第090話 異変

 オルカプス火山を下山し、クリエスは再び馬車にて移動していた。


 ヒナがいる場所は南大陸の南西だと聞いている。現在地は大陸の南部であったけれど、生憎と南側には東西を繋ぐ街道がない。従って北へと進み、中街道へと戻ってから西端にあるリンクシャア連邦国方面へと向かう必要があった。


「もう何年も前に通った気がするな……」


 七ヶ月ほど前であろうか。クリエスは中街道を通ってアーレスト王国に向かっていた。

 南大陸屈指の大国。現在地はまだ中街道へと繋がる細い道であったけれど、ここは既に水竜退治の折りに通った街道の延長線上である。


「この街道がずっと西まで続いていたら戻らなくても良かったのに……」


 アクアドラゴンが生息していたカルロ湖沿いの街道。ここより先は中南部のゴンズ共和国までしか繋がっていない。


 オルカプス火山を発ってから、馬車を走らせること十日あまり。懐かしさすら覚えるカルロ湖を越えて直ぐに、アーレスト王国方面への分岐があった。


 街道の分岐から数日、クリエスたちの馬車は首都デカルネの街門が見える辺りまで到着している。平穏そのものである懐かしい景色にクリエスが笑みを浮かべていると、


「ワンワン!」


 街門の方から大きな犬が走って来た。懸命に尻尾を振るその黒い犬には見覚えがある。


「バター!?」


 何と近寄って来たのは野良犬になれと命じられたバターであった。彼は言葉を操るというのに、今では完全な犬である。


「アニキ、久しぶりっすワン!」


 すっかり犬が板についた感じだ。少しばかり巨大ではあったけれど、大型犬だと言い張れるくらいには犬を演じられている。


『駄犬よ、妾に挨拶はないのか?』


 急に御者台の方へと現れたのはイーサだ。彼女はジロリとバターを睨み付けている。野良犬になれと放り出した張本人であるというのに。


「クゥン……(尻尾を股の間に)」


 鋭い視線にバターは縮こまってしまう。今もバターはイーサの使役魔なのだ。野良犬になれとの命令通りに、彼は犬らしく恐れおののいていた。


『まったく、貴様はどこでも生きていけると思うておったが……』

「主人様、今はデカルネのネルソンという一家に拾われて番犬をやっておるですワン!」


「マジか。良かったじゃねぇか? てか、もう俺に近付いても大丈夫なのか?」


 バターを捨てていった理由はディーテの加護をバターが怖がったからである。今は御者台と地面とで離れているけれど、バターは直ぐ近くまで近寄っていた。


「あれから教会にも連れて行かれやしたし、神聖な空気に慣れたのかもしれないですワン!」


「なら、俺たちと一緒に来るか?」


 一応はケルベロスである。流石に可哀相だったので、クリエスはそんな提案をする。しかしながら、せっかくの申し出にバターは首を振っていた。


「いえ、ネルソン家の全員が輪廻に還るまで、俺っちは守ると決めやしたワン。餌を与えてくれる恩義に報いなければ、ケルベロスの名が廃るってものですワン!」


「今や飼い慣らされた犬だけどな……」


 連れて行っても構わないのだが、既にバターは足手まといになるだろう。世話になっている家があるのなら、彼はそこに留まるべきだ。


「まあそれでアニキに伝えたいことがあって来たのですワン。実はアニキを王家が捜しているようなんですワン」


 ここで妙な話をするバター。どうしてかアーレスト王家がクリエスを捜しているという。確かにクリエスは王国の子爵位を持っていたけれど、自由が許されていたはずなのに。


「街中に張り紙がでてますワン!」


 ずっとアーレスト王国に住んでいたバターが言うのだから確かな情報だろう。入国をして足止めを喰らってはヒナとの合流や魔王候補討伐計画に遅れが生じてしまう。


『どうする婿殿?』

「間違いなく面倒事だろうな。まあ西へ進んでから連行されるのも手間だ。話だけは聞いておくよ」


 女難の効果を受けまくったアナスタシア殿下がいるフォントーレス公国ではないのだ。アーレスト王国であれば、用事があったとして魔物退治くらいだろうと。


