第8話 落とした時計

 金具が緩んで使いづらくなった時計を机の奥にしまいながら、今日の昼食の事を考えていた。

 一人で行くのもつまらないし、かといってコンビニ弁当もそろそろ飽きたな…誘いたい同僚もいないし。

 時計の思い出や、もらった時の感動も一緒に封じ込めてしまったことも忘れるほど、紀美子は最近精神的に参っていた。

 毎日、パソコンに向かって慣れないブラインドタッチの練習をした。はやる気持ちを抑えてマニュアル通りに指を動かすと今までよりスピードが遅くなって、文字と文字の格闘に気疲れした。

「入力できれば良いんじゃないの」

 と、思いながらも毎日の事なんだから少しでも効率よく打てるようになる必要も感じていた。手元も見ずに余裕で打ち込んでいく隣の席の落合を羨ましく思っていた。

 憧れていた事務所勤めは、毎日の暮らしが単調で湿っぽく、話もしない同僚とか自分のことで精一杯な古株の顔が気に入らなくてがっかりした。

 毎日誰かのパソコンが調子悪かった。二人でシェアして使うプリンターがもどかしかった。管理しているソフトはそれぞれが出し渋り、家でやれることも会社でやらなくてはならなくて待ち時間の効率の悪さも気に触った。

 この仕事は私の仕事じゃないと日に何度も思った。

 最初の契約と違うと黙り込む日が多くなった。なんでも出来る事が大して得でもないとこの頃ようやく気づいた。誰もが素知らぬ顔をして自分の仕事しかやらないのがなぜだかわかるようになった。

 私は契約社員だから今月で終わりだ。

「気が向いたらこの先も考えてくださいね」

 と言われていたが、そんな気はさらさら無くなっていた。気持ちよくお互い関わり合える職場の方が私には向いている。と思うようになっていた。

「お金じゃないよね…環境よ。気持ちよく仕事が出来なくちゃ駄目よ。私はおせっかいなのかな…」

と自己反省しながら重い足取りで家に帰った。

 自分の仕事を後回しにしても急ぎの仕事を頼まれると気持ちよく引き受けた。契約外の仕事もそれ自体気にはならなかった。

「今日も一時間余分に働いた。関係ない仕事まで回ってくるの」

「お前が初めになんでも引き受けるからだよ。重宝なやつが入ってくれたと皆んなありがたがってるよ」

 そんな会話もついに後三日だ。

 日頃気前の良い紀美子はサークルでも大抵のことは引き受けた。人がやりたがらない広報も手伝ったし、赤い羽根募金の立ち番や、日曜の交流会も積極的に参加した。そんな日々に後三日で戻れる。開放される安堵感だけで今をしのいだ。

「長いことお世話になりました」

「今川さん辞めるとまた忙しくなるな。雑用やってくれる人いないもんな」

「すみません。当分仕事はしないんです。ちょっと勉強したいこと有って…」

「そうか、ほんとに残念です」

 紀美子はあっさりと仕事を辞めた。

 そしてまたいつものボランティア生活に戻った。

 何日かして美紀子は大切にしていた時計が無いことに気がついた。

「あ、引き出しにしまったままだ」

 二度と踏み入れたくない領域に忘れ去られた時計。紀美子は取りに行く気力もなく、もう終わったこと。落としたもんだと諦めることにした。

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