第069話 黄昏の空に

 クリエスが共和国から飛び出してから、七ヶ月が経過していた。


 ようやく到達した大陸の北端。しかし、目的地は北大陸ではない。突如として出現した邪神竜の討伐がクリエスの使命であった。


 北街道は海岸線に沿って真っ直ぐ東へと伸びている。基本的にアル・デス山脈の麓を通っており、急勾配があったりと思うように進めない。それでもクリエスたちは、一ヶ月以上をかけて、ほぼ大陸の東側まで到達している。


「街道を西に進んでいると聞いたのに、邪神竜はどこへ向かったんだ?」


 問題は一向に邪神竜ナーガラージが現れないことだ。既に五分の四くらいは通過しているはずで、街道の終点である港町プルネアまで到着してしまいそうな予感さえあった。


 夕暮れになり、長い下り坂が終わって街道が真っ直ぐに伸びた場所へと到着。久しぶりに地平線の先まで見渡せる荒野へと出ていた。


「あれはディーテ様の像か?」


 もうしばらく進めばシルアンナ教を信仰する地域へと入るのだが、今はまだディーテ教のお膝元である。

 視界の先にある巨大な石像はディーテ像に他ならない。旅人の安全を見守るように、街道脇へと建てられたものだろう。


 馬車が近付くと、巨大なディーテ像の脇に人影が見えた。またその影は明らかに強大な邪気を放っている。


 クリエスは息を呑む。クリエスを待っていたかのように笑みを浮かべるそれは明確に人ではない。覚悟はしていたものの、全てが思い過ごしであり、その人影が休憩する旅人であればと期待してしまう。


「遅かったじゃないか、クリエス? 逃げ出したのかと思ったぞ?」


 クリエスの期待はもろくも崩れ去った。何しろディーテ像脇の男は御者台まで身を乗り出していたクリエスの名を呼んだのだ。


 やはり、ただならぬ気配を放つ男は邪神竜ナーガラージに違いない。クリエスを待っていたのだから、もう否定しようがなかった。


 嘆息しつつもクリエスは御者台から飛び降りている。


「お前が邪神竜ナーガラージか?」


 確認すべき内容は返答を分かって聞いたものだ。人化したナーガラージ。問いを向けたのは、別人であった場合を心の奥底でまだ期待していたからかもしれない。


「如何にも。我はナーガラージ。女神に愛されし神となった竜である」


 確認は取れた。けれども、聞いていた内容と食い違う行動をナーガラージは見せている。疑問に感じたクリエスは小首を傾げながら問いを返す。


「お前はシルアンナの元へ行こうと俺を探していたんじゃないのか? どうして少しも動かなかった?」


 シルアンナの使徒であるクリエスを殺そうとしていたはず。だが、ナーガラージは動くことなく、クリエスを待っていたのだ。


「どうせ貴様は我の元へとやって来ると考えていた。ならば神である我が動いてやる義理はない。ディーテ像でも眺めていた方がマシだろう?」


 どうしてかナーガラージはディーテ像の側にずっといたという。シルアンナ像に一目惚れをしたという彼だというのに。


「ディーテ様だと? お前はシルに一目惚れしたんじゃないのか?」


「我は真理に到達したのだよ。このディーテ像を見てみろ? 潔いシルアンナの絶壁も魅力的だが、これほどまでの果実を我は初めて見た。よって我は天へと赴き、両方とも手に入れると決めたのだ!」


