です・・・・・・」


結は未だ、眼の前の狼を父親だと信じてゐた。

今にも結を喰い殺さんと、その獣眼を轟かせてゐるのに、それなのに、結は躊躇つてゐた。


其れには理由があつた。


結が七つの時である。


「いいかな。この箱の中には、私たち家族の大切な大切な護り神様がいらっしゃるのだよ?」

「神様?」


父親は結に云つた。


犬神様いぬがみさまだよ」

「犬神様?」


父親は結に説明した。

この神様は我が家に幸運を齎すといふこと、この神様は代々受け継いできたものだといふこと、この神様を護る為に強くならなくてはならないといふこと。


「私、いっぱい頑張る!」


結も父親の言葉をすんなりと信じた。

当時は、迷いなど無かつた筈だ。


だが今は。

今は違う。

眼の前には狼──犬神らしき生物が居り、しかも其れが父親自身であつた。


「犬神様!父を返しては頂けませんか!私と父は、貴方様の・・・・・・!」


犬神の身体は結の二倍近くあつた。

針のやうな剛毛と、丸太のやうな太い腕、脚。

鋭い鉤爪が貧しい光を反射してゐた。

結の言葉など通じておらず、遅々ゆつくりと間合いを詰めやうと、体躯を丸めてゐた。


一方結の身体は強張つてゐた。


「私は、貴方様の──」


犬神が、動いた。


結の身体は真先に緊張を解き、ほんの僅かな時で臨戦態勢を整えた。


思考は停止してゐた。


振り下ろされた鉤爪を避け、その丸太のやうな腕に触つた。


そして撫でるように捌く。


するとみるみる犬神は自由を奪われ、動きが止まつた。


結は生かさず殺さずの状況が作ることに成功した。

だが其れは無意識に依るものであつたやうだ。


結は瞬く間に二種類の打撃を入れていく。


一つは鴉のやうな甲高い音が鳴り、一つは滝壺のやうな鈍い音が鳴った。

其れを大凡おおよそ獣の急所であらう場所に的確に入れていつた。


犬神は、獣の闘争心が折れるよりも先に地に膝を付き、其の儘突つ伏した。


結が犬神の関節を曲げると、犬神は叫ぶやうな声をあげた。

あまりに酷い金切り声に、屋敷の支柱が揺れてゐた。

其れでも結は止めなかつた。


結は獣の首を折つた。


如何にと云はれても、折つたとしか云ひやうが無い。

唯一つ云へる事は、あの小さい足を獣の上に乗せて折ったといふことだ。

それほど静かに、殆ど動かずに獣の息の根を止めたのだ。


結は其の数秒に満たない攻防を制した後、自らの過ちを認めた。


「あ・・・・・・でも・・・・・・お父・・・・・・」


後悔は蟲の大群のやうに濶がつた。

だが同時に、生き延びたといふ充実感と獣を討ち取つたといふ高揚感にも襲われた。


「嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ」


遂に、己が独りであることを自認した。


母親も殺され、父親は己が殺した。


心の中の混沌は中々整理されなかつた。


「私が・・・・・・悪いのか?」


違う。


直ぐに答えが返つて来た。


「お父様が・・・・・・お父様が・・・・・・こんなのになるから・・・・・・」


結は狂乱の寸前まで行つた。

混乱する己が身を、脳味噌が無理矢理正当化させやうとしてゐた。


結は心身共に健康な女子であつた筈だ。

だとしても、この惨状を眼の前にして其れを保つてゐる事など不可能であつた。


だが彼女は稀に強い精神を持つてゐたやうだ。


「そうだ。あの男の子に助けてもらおう。今日会う予定の、あの男の子」


煩雑な葛藤を他所に置いて、結は他力本願となつた。

狂乱する依りは幾分ましであつた。


唯一無二の助け舟に乗る為、獣臭さを打ち消すやうに香を焚き、結は支度を始めた。


香は例の貰い物であつた。


支度が出来ると、震える手で母親の握つてゐた櫛を取り、家を出た。


外には満足な月が浮かんでおり、秋の虫が鬱陶しいほど鳴いてゐたが、もう蝶々は飛んでゐなかつた。


「きっと大丈夫。お母様もお父様も、大丈夫」


強き結の精神は、幻の希望に縋る程、衰弱してゐた。

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