第116話 悔恨と贖罪

 呆然とするクリエス。一気呵成に攻め立てようとしたことが裏目に出た。あろうことか命よりも大切に想う人が傷つけられている。彼女の足が引きちぎられる瞬間を目の当たりにしてしまった。


「ヒナァァッ!?」


 直ぐさま駆け寄り、クリエスはハイヒールを唱える。しかしながら、止血できただけで左足の再生とはならない。


「大丈夫か!?」


 悲痛な声を上げながら、ヒナは頷く。

 とりあえずは出血は治まっている。けれど、引きちぎられた左足は目を背けたくなる惨状に他ならない。女性であるだけでなく、公爵令嬢でもある。ヒナが四肢の一つを失うなんて最低な現実であった。


「クソ野郎が……」


 怒りに打ち震えるクリエス。自身の怠慢や油断。加えて実力不足。更にはヒナを狙った魔王ケンタなど怒りの矛先は多岐に亘る。そのどれもが我慢ならず、怒りが収まることなどない。思わず噛んだ唇からは血が流れ出していた。


「ふはは、生き長らえたか! しかし、後悔することになろう。俺様は別に腕も足もいらぬ。生きてさえいれば、我が慰みとなるのだからな!」


 ケンタはニヤリとした笑みを浮かべている。彼としてもヒナが絶命することを望んでいなかったらしい。結局は殺めることになっても、生きてさえいれば使い道があるのだと。


「るせぇよ……。てめぇは俺を本気で怒らせた……」


 クリエスは声を震わせながら、魔王ケンタに告げる。彼の想い。彼が願った全てを。


「前世から決まってんだよ……」


 怒りに満ちた声。大地をも震わす怒りが発せられていた。


「この女は俺のものだと決まってんだよォォッ!!」


 言ってクリエスは斬りかかっていく。超回復の効果を少し遅らせるだけ。彼は魔王ケンタに対して決定力を持っていないというのに。


「死ねぇぇえええっ!」


 怒りにまかせてクリエスは斬り刻む。袈裟懸けに斬っては返す刀で斬り上げる。回復する隙を与えない作戦なのか、クリエスは斬り続けていた。


「効かぬ! 俺様こそが世界最強だからだ!」


 残念ながら勢いだけでは魔王に対して優位に立つなど不可能だ。超回復がある限り、クリエスに勝ち目はなかった。


「ちくしょう……。どうして俺は魔王に勝てねぇんだ……?」


 悔しくて堪らない。愛する人を傷つけられたというのに、何もできない自分自身が。


「世界って奴は今も見てんだろ!? ならどうして俺に力をくれない!? 俺は願ったはずだ! 魔王を圧倒できる力が必要なんだ! 世界って奴がいるなら、俺の願いを叶えてくれ!!」


 クリエスは訴えていた。主神である女神ではなく、漠然とした存在に。まともに機能しているのか分からぬ世界という事象に対して。


「どうか俺に力を――――」


 神頼みよりも情けないと分かっている。だが、クリエスは願わずにいられない。全てはヒナを守りたいから。命よりも大切な人に生きて欲しいから。


「俺は魔王を倒してぇんだよォォッ!!」


 心からの叫び声が轟く。腹の底から張り上げたその声は天界まで届いたかもしれない。


 世界からは何の反応もなかったけれど、クリエスは愛刀を手に斬りかかっていく。勝算などなくても、彼には刀を振り続ける理由があったからだ。


 ところが、刹那に異変が起きた。まるで予期せぬこと。これまでと変わらず、魔王ケンタの脚を斬り落としただけだというのに、クリエスの望みは叶っていた。


『スキル【剣豪】の熟練度が100になりました』


 まるで気にしていなかった。強者を斬り続けたおかげか、剣豪の熟練度がマックスとなったらしい。


『スキル【剣豪】は【剣聖】に昇格しました』


 俄に希望を見出すクリエス。剣豪はクリティカルヒットを誘発するスキルであった。だとすれば剣聖はそれ以上の効果が期待できるというもの。


 だがしかし、どうしてか通知が続く。尚も脳裏に響くそれは次なる選択をクリエスに迫る。


『スキル【剣聖】はスキル【ジャッジメント】とサブジョブ【竜滅士】の複合統合が可能です』


 いつも通りに統合先の情報はもたらされない。悩む場面であったというのに、クリエスは即決していた。もう失うものは何もないのだと。


「統合しろォォッ!!」


 二つのスキルとサブジョブの複合統合。竜種特効が気になるところではあったけれど、サブジョブが強化されるなら、ステータス補正が加わるはず。剣聖よりも強くなることを信じてクリエスは統合を選択していた。


