第058話 クリエス

 南大陸の北端。サーラ村に程近い場所にプルネアという港町があった。


 壮大なアル・デス山脈を南に臨むここは農業と漁業従事者が大半の田舎町であるが、北大陸や南部との交易でそれなりに賑わってもいる。


 通常であれば争いごとのない牧歌的な雰囲気に包まれているのだが、先日からはまるで様子が異なっていた。


 何でも直ぐ近くにあるサーラ村に邪竜が現れたという。まだ噂だけであって実際に確認はされていなかったけれど、南大陸には狂竜ナーガラージという災厄が過去に存在している。その恐怖は現在まで語り継がれており、住民たちは眠れぬ夜を過ごしていた。


 プルネアの聖堂にはシルアンナ教徒たちが集まっている。まだ改宗してそれほど長い年月は経っていなかったけれど、かつて女神シルアンナはこの聖堂に降臨し、町の繁栄についての神託を授けてくれたのだ。よって邪竜という危機に際して、住民たちは彼女に祈りを捧げている。


 ある者はお救いくださいと。また、ある者はお導きくださいと。


 大勢の祈り。熱心に祈ったおかげか、聖堂に神秘的な輝きが満ちた。

 居合わせた全員が息を呑む。神々しく美しい女神。伝わっている通りの姿で現れたシルアンナ神の姿に。


『信徒たちよ、良く聞きなさい』


 シルアンナは災害以上の危機に特例として認められている無料降臨を行使していた。直ぐ近くに邪竜が発生したのだ。シルアンナは特例を利用して近隣住民に注意勧告しなければならない。


『サーラ村に邪竜が発生しました。かつての災害である狂竜ナーガラージが邪竜へと進化したのです』


 手を合わせたまま住民はシルアンナの声を聞いている。祈りに応えて降臨してくれた彼女の声を聞き逃すまいと。


『邪竜ナーガラージはあろうことか神になろうとしています。よってこれから大規模な殺戮を始めるやもしれません』


 シルアンナは知り得た情報を伝えていく。ナーガラージの目的はシルアンナと会うことだ。よって神格を得て、天界へ向かおうとするだろう。しかしながら、彼女には秘策があるらしい。


『私はこれより邪竜ナーガラージの前に降臨する予定です。可能な限り穏便に済むよう話をするつもりですが、決裂に終わればプルネアは真っ先に邪竜の餌食になる可能性が高い。できることなら避難する方が良いでしょう』


 伝えられる話は多くなかった。できるなら全員を避難させたいところであるが、費用的な問題があるだろうし、生まれ育った町を離れたくもないだろう。


『申し訳ないと思っております。恐らく交渉は決裂するはず。この大地には私の使徒が送り込まれておりますけれど、まだ邪竜と戦うほどには成長していないのです』


 シルアンナの使徒。初めて聞く話である。しかし、聖堂のどこからともなく拍手が送られた。無論のこと、女神シルアンナが先んじて動いてくれていたからだ。


 このあとは温かい声が飛ぶ。信徒たちは女神のせいにはせず、自分たちも戦うと口にしている。


『愛する信徒たち。無理をしてまで立ち向かう必要はありません。貴方たちの安全こそ私が願うこと。くれぐれも無茶をしないようにお願いいたします』


 無料降臨は時間が限られている。従ってシルアンナは逃げろとだけ伝えるつもりだった。しかし、住人たちは邪竜と戦うという。そんな反応を願っていたわけではないというのに。


 嘆息するシルアンナ。住人たちに危機を知らせたあとは邪竜との接触である。期待すべき反応は一つ。邪竜の目的であるシルアンナが降臨さえすれば、邪竜は大人しくなるだろうと。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 シルアンナは邪竜が居座るサーラ村へと降臨。ディーテにも了承を得たことであり、彼女は再び特例を用いて、邪竜ナーガラージの前に顕現している。


 真っ先に見えたのは村の惨状であった。ここに人が生活していたのかと疑うくらいに破壊され尽くしている。


「シ、シルアンナ!?」


 人化したままのナーガラージ。しかし、侮ってはいけない。彼は進化前ですら災害認定を受けた古龍なのだ。


『邪竜ナーガラージ、貴方の狼藉を許すつもりはありません。しかし、今以上に暴れ回らないと約束するのであれば、この度は見逃してあげましょう』


 村が一つ壊滅した。切り捨てるようで辛い選択であったが、魂の管理者たるシルアンナにとって庇護すべきは生ある者たちだ。従って既に輪廻へと還ったサーラ村の人たちを気にしてはならない。