 腹を括り、クリエスは街門を通っていく。貴族章を提示すると直ぐさま王城へ向かうようにと指示があった。

 馬車のまま王城へと向かう。クリエスは正門前に馬車を停車し、堂々と王城に入っていった。


 レッドカーペットを真っ直ぐに進み、案内されるがまま謁見の間へと通されている。しばらく待っているとアーレスト王と大臣の姿が……。


「しばらくぶりだな、フォスター卿」

「王様、久方ぶりでございます」


 一応は貴族的な礼をして、クリエスは挨拶を済ませている。


「早速だが、卿は張り紙を見て登城してくれたのか?」

「張り紙? ああいえ、久しぶりに王国へ立ち寄ったからですけれど?」


 どうやらクリエスを捜していたのは本当らしい。ただし、喋る犬に教えてもらったとも言えないクリエスは誤魔化すだけだ。


「それは幸運だった。実は卿に頼みたいことがあったのだ……」


 やはり何かの討伐依頼であろう。クリエスへの頼みごとなど、魔物被害くらいしか考えられない。


 頷くクリエスにアーレスト王はその頼みごとを話し出す。

 対するクリエスは簡単な魔物退治だとしか考えていなかった。しかしながら、知らされている。予想よりも遥かに強大な脅威が現実となっていたことを。


「実は巨大な飛竜が目撃されたのだ――――」


 クリエスは絶句していた。巨大な竜との話は決して聞き流せない。


「それはどこへ向かったのです!?」

「むぅ? 卿も知っているのか? アル・デス山脈に現れたという邪竜の話を……」


 アーレスト王の話に確信を持つ。邪竜との話に。巨大な竜とは邪神竜となったナーガラージのことであると。


「知っています。現在は邪神竜に昇華しているはず。それで邪神竜ナーガラージはどこへ行ったのでしょう?」


 目撃されたというのなら、それはアーレスト王国を横切って行ったのだろう。ならば聞くべき話はどこへ向かったのか。


 小さく頷いたアーレスト王は徐にその方角を口にする。


「巨竜は西へと飛び去ったらしい……」


 再びクリエスは言葉をなくす。西はクリエスの目的地だ。ヒナが順調に進めば西端にあるリンクシャア連邦国まで戻るはず。クリエスはそこで合流する予定であった。


「王様、俺は直ちに西へと向かいます!」


 頼むまでもなく返答を終えたクリエスにアーレスト王は笑みを浮かべた。彼以上の強者はいないのだ。だからこそ、脅威の排除を依頼するつもりであった。


「流石はドラゴンスレイヤー。頼もしい限りだ。飛竜の影が向かったのは鉱山都市ミクスの方角。ミクスにいない場合は西の玄関口キアブスの様子を見てきてくれ」


 アーレスト王の話によると飛竜が目撃されたのは昨日の夕方であるらしい。黄昏の空に落ちた巨大な影は国民を不安にさせ、急遽クリエスの捜索に乗り出したという話である。


【寵愛通信】シルアンナ


 ここでシルアンナからの通話が入った。恐らくはクリエスを止めようとしているはず。脳裏に鳴り響くコールを無視して、クリエスはアーレスト王に返答してしまう。


「了解しました。まずはミクスへと向かい、無事なようでしたらキアブスへと急ぎます」


 自分にしかできない。倒せずとも追い払う。クリエスは意志のままに伝え終えた。


 長居することなくクリエスは王城をあとにしていく。眉間にしわを寄せた険しい表情をして。絶対に許せない邪神竜の罪をクリエスは思い出していたから。


 再び馬車に乗り込むや、クリエスは通信に応答。間違いなく怒っているだろう主神様に謝っておこうと。


『クリエス、あんた何も分かっていないじゃないの!?』


 通話を始めるや、シルアンナの怒鳴り声。まあしかし、想定していたままだ。明らかにクリエスが間違っているのだから。


「シル、悪いが俺は邪神竜と戦う。倒せなくても追い払うくらいはできるはずだ」


『無理よ! ダメージが入らない相手が逃げていくはずないじゃない!?』


 魔王候補を優先したい主神とクリエスの考えは一致しない。クリエス自身も死にたくはなかったけれど、邪神竜ナーガラージが暴れ出したとすれば、街の一つや二つは簡単に消し飛んでしまうのだ。