『サブジョブ【竜滅士】は……』


 このあとクリエスどころか天界の女神ですら想像もできない事態となる。シナリオを構築しただろう世界の意志にしか理解できない統合を遂げている。


『【勇者】に昇格しました――――』



 ◇ ◇ ◇



 天界では誰も言葉を発しなかった。どこまでが世界の思惑通りなのか一人として理解できない。あろうことかサブジョブに【勇者】だなんてと。


「信じられない……」


 勇者は神格を持たない最高ランクジョブである。回りくどく昇格した結果は天界の誤った誘導のせいかもしれない。しかしながら、世界は事もなげにクリエスを勇者としていた。


「ディーテ様……?」

「誠に遺憾ながら、世界はワタシたちが犯した失態の尻拭いをしてくれたようです……」


 シルアンナの問いには弱々しい声で返答がある。

 良かれと考え女神たちは神託を出した。しかし、恐らくその行動は世界にとって想定外だったのだろう。ここまでの昇格は世界が苦労したあとがよく分かるものであったのだから。


「世界は初めからクリエス君を勇者に選定していたのですね……」


 予定と異なったと判断できる理由はサブジョブであったことだ。サブジョブでは本来の力を発揮できない。だからこそ余計なことをしたのだと分かる。


「この先にアストラル世界が滅びるのであればワタシの責任です……」


 ディーテが力なく続けた。

 千年前から空回りし続けた彼女。この大一番でも足を引っ張った事実を悔やむ。余計な動きさえしなければ、世界はメインジョブに勇者を据えていたかもしれないのだ。


「シル、クリエス君に祈りを捧げましょう。彼が現状を打開していくと信じてワタシたちは結果を待つのみです」


 魔王ケンタとの戦いにおいて天界が介入する余地はない。あとは信じて待つだけだ。世界とクリエスをただ信じるだけであった。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 クリエスは呆然と立ち尽くしていた。なぜならサブジョブが勇者となっただけでなく、今も通知が終わらなかったからだ。


『サブジョブ【勇者】はメインジョブに昇格可能です。昇格しますか?』


 本当に意味が分からない。いや、確実に理解していたけれど、この状況がクリエスには飲み込めなかった。


「世界は俺に何を望む……?」


 問われていたのに質問を返すようにしてしまう。

 クリエスはまだ通知に返答していなかったというのに、どうしてか勝手に事が進んでいく。


『メインジョブは【勇者】となりました。サブジョブ【パニッシャー】はスキル変換を行います』


 問答無用で変換されていくパニッシャー。クリエスは世界に委任したつもりもなかったのだが、現状は明らかに世界が主導となり、クリエスのステータスを変更していく。


『スキル【裁く者】を獲得しました』


 ゴクリと唾を飲み込む。正直に何も理解していないけれど、獲得したスキルをクリエスは確認していた。



【スキル】裁く者

【種別】戦闘スキル

【レアリティ】SSランク

【説明】如何なる防御・恩恵も無効。魂を削り取る。世界を導く力。

【補足】勇者専用スキル



 クリエスはふぅっと長い息を吐いた。過程を無視したような一連の昇格であったけれど、勇者となり勇者専用スキルを獲得してしまっては受け入れるしかない。


「俺は勝てるのか……?」


 問題はその一点のみ。左足を失ったヒナが今も気になっている。早々にこの戦いを終え、彼女の元へと駆け寄りたい。クリエスは魔王討伐だけでなく、ヒナの負傷という新たな問題を抱えているのだから。