「シルアンナ、我はお前を欲している! その胸を見ると興奮して堪らないのだ!」


 とても複雑な想いでシルアンナは邪竜の話を聞いている。彼は単に板胸好き。貧乳を愛しているだけに過ぎないのだ。


「君のためならば何でもできる! 清々しいほど真っ直ぐな胸を手に入れられるのなら、我は世界を滅ぼすことだって厭わないつもりだ!」


 さりとてナーガラージは本気だった。シルアンナと世界を同列に見ているのだ。もっともシルアンナは世界の上に立つ女神であったけれど。


『じゃあ、死んでくれる?』


 流石のシルアンナも頭にきていた。ちゃんと交渉しようと考えていたというのに、短絡的な結論を口にしてしまう。


「ふはは、死ねば天界へ辿り着くか!? 我はお前を手に入れられるのか!?」


『そう思う? 私はかなり腹に据えかねているのよ? 貴方が滅ぼした村は私の愛すべき信徒であったのだから』


「我を天界へ喚べ! 我と番いになるのだ! もはや我はシルアンナにしか興味がない!」


 邪竜ナーガラージの要求は一貫している。気に入った女を手に入れることだけであった。


 一方的な邪竜の話にはカチンときてしまう。ただでさえ腹を立てていたシルアンナは感情のままに返している。


『私には愛すべき使徒がいるのよ! 彼であれば、貴方なんか直ぐに倒してしまうわ! 邪竜とかお呼びじゃないっての!』


 怒りに任せてシルアンナは口にしている。彼女の使徒はまだ充分な成長をしていないというのに。


「ふはは! ならば、その使徒とやらが輪廻に還れば我のものとなるのだな?」


 ナーガラージの返答にシルアンナはようやく我に返った。まだそのときではない。クリエスはレベル1000超えの災害と闘う準備ができていないのだ。


 逡巡したあと、シルアンナは交渉を続けるべく話を始める。


『女神は使徒の魂を特例として天使とすることができるの。もちろん、それなりの功績が必要だけどね。私は使徒の魂を天使に昇華させて、助手にしようと考えている。彼ならば、貴方には不可能な世界への多大なる貢献ができるからよ!』


 感情的でありながら、一応はシルアンナも考えている。プルネアの信徒を守るため、クリエスを餌としてプルネアを邪竜ナーガラージの脅威から遠ざけようとしていた。


『使徒の名はクリエス・フォスター。それは貴方の魂を無に還す者の名前よ!』


 信徒たちに被害が及ばぬようにするにはクリエスに頑張ってもらうしかない。時期尚早ではあったけれど、悪霊をも手懐けた彼であればと。


「ほう、随分と買っているんだな? いずれ神竜となる我が人族如きに倒されると?」


 現状では厳しいと思う。しかし、悪霊が戦ったのなら、その限りではない。悪霊の二人は格が違いすぎるのだ。けれども、彼女たちと邪竜が戦えば、周囲をも巻き込む大惨事が容易に想像できてしまう。


『当然でしょ? 私は彼を信頼している――――』


 どうしてだかシルアンナは恥ずかしくなっていた。しかし、伝えた全ては本心である。口にはしないけれど、クリエスもまたシルアンナを信頼しているのだ。与えた加護が昇格してしまうほどに。


「フハハ! ならば我はシルの想い人とやらをを八つ裂きにしてやろう! 心置きなく我を天界へと喚べるように!」


 邪竜は強気に答えている。彼は少しも人族に負けるとは考えていないようだ。

 とはいえ、シルアンナの作戦通りである。これで少なくともプルネアの信徒たちを守れるはず。かといって、クリエスとナーガラージの戦闘は現実味を帯びていた。


『なら約束しなさい。私は無関係な人が巻き込まれるのを見たくない。貴方の巨体が空を飛べば不安を煽るし、地上を歩いたならそれだけで甚大な被害が出る。クリエスと戦うことに反対はしないけれど、彼と会うまでは人化をし歩いて行くこと。またクリエス以外に誰も傷つけないで……』


 徒歩であれば幾分かは時間を稼げる。更には戦うまでの被害も抑えられるはず。どうせクリエスにしか対処できないのだ。シルアンナは最後まで彼を信じると決めた。


「シルアンナ、貴様も約束しろ。クリエスって野郎を始末したのなら、我を天界に喚ぶのだと!」


『ええ、約束してあげる。万が一にもクリエスに勝利したらだけどね?』


 これは賭けであった。惨殺を避ける目的であったものの、女神は地上に生きる者との約束を違えない。言葉にしたシルアンナには義務が発生するのだ。

 たとえ相手が邪竜であったとしても。更には不可能な約束であったとしても。もし仮に約束を守れなかったのならば、シルアンナは重い罰を受けることだろう。


「よかろう。ならば我も約束しよう。クリエスという雑魚と会うまで誰も殺さん。人化したまま、そいつを殺す」


 別に戦いの場面は竜化しても構わなかったというのに、クリエスを侮っているのか邪竜ナーガラージはそう付け加えている。


 シルアンナは笑みを浮かべた。それは邪竜が約束を守るようには思えないから。ナーガラージが不履行であるのなら、この約束は成立しないのだと。


『話し合いはこれで終わりです。実りのある話ができました』


「ふはは! この生の終わりが楽しみになってきたぞ!」


 今もナーガラージは勝利を疑っていない。

 この反応には気を悪くするシルアンナ。愛すべき自身の使徒をまるで気にしていないなんてと。


『それは近いうちに叶うでしょう。せいぜい来世に期待しなさい』


 シルアンナの強気な返答にてこの邂逅は終わりを告げる。シルアンナとしては最善を尽くした。あとはクリエスを信じるだけである。


 本当に天使として迎えたい彼の名を最後に彼女は呟いていた。


 クリエス――――と。

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