 欲どしいことにナーガラージは女神二人を手に入れると口にした。その図々しい話にはクリエスもカチンと来てしまう。


「お前が向かう先は決まってんだよ、ナーガラージ……」


 クリエスは怒り心頭に発している。明らかに格上の邪神竜であったけれど、ナーガラージの思い通りにはさせたくなかった。


 ディーテの信徒であったこと。現状ではシルアンナの使徒であること。二人を取られたくないとクリエスは思う。


「てめぇが向かうのは天界でも輪廻でもねぇんだ……」


 相手は神格を得た邪竜であったというのに、クリエスは絶対にここで邪神竜を倒すのだと決めた。


「お前は地獄へ墜ちろ!」


 クリエスの啖呵にナーガラージは笑みを浮かべる。その大口が実現することなどないと確信しているかのように。


「矮小な人族に何ができる? 我は邪神である前に偉大なる竜種だぞ? 人族が全力を出したとして、かすり傷すら受けるなどないだろう」


 それはクリエスも同意見だが、クリエスにはドラゴンスレイヤーという称号がある。人化したナーガラージに効果があるのか不明であるけれど、ここは竜種に対して戦闘値50%アップの称号効果に懸けるしかない。


「うおらぁぁあああっっ!!」


 クリエスの先制攻撃にて戦いが始まる。避けようともしないナーガラージにクリエスは思いきり斬りつけていた。


 しかし、結果は事前に聞かされたままだ。クリエスの剣はナーガラージの皮膚に小さな傷すら与えられない。


「マジか!?」

「ふはは! 人族にしてはやるな? まあそういうことだ。貴様を殺して我はシルアンナの心残りを絶つだけなのだよ!」


 やはり余裕を見せるナーガラージ。大笑いする様はクリエスを見下してのことだろう。


「ちくしょう……」


 全力で斬った剣が少しのダメージも与えられないなんて。この現実はクリエスにとって完全に想定外だった。


「クソがぁあああっっ!!」


 ところが、クリエスは果敢に挑む。諦めないことこそが、勝利へと繋がるのだと。

 命ある限り剣を振り続けるだけ。クリエスは揺るぎない決意に従い戦闘を続けた。


「痒い! 思い知るがいい。貴様は弱者なのだ!」


 斬りかかったクリエスに反撃が加えられる。かといって、軽く右腕を伸ばしただけであり、その拳はクリエスをかすめただけだ。


「ぐぁあぁあああ!!」


 ところが、軽く触れただけでクリエスは吹き飛ばされていた。身体は荷馬に激突し、内臓を損傷したのか吐血している。


『婿殿!?』


 慌ててイーサが馬車の中から現れている。直ぐさま御者であるベルカにポーションを飲ませるようにと指示を出した。


『無き者、旦那様を頼みます……』


 二人目の悪霊まで飛び出してくる。落ち着いた口調ながらも、ミアは激高していた。彼女は声を震わせながら、ナーガラージの前に立ち塞がっている。


『邪神竜ナーガラージ、貴方は分をわきまえていないようですね? 罪深き貴方に私が罰を与えましょう』


 言ってミアは強大な魔法陣を構築。恐らくは彼女が持つ最大級のスキルが実行されようとしているはずだ。


「んん? 妙な気配は悪霊であったか……。いや、てか貴様!?」


 どうしてかミアに驚くナーガラージ。悪霊であると理解した彼だが、行使されるスキルよりもミアという存在に愕然としている。


「なんと神々しい……。ディーテを彷彿とさせる強大な果実……」


 どうやら巨乳に目覚めたナーガラージはミアの超ドデカカボチャ級に驚いているだけであり、彼女が行使するスキルには少しの脅威も覚えていない。


 瞬時にナーガラージが移動。瞬く間にスキル行使中であるミアの腕を掴む。


『貴方、私に触れられるの!?』


 流石にミアも驚いている。クリエスには一度も触れられなかったし、肉体は既に朽ち果てているのだ。けれども、ミアの腕を掴むナーガラージは明確に存在を捕らえており、ミアの身体を強引に抱き寄せていた。