「俺はもう誰も失わねぇぇっ!!」


 叫びながら魔王ケンタに斬りかかった。勇者補正が加算されたのは間違いない。けれども、今まで扱っていた剣術が全て嘘であったかのように、長刀は素振りよりも滑らかに、抵抗なく振り切れている。


 目を見張る光景。クリエスは何度も繰り返した右脚を切断しただけ。けれども、魔力を帯びた一太刀は魔王ケンタの胴体にまで届いている。斬り裂いたあとからは、はらわたが飛び出し、魔王ケンタが悶絶していた。


「ぐあぁあぁぁあああっ!?」


 ここに来て初めてクリエスは勝機を見出している。

 一太刀で理解した。勇者専用スキル[裁く者]の効果を。悪を屠るべきそのスキルが魔王ケンタに罰を与えているのだと。


 如何なる防御・恩恵を無効化する[裁く者]により、魔王ケンタの超回復は鳴りを潜めている。切断された右足や、斬り裂かれた腹の傷も癒える様子はない。


「魔王ケンタ……」


 クリエスはここが踏ん張りどころと愛刀を振りかぶっている。勇者として世界を救うのだと力を全て吐き出していた。


「天へと還れぇぇえええっ!!」


 クリエスの一撃は体勢を崩した魔王ケンタの首元を捕らえている。戦闘が始まってから初めて致死に達する攻撃を加えていた。


 さりとてクリエスは手を止めない。返す刀でありったけの魔力を放出している。


「ボイウェェエエエエブ!!」


 とどめとばかりに撃ち出した魔力刃。悔いを残さぬつもりで全魔力を注ぎ込む。ここが勝負所なのだと直感して。


 目一杯の魔力を込めた魔力刃はケンタの巨躯を覆うほどの範囲に拡がっていた。既に首を斬り裂いていたけれど、クリエスが撃ち放った魔力刃は魔王ケンタの胴体を真っ二つとしている。


「じ、人族如きに……」


 首元を裂かれ、胴体も切断されていたけれど、魔王ケンタはまだ声を上げていた。

 しかし、それは断末魔の声に過ぎない。


 終始、優性に立っていたはずの魔王ケンタ。持久戦になったとして負けるはずがなかった。超回復さえあれば死ぬことはなかったはず。だが、戦闘の結末は彼が想定したものと一致していない。何が起きても回復していた身体は切断されたままであり、はらわたが飛び散ったままだ。


「どうして……なのだ……?」


 言ってケンタは動かなくなった。イーサのニルヴァーナからも生還した彼であったが、血と贓物を撒き散らしたまま息を引き取る。


 どうやら魔王は天へと還ったらしい。溜め込んだ魂強度を解き放ち、この世で手に入れた全てをクリエスへと託して。


 今までにない強烈な突風がクリエスへと向かう。前屈みとなり、足を踏ん張らなければその勢いに負けてしまいそうになるほどだ。


 魔王ケンタの横暴に関しては幾らでも文句があったし、彼が手に入れた魂強度には少なからず被害者も含まれている。

 何とも皮肉な話であったけれど、クリエスは全てを受け入れていた。拒否するなどできないし、自分が引き継ぐことで救われる人が生まれるはず。それがせめてもの供養ではないかと。


『レベル2405になりました――――』


 竜巻のような魂強度の継承が終わると、レベルは遂に2000を超えた。今や魔王候補イーサと変わらぬレベルに達している。



【名前】クリエス・フォスター

【種別】人族

【年齢】17

【ジョブ】勇者(ネクロマンサー)(魔王候補)

【属性】光・闇・雷・火・風・土

【レベル】2405

【体力】3782

【魔力】3415

【戦闘】3587(+358)

【知恵】3323

【俊敏】3490

【信仰】4008

【魅力】3011(女性+480)

【幸運】459(+4590)

【加護】シルアンナの寵愛



 ステータスを確認すると、やはり勇者であった。


 茶番ともいえる昇格を繰り返し、クリエスは勇者に選定されている。

 この事実には考えさせられてしまう。力を得たこと。女神たちは言うに及ばず、世界もまた自分に期待している。勇者というジョブを得た事実は世界を背負って生きること。クリエスは今まで以上に奮起しなければならないはずだ。