「じゃあ、今よりも邪神竜が進化する可能性はないのかよ? 殺戮を繰り返したのなら、少なからず魂強度を得てしまうんだろ?」


 クリエスの話にシルアンナは黙り込む。正直に邪神竜は脅威であり、今よりも強化される可能性は間違いなくあった。


『本当に無茶をしないで。アストラル世界はクリエスとヒナにかかっている。まだ成長が望めるというのに、こんなところで輪廻に還るなんて許されない』


 シルアンナの説得は理解できたけれど、クリエスはもう決めたのだ。先送りにするよりも、今戦うべきだと。


「シル、俺はまだ巨乳な彼女を手に入れてねぇんだ。前世から三十七年。邪神竜なんかに殺されてたまるかっての。未練を残して死ぬなんて真っ平ごめん。俺は必ず願望を叶えてみせるし、世界だって救うつもりだ」


 クリエスは必ずやナーガラージを追い払うと決めたのだ。揺るぎない意志を主神への言葉とする。


「だから輪廻には還らない――――」


 保証するものはなにもない。けれども、クリエスは本気だった。今こそが動くべきときであり、命を懸けるときであるのだと。


「まあ見てろって。何とかしてやるよ。もしも、ダメージが入らないのなら、俺は入るまで斬るだけだ」


 言ってクリエスは馬車を走らせていく。まずは北西にある鉱山都市ミクス。そこにいないのであれば南西へと街道を進み、アーレスト王国西端の街キアブスへと。


 邪神竜ナーガラージとの一戦は避けられない状況となっていた……。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 アーレスト王国北西の街、鉱山都市ミクス。飛竜の情報に住民は戦々恐々としていたけれど、飛竜が飛来したという情報はまだ入っていない。


 しかしながら、街には邪神竜ナーガラージが既に潜伏していた。彼は人化をして入り込んでおり、広場に建てられた強大なディーテ像を眺めている。


「この地はディーテの加護が強い。ならば叩くだけ。我が天に昇れぬというのなら、墜ちてもらうだけだ……」


 ナーガラージは姿を眩ませていた頃、ずっと天界へ昇ろうとしていた。しかし、土着神でしかない彼は一度として成功していない。アル・デス山脈の頂上から天高く舞ったとして、そこに天界はなくディーテとシルアンナは存在しなかった。