『!?』


 力強く彼女を引き寄せたナーガラージは無理矢理にミアと口づけを交わす。抵抗するミアに構うことなく、長い時間をかけて唇を重ねていた。


『な、何を!? 私は旦那様に操を捧げているのですよ!?』


 初めての口づけに頬を染めながらも、ミアは毅然と返していた。予想外すぎる行動に術の行使を続けられなくなっている。


 ナーガラージがミアに返答する間もなく、この場にドスの効いた声が響く。


「邪竜、そいつは俺のだ――――」


 その声はポーションを飲み干したばかりのクリエスであった。彼は何とか立ち上がり、ふらつきながらも再び剣を握る。


『旦那様!?』

「悪いな、ミア。俺が弱いばかりに……」


『私こそ申し訳ございません! 初めては旦那様が予約されておりましたのに……』

「予約なんかしてねぇし……。まあでも、お前は俺のものだ……」


 クリエスは剣を構えた。支配契約を結んだ悪霊。うざったくも感じていた彼女をクリエスは自分の所有物だと主張している。


「クリエス、貴様では我に敵わん。この女は我がもらい受ける。礼を言うぞ。今宵の楽しみができたのだからな!」


 再び剣を手に取ったクリエスをナーガラージは笑い飛ばす。どう足掻いてもクリエスは奪われる側なのだと。


『邪竜、離しなさい! 私はクリエス様のものです! 支配契約を結んでいるのですから、貴方のものになどなりません!』


 ミアもまた強気に返している。何しろ彼女とクリエスは支配契約を結んでいる。魂レベルで繋がっている二人を引き離すなど不可能なことであると。


「支配契約? 笑わせるな! 女神による認証のない契約など我には効かぬ! なぜなら、我は邪神竜。神格を得た我は世界に認められており、更には支配契約を是認する立場なのだからな!」


 そういえばディーテは支配契約が女神の名において成されたものではないと口にしていた。その契約は世界が認めたものであって、世界が生み出してしまった邪神竜もまた契約を司る立場なのだという。


『そこのトカゲ、いい加減にするのじゃ……』


 ここでイーサが声を震わせて言った。大地を揺らすほどに込められた彼女の怒りは全員に伝わっている。


『その駄肉は妾の下僕なのじゃ。婿殿の従者にて妾と婿殿の所有物。勝手に持ち去るとか馬鹿げたことを言うでない……』


 この場の空気が凍りつく。かつて竜神さえも葬ったイーサは禍々しい魔力を全方位に発している。


「ぐぉっ……。貴様は何だ? 我を威圧するなど……」

『妾はか弱いサキュバス族じゃ。まあジョブは魔王候補なんじゃがな……』


 言われてナーガラージも思い出していた。かつて世界に君臨した強大な淫魔族がいたことを。


「貴様はイーサ・メイテルか……?」

『如何にも。現在はイーサ・フォスターを名乗っておる……』

「勝手に名乗んなって……」


 クリエスのツッコミにもめげず、イーサは声を張る。


『妾のものを奪うなど許せん! 死をもって償うがいいのじゃ!』


 刹那に地面が揺れ、あちこちに亀裂が走った。イーサが魔力を放出しただけで大地は共鳴するかのような反応を見せている。


「ふはは! こいつは流石に厄介だ。クリエス・フォスター、命拾いしたな! 女はもらっていく!」


 イーサを怒らせたというのに、ナーガラージはミアを離さない。あろうことか竜化をして巨大な羽を羽ばたかせている。


『逃さぬぞ、トカゲ!!』


 イーサが魔法を撃ち放とうとした瞬間、

「ぐあぁぁああぁぁあっ!!」

 クリエスが苦しみ出す。流石にイーサも放ってはおけず、ナーガラージを後回しにするしかない。


『婿殿!? しっかりするのじゃ!』


 恐らくは支配契約を無理矢理に剥がされたからだろう。魂レベルで繋がったミアをナーガラージが奪い去って行ったからだ。


 苦しむクリエスを介抱するイーサ。かといって回復魔法を使えない彼女はクリエスの無事を祈るだけであった。


 クリエスたちを見下ろしながら、邪神竜ナーガラージが黄昏の空に消えていく……。

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