第一章 イヌガミ

第1話 結

獣のやうな産声をあげて、女子おなごが一人産まれた。

大きな瞳、力強い四肢。

早くも強い生命力を感じさせる我が子を見て、人間の母親は微笑み、父親は女子を"ゆい"と名付けた。


「結。こっちにおいで」

「はい!お母様!」


烏の羽のやうな黒く短い髪に、紅く染まった美しい櫛が通つていく。

未だ童頭わらべあたまの結は、髪の毛を母親に梳かして貰ふことが日課であつた。

朝に一度。寝る前に一度。

母親と娘との団欒の場であつた。


然し、山奥に佇む貧しい貧しい家屋の懐に、櫛等くしなどという贅沢品が在るのかと云われれば答えに困る。


実のところ、櫛は拾い物であった。

其れを懐にある物と云えるかは状況に依る。

但し、彼等の棲む世は平安も盛りを過ぎた頃であるから、拾つても盗んでも己の物だと云つて良いだろう。


櫛は彼女の物である。


「お母様。御山の外には何があるの?」

「御山の中がたくさんあるのよ」


結は感嘆の相槌を打つた。そして重ねた。


「なら、御世は天国だね!」


御世は地獄であつた。

疫病、凶作、火の災い、夜道の盗賊、都の腐敗。

人々は困窮し、あらゆる災厄が世に蔓延つてゐた。無論彼等も例外ではなかつた。

寧ろ、世が不況に陥る度に苦しむのは彼等のやうな鴉めのく家であり、彼等と似た他の家々は幾つも滅亡した。

だが彼等は首の皮一枚で生き残つてゐた。

無論、其れには理由があつた。


「お父様!おかえりなさい!」

「ただいま。今日も頂いてしまったよ」


然う云つて父親が見せたのは粟であつた。

様々な様式の汚い小包に納められてゐた。

小包は両手の指の数程あつた。


「村人の方々は皆優しくて助かるよ。御山の恵みだけでは到底食べていけないからね」

「私も外に出たい!」

「まだ結には早いかな」


落胆する結を励ますやうに、父親は結と戯れ始めた。

戯れとは云つても、貴族のやうな遊戯ではなく、少々稀有なものであつた。


結は父親の腹を殴つた。


父親は微笑みを崩さない。

結も笑顔を絶やさない。


もう一度殴つた。


父親は又もや表情を崩さなかつたが、今度は太い木の板を、齢五つの結に持たせ、其処へ目掛けて拳を振つた。


結の持つた木の板は真二つに割れた。


「もう一度やってみなさい」


結は笑顔のまゝもう一度父親の腹を殴つた。


「さっきよりも良くなったね。さあ、もっと打ちなさい」 


其のやうな奇妙な日々が、十年程続いた。

其の頃には都の不景気も幾分か快復し、天の御機嫌も良かつた。

盗賊も減つた。

飢饉も起こらなかつた。

崩れかけた平安の世は、再興の兆しを見せていた。


そんなある日。

結は山の外がどうしても気になつた。

父親との日課を終えた後、父親が山を降りたのを見計らつて、山中を駆け下りた。


彼女は外に出たかったのだ。


「崖かあ・・・・・・」


やつとの思いで辿り着いた山の縁は、大きな崖であつた。

その縁を順に廻つても崖が続いていた。

まるで、此の世の末端のやうである。


「やっぱり、入り口は一つだけか・・・・・・」


其の入り口は父親が使ってゐた。

無闇に近づくと足跡等の痕跡が残り、必ず父親に見抜かれてしまう。


「あ・・・・・・」


崖を巡回し終え、もう帰らうとした時、木々の隙間から外がちらりと見えた。

結の大きな瞳は直ぐに其れを捉え、と見つめた。


「うわあ。綺麗だなあ」


隙間からは、美しい着物に身を包んだ少女が見えた。歳は同じ程しか食ってゐないのに、自己おのれより幾分優せて見えた。


結は更に眼を凝らした。


少女の顔立ちは息を呑む程美しく、同じ理に支配されてゐるとは考えられなかつた。

彼女の周りには、様々な色の蝶々が飛んでおり、彼女の存在を際立たせてゐた。


魔性の力さへ、感じる程である。


「いいなあ・・・・・・」


結は其れを見届けた後、興奮した心のまま山中をゆつくりと戻つた。

家が見えてくると、父親が険しい顔で座つてゐた。


「何処へ行っていたのかな」


鋭い眼光が結を凍らせた。

結は父親に嘘をつけなかつた。


「・・・・・・ごめんなさい」


結は、己の身にどんな罰が下されるのかを不安に思つていた。


罰には様々な物があつたが、中でも断食は特に嫌つていた。


日課と評したやうに、結にとつて"鍛練"は苦ではなかつた。

水場でも山場でも何でも御座れであつた。


だが腹が減るのは困る。

結は動けない恐怖を何よりも恐れてゐた故であつた。


結は目を伏せてその場で立ち竦んだ。

ただでさえ空腹なのに、今から断食等と云はれるとよりひもじくなる。


然し、父親は結に罰を下さなかつた。

父親は重い溜め息をついた後、微笑んで云つた。


「そろそろ、頃合いなのかな・・・・・・」


父親の優しい声を聞いて、結の顔は一気に明るくなつた。


頃合いとは、何の頃合いなのか。

其れは陽が隠れればあきらかであつた。


「結なら大丈夫よ。お友達になれるわ」

「うん!」


結は山の麓の男子と逢うこととなつてゐた。将来は夫婦めおとになるのだろうか。

使い古したあの櫛で、今晩も髪を梳かしていた。


十五夜の月が耀く夜だつた。


「お母様・・・・・・厠に行ってきてもいい?」

「どうぞ」


結は母親なもとを離れ、用を済ませた。

部屋へ戻る最中、月光のなかと飛ぶ蝶々に目を奪われた。


「綺麗だなぁ」 


其のうちの一頭が、母親の寝室へと這入った。


「なんだろう・・・・・・」


結が不思議に思つて歩き出した瞬間、静寂を切り裂くやうな女の悲鳴が轟いた。


「ぎゃああああ!」


母親の声であつた。


結は一目散に寝室へと駆けた。


彼女の足は猛犬よりも猛虎よりも速く、寝室へと伸びる木の床に亀裂を走らせた。


其れでも寝室は遠い。


ほんの十数尺ほどの距離が、とても遠く感ぜられた。


「・・・・・・」


結の俊足は音を立てて止まつた。


寝室の前で、石のやうに固まつてゐた。


彼女の唇は小刻みに震え、何かを見上げる眼は大きく見開かれてゐる。

何度も嗅いだやうな、一度も嗅いだ事の無いやうな匂いが鼻の中を充たし、云ひ知れない感情が腹の中で渦巻いた。


「お・・・・・・」


獣の産声が、あがつた。


「お父・・・・・・様?」 

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