第025話 ヒナ、追放へ
聖都ネオシュバルツにあるテオドール公爵家の別宅。貴族院と呼ばれる学校から帰宅したヒナはブレザーの制服からセーラー服に着替え、筋力トレーニングに励んでいた。
「お嬢様!」
どうしてかエルサが部屋に飛び込んで来る。彼女は何やらかなり慌てている様子だ。
「おめでとうございます、お嬢様!」
何が何だか分からない。ノックすらせず、部屋に入った彼女はどうしてか満面の笑みを浮かべている。
「どうしたの? そんなに焦って……」
「いえ、落ち着いてなどいられませんよ! 何しろ……」
エルサは荒い息のまま、今し方聞いた話を口にする。
「お嬢様のご婚約が決まったのですから!」
ポカンとするヒナ。お嬢様とはヒナのことであり、ご婚約とは間違いなく結婚のことだろう。しかしながら、ヒナはその二つをなかなか整理できずにいる。
少しばかりの沈黙。さりとてヒナも事の重大さに気付く。
「えええっ!? わたくし一言も聞いておりませんよ!?」
父である公爵とは毎日顔を合わせている。だが、婚約だなんて話は一度も聞いていない。今朝も一緒に朝食を取ったというのに、エルサの話は初耳であった。
「いえ、お嬢様は既に承諾済みとのことですが……」
眉根を寄せるヒナ。しかし、次の瞬間には筋トレ器具から身体を起こし、セーラー服をパンと叩く。どうにもステータス強化を図るような場面ではないと思って。
「エルサ、お父様はどこ?」
「書斎におられます……」
父の居場所を聞くや、ヒナは駆け出している。ご令嬢らしくなく、それはもう全力疾走であった。
「お父様!?」
ヒナもまたノックすることなく、書斎の扉を勢いよく開いている。礼儀や行儀については前世から厳しく躾けられていたものの、此度の話はそれらを守っている場合ではない。
「婚約とかどういうことでしょう!?」
バンっと勢いよく机を叩き、大声でヒナが問う。
過去に一度も見たことのない表情を見せる娘に、テオドール公爵は驚いていたけれど、王子殿下に聞いたままを彼女に返答している。
「ルーカス殿下からヒナも了承していると聞いたのだ。だから、謹んでお受けしただけだぞ?」
「だけだぞじゃありません! わたくしは婚約するなら幼い頃であったとお伝えしただけなのです! 今更、婚約など言われても面倒なだけですから!」
テオドール公爵は眉根を寄せる。ルーカスから聞いていた話とまるで異なるのだ。ヒナの説明には困惑するしかない。
「いや、ヒナは殿下に会いたがっていたのだろう? 両想いだと殿下は話されて……」
「殿下に特別な感情はありません! わたくしは出来れば追放して欲しいとお願いしただけです!」
「お前が追放とか天地がひっくり返ってもないだろう? ヒナの評判は聖女なのだぞ? それに殿下との婚約は悪くない話じゃ……」
「即刻、破棄してくださいまし! わたくしは王家に嫁ぐつもりなどありませんから!」
未だかつて、これ程までに苛烈な娘を初めて見る。テオドール公爵は彼女が本当に婚約を望んでいないことを今さらながらに知らされていた。
「しかし、もうサインしてしまったしな。王家から贈り物も多数届くはずだ……」
頭を抱えるヒナ。だが、彼女は父の話に妙案を閃く。この状況はある意味、チャンスかもしれない。
婚約から婚約破棄。そして待ち望んだ追放ルートが今し方、解放されたのではないだろうかと。
「お父様、無理難題を押し付け、この話を破棄してくださいまし。わたくしは王家になどお世話になるつもりはありませんし、殿下のことはすこーーーしも好きではありませんから! よくお伝えください。殿下のことなんか眼中にありませんの!」
流石にテオドール公爵は苦い顔をする。既に王家と約束を交わしたあとだ。好きではないという理由なんかで破棄できるはずもない。
「しかし、ヒナ。もう調印したあとなのだぞ? 今更破棄しようものなら、王家だけでなく、各諸侯たちにも申し訳が立たない。我が公爵家はかなり立場が悪くなってしまう」
公爵領には五十万という領民がいる。政治的立場の弱体化は領地運営に影を落とし、そのしわ寄せは守るべき領民へと向かうことだろう。
理路整然とした説明だが、ヒナは首を振る。彼女には周囲を黙らせるべく秘話があった。それを口にするだけで婚約など容易に破棄できるはず。
「今まで黙っておりましたけれど、わたくしは18歳の誕生日を迎える前日に死ぬ運命なのです。幼い頃、ディーテ様が降臨され、わたくしにそう告げられました……」
ディーテから制約について公表するようにと聞いていたのだ。王家に嫁ぐことになるくらいなら、今こそ発表のときである。
「ヒナ、冗談は……」
「冗談ではありません。ディーテ様は仰いました。運命に争う術があることを……」
