第百七話 踏み出した一歩
「身体を……」
「うん、そろそろ動かしたほうが良いよ」
そう言ったナティはノグルさんを呼びに行った。今まで身体を拭いたり、排泄などはノグルさんが手伝ってくれていた。
それすら申し訳なく、キーアのことだけでなく、生きていること自体が苦痛だった。
しかしノグルさんは「気にするな、俺がしたいだけだ」と言って譲らなかった。
どうやっても死なせてはくれない。
これだけ俺を生かそうとする理由が、どうやら母親に関係しているらしいということは、ナティと話しているうちに徐々に気付くことになった。
ナティの母親はどうやら野獣に襲われ死んだらしい。しかも襲われてすぐには発見出来ず、ノグルさんが駆け付けたときにはすでに遅く、助けることが出来ずに目の前で息を引き取ったそうだ。
それ以来、ノグルさんは「生死」に対して異常に執着するようになったらしい。
ノグルさんは必死に勉強し医者になった。村には医者はいたが、すでにかなり高齢の人で、これを機に、とノグルさんに診療所を譲ったのだそうだ。
それがこの家。
居住のための部屋が何部屋かあり、それとは別に診察室があった。
診察室と言ってもただ少し広めの部屋に机と椅子が二つ、それに大きな本棚があるだけなのだが。
小さな村のため、それほど患者が来るわけではないらしいが、誰でも気軽に受け入れるために、小さな擦り傷だったり、なんとなく調子が悪いのだ、と世間話だけしにくる人だったり、とよく診察室は賑わっていた。
寝たきりでいた部屋に笑い声が届くこともよくあった。
見知らぬ子供に部屋を覗かれたことも。
そのたびに居た堪れない気分になり、消えてしまいたくなった。
俺はここにいるべき人間ではない。
「よう、リュシュ、調子はどうだ?ナティがそろそろお前の身体を動かしたほうが良いって言ってたが」
「…………」
死なせて欲しい気持ちと、ここでは死ぬことが出来ないならば早く元気になるしかない、という矛盾とで複雑な思いのままだった俺には、なんと返事をするべきなのか分からなかった。
それが分かったのか、ノグルさんは苦笑しながらも、俺の身体を支え立たせた。
いつもなら抱えられていたのだが、久しぶりに自分の脚で立つ。足の裏の感覚が不思議だった。脚に力が入らなくフラフラとする。
しかし支えられながらも一歩を踏み出したとき……
「リュ、リュシュ!? どうしたの!? 大丈夫!? どこか痛いの!?」
ナティがオロオロして駆け寄った。
俺の目からはボロボロと涙が溢れ、俯くと床に染みを作った。
「ち、ちがっ……なんでもない……」
涙が溢れて止まらない。
自力で歩くことへの喜びか、キーアに対しての罪悪感か、それすら分からず、ただ涙が溢れて止まらなかった。
「ほれ、行くぞ」
ノグルさんはなにも言わないし、聞かなかった。豪快に俺の顔をゴシゴシと布で拭くと歩き出す。
ナティは少し気にしているようだったが、やはりなにも言わなかった。
俺はいつも守られてばかりだな……。
ノグルさんに支えられ、初めて家の外へと出た。
小さな村。のどかな村。
高い建物などひとつもなく、今いる場所から村の端が見えるほどの小さな村。
しかし多くの畑や小川が見える。
あぁ、確かに癒される。
でも俺に癒される資格などない。
村を一望出来るところに椅子を置き、そこに座らせてくれたノグルさん。
今日は一日ここにいろ、と放置された。
いや、放置されても……。
『リュシュ、元気になったー?』
ひょっこり精霊が顔を出す。
精霊たちは気まぐれに俺を治癒したりもしてくれていた。
しかし所詮気まぐれ。さらには精霊自身だけの力では大した効力はなかった。
精霊たちが俺の頭の上やら肩やらで楽しそうに小さな花を降らせていた。
花の香りが心地よく、暖かな日差しのなか瞼が重くなる。
あぁ、今なら悲しい夢を見ずに済むだろうか……。
死ぬことが出来ずに助けられたあの日から、毎夜夢を見る。
最初はキーアに責められる夢。それから次第に変わってくると、キーアが謝ってくる夢になった。
なぜ謝るんだ! キーアは何も悪くない! 悪いのは俺だ!
苦しかった。夢を見るたびに涙を流しながら目が覚める。
眠るのが怖かった。キーアに謝られるのは苦しかった。
精霊たちがなにかを感じたのか、夢を見たときはなぜか頭を撫でてくれるようになった。
いい子いい子、と言いながら。子供のようで情けない気分にもなったが、そのあとは夢を見ずに眠れた。
次第にキーアが子供のころの夢になってくると、楽しかった記憶を取り戻し、懐かしい気持ちともうキーアはいないのだという現実とで、やはり辛くなった。
でも……これは俺が死ぬときまで背負い続けることだ……。キーアを忘れないためにも……。
そして暖かな日差しと花の香りに包まれ、俺はまた夢を見た……。
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