 ふと、クリエスは感慨にふける場面ではないことを思い出している。


「ヒナ!?」


 クリエスを助けるため、聖域を解いた彼女。出血はハイヒールにて収まっていたけれど、その後の彼女が気になった。


 振り返ると後方に横たわったままの彼女がいる。もう見慣れた制服姿の女性こそ、公爵令嬢ヒナ・テオドールに他ならない。


 ヒナの元へと駆け寄るクリエス。けれど、近付くにつれ足取りが重くなってしまう。分かっていたことではあるのだが、横たわるヒナの左足は引きちぎられたままである。


 クリエスは大きく割れた大地の側で横たわるヒナに駆け寄ると、素早くヒナを抱きかかえた。


「ヒナ!?」


 何度か呼びかけると、ヒナが薄く目を開く。


「クリエス様……?」


 朦朧とした目で応答があった。

 彼女の反応には安堵すると同時に胸が痛んだ。無事であったのは幸いだが、ヒナはうら若き女性。片足を失った事実は耐えがたいものがあるはずだ。


「魔王ケンタは……?」

「ああ、討伐した。安心していい」


 話したいことが山ほどあったというのに、簡潔な言葉しか口を衝かない。太ももの辺りから失われた足を目にしては長い息を吐くだけだ。


「流石はわたくしのクリエス様です。わたくしはお役に立てましたでしょうか……?」


 ヒナだって現状を理解しているはず。しかし、彼女は聖女との評判通りに、自分の状態など気にしない。世界平和に貢献できたかどうかを問うだけだ。


「もちろんだよ。もし仮にデレヒナじゃなかったなら、勝てなかっただろうな?」


 クリエスは冗談っぽく返している。少しでも彼女に笑顔が戻るようにと。

 さりとてヒナが勝利の道筋を切り開いたことは事実だ。全ての事象は彼女のスキルが起点となっていたのだから。


「それは良かったです。クリエス様、どうかご褒美を……」


 言ってヒナは目を瞑った。正直にデレヒナは積極的すぎる。この期に及んで口づけを要求しているのだ。かといってクリエスは彼女の期待に応えている。ここには五月蠅いイカのお姉様がいないのだし、少しくらい構わないだろうと。


 とても長い時間二人は唇を重ねている。たとえ足が失われようともクリエスの気持ちに変化はない。ヒナは彼にとっていつまでも守っていたい女性であった。


「クリエス様……?」


 長い口づけの途中、背後からクリエスは声をかけられていた。


 その声は本当に久しぶりに聞く。確認せずとも誰であるのか分かる。魔王に襲われていたアリスが近付いて来たのだと。


 名残惜しそうに唇を離し、クリエスはゆっくりと呼び声に振り返った。


「やはり、クリエス様? ああいや、そんなはずは……?」


 流石に理解が及ばなかったことだろう。ヒナがクリエスと呼んだ剣士。その顔は記憶にあるままなのだ。殺人罪で投獄されたアリスはクリエスがこの世に存在しないことを誰よりも理解している。