何度も顔を振る公爵にヒナは続けた。運命を切り開く方法が残されていることについて。
「わたくしは旅に出て、強くなることで運命を変えられるのです。だからそこ幼い頃から今の今まで鍛錬を続けてまいりました……」
テオドール公爵はゴクリと唾を飲み込んでいる。確かに幼い頃から剣術を習いたいだとか、トレーニング器具の製造とか妙なお願いをされていたのだ。不思議に思っていたことの全ては、女神ディーテに誘われていたからだという。
「確かに幼すぎる頃から鍛錬を始めていたな……。ヒナはそのような頃からディーテ様の神託を受けていたのか?」
「ええまあ、物心ついた折に。それで、わたくしは18歳の誕生日を無事に迎えたあと、世界を救うべく行動を促されております」
頭を上下させるテオドール公爵にヒナもまた頷きを返す。彼女が成すべきこと。それを明らかにする時であった。
「魔王と邪竜の討伐――――」
再び息を呑むテオドール公爵。流石にその内容は受け入れられない。ヒナは一人娘であり、彼には他に子供がいなかったのだから。
「いや、ヒナ……」
「お父様、どうしようもないのですよ。わたくしは何もしなければ18の誕生日を迎えられません。わたくしに未来があるとすれば、世界を救うという対価によって、その先を女神様より授かるだけなのですから」
テオドール公爵は頭を抱えた。よりにもよって愛娘が救世主に選定されてしまうなんて。非業の死を回避するためには世界を救うしかないなんてと。
「お父様、別にわたくし一人ではございません。南大陸にシルアンナ様の使徒様がおられます。わたくしは鍛錬を続けつつ、彼と合流するようにと聞いております」
「それは本当か!? ヒナが一人で戦うわけではないのだな?」
「最終的にはですけれど。とりあえず、わたくしはエルサを連れて旅立とうと考えております」
まだ神聖魔法を完璧に習得していない。ライトヒールと浄化は覚えただけであり、熟練度上げの最中である。しかしながら、ヒナはもう旅立つ時だと分かっていた。
対するテオドール公爵は何度も溜め息を吐きつつも、ようやくと大きく頷いている。
「そうか、よく分かった。お前がずっと努力してきたこと。それは公爵家だけでなく、誰もが知っている話だ。人知れず運命に抗っていたとは、我が娘ながら頭が下がる。私はヒナを誇りに思うよ……」
目頭の涙を拭いながらテオドール公爵が言った。悲痛な運命を嘆くことすらせず、真摯に向き合ってきた愛娘には賞賛の言葉しか口を衝かない。
「王家には私から連絡しておこう。此度の婚姻は誤解であって、ヒナには残された時間がないことをな……」
何とか婚約騒動は収束しそうだ。かといってヒナには関連する秘めた野望がある。ただの騒動で終わらせるつもりはない。
「お父様、婚姻を破棄するだけでは示しがつきません。ここはわたくしを追放するという罰則が必要かと思います。わたくしは嫁げないのですし、誤解とはいえ王家を混乱させてしまったのですから……」
再び涙ぐむテオドール公爵。流石にそれは避けたく思うも、何の罰則もないわけにはならない。自ら公爵家の身代わりとして罰を受けようという娘には言葉がなかった。
「ヒナ、お前は本当に世の評判通りだ。聖女だという話は決して大袈裟なものじゃない。お前の申し出は領地や領民にとって本当に有り難いものだ。私は情状酌量を求めるつもりだが、恐らく廃嫡でしか折り合えないだろう。しかし、書類上において親子の縁が切られようとも、ヒナは私の気高き娘。お前はテオドール家の一員だ……」
ヒナとしては自身の願望を口にしただけ。だが、公爵はヒナが領民を含めた全ての人たちのため、罪を一身に引き受けているように感じている。
「お父様、よろしくお願いいたしますわ。わたくしは覚悟しておりますので。公爵家からの廃嫡をわたくしは望んでおります」
もう公爵の涙は止まらなかった。彼は号泣し、ヒナを強く抱きしめている。
一方でヒナは凛とした表情。ようやくと彼女も決心が固まっていた。女神から仰せつかったこと。願望を遂げられるのであれば、世界を救って悪評を覆すのだと。
「ヒナ、お前は何があろうと私の娘だ。この先に何が起きようとも……」
どうやらテオドール公爵も覚悟を決められたらしい。ヒナがいうところの追放でもって、この騒動に終止符を打つのだろう。
「お父様、わたくしは世界を救って戻ってきますから……」
今一度、抱きしめる腕に力が込められた。父と娘の決意のほど。愛情の深さだけ、それは強く固定されている。
双方が思いの丈を伝えられたと考えていた……。
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