第17話 単身赴任

 康彦の単身赴任が決まった頃、早苗もようやく自分の携帯電話を手に入れた。連絡が豆に取れるようにと必要に迫られて手に入れた携帯電話は、普通の通話よりメールを先に覚えなくてはならなくて機械音痴の早苗には荷が重い宿題付きの厄介な代物だった。

 東京と名古屋の遠距離生活。隔たりは3時間20分。心細がったのはむしろ康彦の方で早苗は仕方ないと割り切って諦めていた。それより携帯を使いこなすことの方が緊急課題で、別れを惜しんでいる暇はなかった。

 引っ越しの時、「鍋やかん。せめてポットくらい持って行けば」と言う早苗のアドバイスに「家で何もしないから」と話を聞かない。

 手ぶらで赴任して、向こうでテレビと布団だけ新調した。奴の帰る場所に必要なのはそれだけなの?家には寝に帰るだけなんだ…と、改めて思った。

 家庭って女と男がいて子供がいて煩雑な暮らしがあって初めて物が要るんだ。

 部屋には流し台の下に組み込まれた洗濯機と冷蔵庫がついている。インターネットの取り口もついている。今どきの独身向けコンドミニアムは至れり尽くせりの贅沢仕様だった。

 食事はコンビニ、お茶もコンビニ、宿舎には食堂もあるけれど帰りの遅い康彦には利用できない営業時間だった。

 確かに新たな電化製品を買い込まなくても困ることもないかと思ったけれど、これほど何も持たずに単身赴任するなんて…

 幸い携帯電話というものは大変便利で、話したいなと思った時、電話は無理でもこまめにメールを送ることが出来た。今までも会議中なら連絡はつかない。会社に電話をかけるなんて相当急を要する事じゃない限り今までやったことがない。帰りは遅い。サラリーマンの家庭は、夫が朝家を出たらそれっきり連絡の取れないことが当たり前だった。

 その点メールはバカバカしい事でも打つだけ打っておけば気が済んだ。誰が見るわけでもないくだらない話も気楽に言えたし、返事のあるときもない時もあったが、伝えてしまいさえすれば悩みは消えた気がして、返事がなくてもストレスにならないことがわかったのは素晴らしい発見だった。

 今まで一緒に暮らしてきた月日を思うと離れていても会話の多いこと…時間はかかっても康彦は結構誠実に返事をくれた。

 たわいのない会話。「今度の土日は帰る?」「うん帰る」「夕飯何食べた?」「コンビニ弁当」これだけで案外やっていけるもんだ。内容ではなく行ったり来たりすることが重要なんだ。

 夜はサッサと眠れる。結婚以来、駅から何の交通手段も無い陸の孤島だった新興住宅の通勤は、どんなに遅くても迎えに行くために起きて待っていた。

「快適!快適!単身赴任手当は貯金と」早苗の楽しみは増えたが、単身赴任の不規則で温かみのない食事に飽きた康彦は疲れ果て、早苗のことを恋しがった。

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