 クリエスは察していた。アリスが困惑する理由。とはいえ誤魔化すような真似はせず、考えていた通りにクリエスは彼女と接していく。


「アリス、俺は君が知るクリエス・ワードだ。理解できるか分からないけど、俺は君に刺し殺されたあと、転生する機会を得て再びアストラル世界に戻っている」


 掻い摘まんだ説明にアリスは首を振る。転生なんて話は流石に理解不能であったことだろう。失われた魂は輪廻へと還るだけなのだから。


「信じてもらえなくてもいい。俺は君に謝りたいと考えていたんだ……」


 ただの自己満足かもしれない。転生した事実を認めてもらうよりも前に、クリエスはアリスに頭を下げている。


「最低な別れ話をしたと思う。今さら俺が謝ったとして何の意味もないけれど、俺はこうやって君に謝ることが新しい人生における目的の一つとしていたんだ」


 頭を下げたままクリエスは謝罪している。今も呆然とするアリスに構うことなく。


「許してくれとはいえない。俺は君の輝かしい人生を台無しにしてしまった張本人。死ぬまでそれを理解できなかった馬鹿な聖職者だよ……」


 幾らでも謝罪の言葉が口を衝く。実際に色々と考えていたけれど、当人を前にすると、とめどなく溢れてしまう。


「アリス、俺は最低だった。再び殺してやりたいのなら殺されたって構わない。でも、それは少しだけ待って欲しい。俺が転生した理由は君も先ほど見たままだ。世界の救済を俺は女神様から託されている……」


 クリエスは覚悟を語った。アリスにならもう一度殺されたとして仕方がないのだと。彼女の人生を転落させたのは他ならぬクリエスであったのだから。


 一方でアリスはようやくと頷きを見せた。転生なんて信じられなかったけれど、現にクリエスは記憶のままであったし、公になっていない最低な別れ話を彼は知っているようなのだ。


「本当にクリエス様なのでしょうか?」


 小さな声には頷きを返している。否定なんてしたくない。本心のまま言葉にして、誠心誠意謝ろうとしていたのだから。


「そうですか……」


 転生を理解したのかしていないのか。アリスは視線を外して長い息を吐いている。


「別れを告げられたとき、私は絶望しました。ずっとクリエス様をお慕いしていたのです。それほど信仰に熱心ではない私でしたが、足繁く教会に通ったのはクリエス様がいたからです……」


 語られていく思い出。取り返しのつかない過去。アリスが語るものは全て最低な結末に向かう道程であった。


「初めてお話ししたとき、本当に嬉しかった。初めて手を繋いだとき心が燃えるようでした。そして初めて一夜を明かしたときも……」


 アリスは泣いていた。もう十七年も経過した昔話に。彼女の中で燦然と輝いた時間を語ることによって。


「独房では毎日悔やみました。どうして命よりも大切な方を殺めてしまったのかと。もしもあの瞬間に戻れるのなら、私は自害していたでしょう。宝物を失うことを知った私にできる最善の方法はそれしかありません……」


 クリエスは頷くだけだ。呪いを解いてもらおうとしていた彼であるが、そのような話は少しですらできないままである。


「クリエス様、もう私はあの頃と同じではありません。完全に穢れた女なのですよ。判然としない復讐心に誘われるまま、心だけでなく身体も売った汚らしい女。既に貴方様の前に立つ資格すら失いました。性女だなんて呼ばれる始末ですからね。本当に私は心が弱く、頭も悪い。良いように操られ、最後は身を寄せた教団からも切り捨てられているのですから。クリエス様が現れなければ魔王ケンタに更なる屈辱を受けていたことでしょう」


 どうしてかアリスはクリエスに頭を下げた。確かに危機的状況から助けたけれど、あれくらいで感謝される立場ではない。


「どうやらクリエス様は転生され、大切な方を見つけられた様子。もう私がこの世界に思い残すことはなくなりました……」


 ヒナを抱きかかえたままのクリエスにアリスが言った。未練はなかったのか、笑みを浮かべながら。


「この世界に転生が認められると知れて良かったです。願わくば私も生まれ変わりたい。今度こそ美しい人生が待っていると信じて……」


 言ってアリスは巨大な谷へと歩を進める。


「お、おい、アリス!?」

「さようなら、クリエス様……。どうぞお幸せになってください」


 アリスは言えなかった別れの言葉をこの場面で口にする。加えて彼女は背後にある谷へと踏み入れてしまう。


「クリエス様、今度こそ先に天へと還ります――――」


 それ以上の言葉もなくアリスは消えゆく。底深い谷へと彼女は消えていった。


 怒りも恨みも感じさせぬ晴れやかな表情をして。まるで天へ還ることをずっと待ち望んでいたかのように。


 クリエスの絶叫が荒野に響いていた。全てを守ろうとした彼の望みは叶わない。

 再び失ってしまったクリエス。声にならない彼の叫び声が、ただ虚しく深い谷底に木霊するだけであった……。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る