第6話 薔薇の香り
薔薇の香りのするあの屋敷に、子供の頃、祐子は何度となく足を運んだ。破れた塀をくぐると目の前に開ける広大な敷地。それが、イングリッシュガーデンと呼ばれる伝統的な庭だと知ったのは20年も過ぎた後だった。作為を感じさせない自然のままの姿。乱れ咲く花の美しさ、香りに心を奪われ、時の経つのも忘れて、陽炎の揺れる砂利道の向こうに小さく動く人影を見ていた。祐子が気づかれることはない。それほど雄大な庭だった。
季節が変わるとハーブが茂り、秋になるとセージが咲いた。霞けぶる雨の時期。むせ返るような暑さの中。木陰に座る祐子に柔らかな風が吹いた。目を閉じる至福の時…
祐子がその後、当時としては珍しいガーデンキーパーになったのはそんな秘密があったからだろうか。
今や一流のガーデナーとして押しも押されぬ有名人の河田祐子は庭造りの公演や年間契約を交わした店舗や個人宅の庭の手入れ。大きなイベントをいくつも抱えていたが、陽に焼けた農作業で引き締まった筋肉質のその体は、少しも偉ぶる様子もなく、自然体で柔軟だった。
多分…原点のあの庭が祐子のイマジネーションのバックボーンだったからだろう。膨大な仕事に追われる祐子の日常は泥にまみれ、汗にまみれ、格好を構う必要のないシンプルな日々だった。
ある日、本を出さないかと出版社から電話をもらった。祐子の手がけた庭の写真集を企画しているという依頼だった。
祐子はふと思った。
「子供の頃大好きだった庭があるんです。あの庭が昔のままだったら…その記事を特集にして本に載せてもらえないでしょうか」
すでに30年。過ぎ去った時間を惜しむように祐子は編集者に頼んだ。
失くなっていたらどうだろう…自分の原点を見失うだろうか、いつも日常の作業の中で幾度となく思い出すあの光景を…
「河田さんのおっしゃる庭かどうか自信がないんですけど、それらしいものがですね有りまして、一度一緒に行ってみないかと思って連絡しました」
担当の一之瀬から折り返し連絡をもらった。意外にも、頼んでから一週間も経っていなかった。ちょっと拍子抜け…
「そうだよね。住所も大方わかってるんだから見つかるよね」
と思いながらも自分の足で行こうとしなかったズボラさに首を引っ込めた。
「でも…、河田さんがおっしゃるほど大きな庭じゃなくて、それが気になっているんですが…」
一之瀬の声に祐子はハッとした。そして、消極的にも見に行かないほうが良いかも知れないと思った。自分の原点だけに…そしてなにより感傷的になっている自分に驚いて、
「やっぱり止めます!行かないことにします。ああ、写真集は予定通りでいいですから」
一之瀬の何やら言う声も聞かず、祐子は受話器を置いた。
薔薇の香りが一瞬にして切ないものに変わった。なりふり構わずやってきた自分の、唯一の感傷的な部分が愛おしくも有り、可笑しくも有り、やっぱり自分はただの臆病なおばさんだったことにホッとして大笑いした。
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