 従って彼は方針を転換。ディーテの評判を地に落とし、堕天させようとしている。


「震え上がれ、矮小なる者どもよ!!」


 巨大なディーテ像に導かれて飛来したナーガラージだが、像の真下で竜化を始めた。当然のこと、ディーテ像は粉々に砕け散り、そこには邪神竜ナーガラージが現れている。


「我はディーテの使徒なり! この世を地獄へと導くものなり!」


 街全体に響き渡る大声を上げ、ナーガラージは強大な炎を吐く。逃げ惑う人々を焼き尽くしていった。


 ナーガラージは全てを破壊しようとしている。巨大なディーテ像に見守られていたこの街から破壊の限りを尽くすのだと。


「我は邪神竜ナーガラージ! 天より舞い降りし破壊者なり!!――――」



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 天界では緊急的に女神たちが集まっていた。

 またもや終末警報の数値が上がり、ディーテの業務室には警報音が鳴り響いている。


「ディーテ様、ナーガラージは何をとち狂ったのでしょう!?」


 シルアンナが問うも、突然暴れ始めた邪神竜の動機などディーテが知るはずもない。


「ワタシの使徒だと口にしております。恐らくはワタシの求心力を削ぐつもりなのでしょう」


「そんなことをしてどうするつもりです!? 女神と天使は違うのですよ!?」


 再び問いを向けられるも、ディーテは首を振って答えるだけ。

 女神という存在が特殊であると知らないナーガラージは思い込みによって動いているはず。破壊活動に結びつく理由はそんなところであった。


「シル、邪神竜ナーガラージは己が欲望のみで動いております。一度話をしてみましょう」

「本気ですか!? 火に油を注ぐことになるのではないでしょうか!?」


「これ以上、どう悪化するというの? ワタシが下界に降りてくるまで邪神竜は破壊を続けるわよ?」


 絶対的な存在であるディーテ。顕現したとして、邪神竜は触れることすら叶わないだろう。よって信徒たちが惨殺されている場面で見守るだけというわけにはならない。


「とりあえず邪神竜を落ち着かせてみます」


 言ってディーテは女神デバイスを操作し、ディーテ像があった場所へと降臨を始める。

 徐に姿を露わにするディーテ。ナーガラージの火球によりあちこちで火の手が上がる中で、彼女は姿を現していた。


「おやめなさい、邪神竜ナーガラージ。ワタシの使徒だとか嘘を口にしてはなりません」


 拡声魔法のようにディーテの声はミクスの街全体に届く。彼女の信者である者たちは心の内にディーテの声を聞いたはずだ。


「ふはは! ようやくお出ましか、ディーテ! 貴様は我が物となるのだ!」

「ワタシは女神です。土着神風情に触れられる存在などではありません。存在の次元が異なるのですよ」


 ディーテの話にナーガラージは大きな頭を左右に振る。信じていないのか、或いは何らかの手段があったのか。竜化した彼は尚も声を張った。


「ならば、我はこの地上にある全てを破壊し尽くしてやろう。見守るべき者を失った貴様は最早神ではなかろう? 高みにいるのなら、とことん突き落としてやるだけだ!」


 言ってナーガラージは見せしめのように、領主邸へと向かって火炎を吐いた。

 強大なその炎はまるで地獄へと続く街道のように真っ赤になって大地を焼く。果てには小高い丘の上にあったドルマン伯爵の邸宅まで消し炭としている。


「やめなさい! ナーガラージ!!」

「我は知らぬ! 全て貴様のせいだ! 我が物にならぬ貴様のせいで地上は地獄と化すのだからな!」


 ナーガラージはディーテの制止を聞かず、なお一層火炎を吐き続けた。落ち着かせることは叶わず、寧ろ余計にいきり立っている。


 程なく特例の降臨時間が来てしまう。ディーテは愕然としながら、アストラル世界を去る。ただ虚しく、破壊されたディーテ像のように存在を消していった。


 ◇ ◇ ◇


 天界へと戻ったディーテ。しばらくは放心状態である。だが、シルアンナが側に寄ると、


「ワタシは女神。アストラル世界の主神です……」


 力なく言った。無力さを痛感している。主神であったとして世界の危機にできることなど多くない。焼かれていく信徒たちを見ていることしかできなかったのだ。


「ディーテ様、安心してください。今まさにクリエスがミクスへと向かっておりますから!」


 シルアンナが解決策を口にするも、ディーテには響かない。強大な邪神竜がクリエスの到着まで待ってくれるはずもないのだ。


「クリエス君はデカルネを発ったところでしょ? 馬車でも二週間はかかるわよ。先ほどの火力を見た? ミクスが全焼するまで、幾ばくも時間はかからないでしょう」


 シルアンナもまた長い息を吐く。どうにもできないもどかしさ。唯一の希望であるクリエスとて、まだ首都デカルネを出発したところなのだ。


 長い吐息の最後に、シルアンナがポツリと呟くように聞いた。


「アストラル世界は滅びるのでしょうか……?」


 その質問には顔を振るディーテ。絶望感すら覚えている彼女であるけれど、最後まで受け入れられない話である。


「シル、信徒たち全員に警告を。邪神竜ナーガラージが飛来する恐れがあること。この世の全てを焼き尽くそうとしていることについて神託を与えましょう」


 女神たちは動き出す。やはり守護者として、最後まで抗おうと思う。信徒たちを分散させ、全滅だけは避けなければならないのだと。


「了解しました。クリエスには生存者がいるのなら、救助するよう伝えておきます」

「お願いね? クリエス君にもよろしくと伝えてください」


 もはやミクスは絶望的だ。奇跡的に生き長らえているものがいるかどうかという話。望んではいないにしても、ミクスの崩壊は目に見えた未来であり、期待できる要素など一つも存在していない。


 直ぐさま動き出すディーテとシルアンナ。

 ディーテにはシルアンナとは比べものにならないほどの信徒がいる。従って近場から手当たり次第に降臨し、神託を与えなければならない。一刻の猶予もないのだ。女神たちは収束するまで不眠不休で抗うつもりだ。


 アストラル世界へと降臨した邪神竜という巨悪に――――。


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