第59話 国民総中流家庭
沙由は中学に入ってテニス部に所属した。漫画の世界で知ったテニス。憧れのテニス。『エースをねらえ!』のように華麗にコートを走りたかった。
人気の高いテニス部は新入部員が他のクラブより圧倒的に多く、なんと八十人。その人数をスリムにするために、とにかく激しい練習が続く。毎日マラソン、腹筋、素振り。それに打ち勝ちたくて、きついトレーニングにも耐え、玉拾いに汗を流し、振り分けられる毎日の中で踏ん張って、半年後、やっとの思いで残った六人の中に留まり、新人戦に出た。成績こそいまいちだったが、後輩から慕われる満足な中学校生活だった。
高校に入ってお茶とお花を習いに行くようになった。自分の置かれた世界に満足できず、何処かもっと違う場所へ飛躍したいと夢見ていた。それがテニスでありお茶とお華のお稽古事だった。
毎日テニスの練習に明け暮れていた沙由の手足は真っ黒に陽焼けし、師匠から嫌われた。指先の美しくない所作にあきれられ、先輩の美しさを見習うように何度も注意された。沙由もお風呂に入るたび両手を眺めて、その黒さにため息をついた。ゴシゴシこすって白くならないもんかと祈った。
たくさんの弟子に混じってのお稽古事は、今の沙由なら飛び込まなかった世界かもしれない。あの頃はどんなことも我慢できる自信があった。クラブの部長になることも今なら辞退する。そのくらい消極的な人生が好みなのに、あの頃、沙由は自分を変えようと必死で何かにしがみつこうとしていた。
テニスもお稽古事も好きだった、憧れだった、という理由の他に自分を変えたい。何かから脱却したい。そんな強い気持ちから続いたのかもしれない。
あの頃ようやく家が貧しくなくなった。というより日本中の暮らし向きが楽になった。国民総中流家庭的な気質が芽生え出した。
いろんなことをあきらめなくて良くなった。自分のやりたいことをやりたいと言えるようになった。町の中に教室やカルチャーセンターが出来、挑戦する事が身近になった。
ところが…子供の頃、知らず知らずの格差の中で育った沙由のやりたいことはたかが知れていた。自分が持っているイメージ以上のことは想像することが出来ない。やりたいと思うことにも自ずと限界があった。持って生まれた自分の環境を乗り越えることが一番難しいことだと思い知らされる毎日だった。
それでもむきになってやった。何かをしていないと生きている理由が見つからなかった。魅力的に生きたいと思えば思うほど、力の無さに怯えながらも何かを試さずにはいられなかった。
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