第093話 別れの時

 ゼクシルを経って二週間あまり。ヒナたちは長い森を抜けて、キアブスへと向かっていた。街道の整備状況が思わしくなく、ゼクシルからは想定外の時間を要している。


 ヒナは御者台に繋がる窓を開け、エルサに声をかけた。


「エルサ、少しお話がございます」


 急な呼びかけにエルサは戸惑いながらも頷いている。キアブスへと急いでいるというのに、何の用事だろうかと。


「どうされましたか?」

「ええ、実はエルサには聖王国へ戻ってもらおうかと思いまして……」


 ずっと黙っていたこと。ヒナはここで口にしていた。この先の人生が長くないことは歴然としている。何しろヒナはクリエスに殺されるためだけに、キアブスへと向かっていたのだから。


「どういうことです? お嬢様は帰省されるのでしょうか?」


「いいえ、違います。実をいうと神託にて、わたくしの命はあと僅かとなったのです。これより向かう土地で、わたくしは天界へと戻ることになりました」


 眉根を寄せるエルサ。ヒナが転生した話は聞いていたけれど、天界に戻るだなんて話は初耳である。


 しかし、羽が生えたヒナを目撃したエルサは天界へ戻るという話を信じるしかない。女神の使徒であり、天使でもあるのだから天界と地上を行き来できるのだと。


「天界へ向かわれて、いつ戻られるのです?」


 エルサの返答には苦笑いを返すヒナ。やはりエルサにはピンと来なかったのだろう。


 ヒナが失われるという結末を予想できなかったらしい。濁して伝えたことが誤解を招いてしまった。


「エルサ、わたくしは二度とこの世界に戻りません。死を迎えるという意味です。だからこそ、エルサには聖王国へ戻って欲しいと考えています。ディーテ様が仰るところによると、間違いなく邪神竜ナーガラージはキアブスに現れるはず。そしてキアブスの街を焼き尽くすことでしょう。けれど、わたくしやディーテ様はそれを良しとしません。キアブスにて邪神竜を討伐することこそが求められること。また邪神竜討伐はわたくしの力では不可能であり、わたくしが生き残っても意味はないのです」


「ちょっと待ってください! 邪神竜の脅威については分かりましたけれど、どうしてお嬢様が死を迎えるのです? 勝つ見込みがないのであれば向かう必要すらありません!」


 エルサは話し途中に割り込んでは意見をぶつけている。ヒナの話にはまだ続きがあったにもかかわらず。


「勝つ見込みが一つだけあるのですよ。それはわたくしが持つ神格。クリエス様にそれを捧げることによって、初めて可能性を見出せるのです。従って、わたくしは神格をクリエス様に譲渡する必要がございます。かの邪神竜を討伐する対価が、わたくしの命なのです」


 まるで理解できなかったけれど、理不尽な話であることはエルサにも分かった。世界を救う対価として生け贄となるように申しつけられたのだと。


「キングヒュドラアンデッドを討伐できたのは、今このときに導かれていたからでしょう。わたくしが生き長らえた意味は世直しなどではありません。サラに与えられた力をクリエス様に託すためだけに、わたくしは今も生きておるのだと思います」


 サラの力を得て、ヒナは九死に一生を得た。目撃したエルサは当然のこと、それを分かっているけれど、力を託さねばならない理由が少しも理解できない。


「しかし、お嬢様……」


「順調に成長できましたが、それもここまでです。わたくしが生き残ったとして邪神竜ナーガラージは止められません。もう既に幾つかの街がかの邪神竜により破壊し尽くされているのです。邪神竜ナーガラージを放置すれば世界は滅びることでしょう。だからこそ、わたくしは天界での約束を果たすと同時に、この役目を終えようと思います」


 ヒナは覚悟を語っていく。世界が存続する可能性はもう自分が失われるしかないのだと。転生した目的こそ果たせぬままであったけれど、世界が滅亡してはそれこそ意味がない。


「お嬢様はアストラル世界の光です! お嬢様がいない世界に希望などありません!」

「違います! アストラル世界の希望は最初から最後までクリエス様だけなのです」


 どうしても止めようとするエルサにヒナは反論を口にしている。エルサには納得をして聖王国へと戻ってもらわねばならないのだと。


「わたくし、死後は天使として働くことになりました。ディーテ様の助手になるのです。だから、わたくしの身体が失われても、天界から世界を見守ることができます。エルサ、どうか聞き分けてください。わたくしは世話になった人たちを守りたい。エルサもその中に含まれているのですから……」


 どこまでも聖人なのだとエルサは思った。人間らしい欲がなさ過ぎる。普通であれば、自分だけでも生き延びたいと願うものであり、間違っても自分自身を代償として世界を救おうという発想には至らない。


 かといって、エルサは分かっていた。ヒナとて苦悩した末の決断なのだと。簡単に自分を切り捨てられるはずもないのだから。


「お嬢様、私はこの森でお嬢様の帰りを待つことにします。これが従者として最大限の譲歩であります。だからお嬢様……」


 エルサは声を震わせながら言った。願望の全てを込めて。


「死なないでください……」


 ヒナは胸に刺すような痛みを覚えていた。自分としても生きたいと願っている。けれども、最早それは叶わぬ夢。決断しなければ世界が滅びてしまうのだ。


 もう決めたことであり、惑わすような台詞は聞きたくない。従者として受け入れられない話であることは理解しているけれど、ヒナは女神の使徒として世界を救う使命を全うしなければならなかった。自身の命を捧げることによって。


「エルサ、馬車に食糧を置いておきます。わたくしは空を飛べますので、ここからキアブスまで数日とかからないでしょう。エルサは一週間だけここにいてください。もし仮に運命が動くことがあれば、それまでにわたくしは戻ります。しかし、一週間経っても戻らぬ場合は速やかに帰路へと就き、お父様に先ほどの内容を伝えてください」


 ヒナはこの無意味な遣り取りを終えるべく、最後の言葉を口にする。


「これは命令です――――」


 未だかつてエルサはヒナから命令など受けたことがない。お願い事は度々聞いていたけれど、主従関係にあるような強制力がヒナにはなかった。


 エルサもまた長い息を吐く。彼女も理解しているのだ。ヒナが本当に死地へと赴くこと。彼女が持つ強い意志は死を想定していたとして、もう誰にも曲げられはしないのだと。


「お嬢様、お別れは申し上げません。私はここで命令通りに待たせていただきますから」

「ええ、また会いましょう、エルサ……」


 中身がない会話に感じてしまう。だが、エルサは受け入れていた。再会の期待を抱いても構わないその言葉に。想定する結末とは異なる未来へと辿り着けるようにと。


 エルサはまだ諦めていない。この期に及んで可能性が残されていることを思い出したから。ヒナの言葉が覆る唯一の可能性に縋るしかないと。


 だからこそ自然と口にする。この局面を変えられる救世主の名を……。


 クリエス様――――――と。






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