[30] 近接域
「ストップ」
森の中、先頭を歩いていた篠崎は大声で叫んだ。
むやみに音を出すべきではない。そんな教えを気にしていられる状況ではなかった。
不意に違和感。警戒レベルを一気に最大まで引き上げる。
何かがおかしい。それはわかっている。けれども何がおかしいのかはわからない。
異変があれば退け。その通りだ。しかし現状その異変がなんであるのかすら感知できていない。
時には街道に沿って時には街道を外れて、篠崎、栗木、佐原の3人は西川らの跡をたどる。
そうして歩くことおよそ3か月、ようやく終焉の地、魔王領への近接域まで到達した。
確かに一段と魔力が色濃い。最もなじみのある街周辺と比べて、森自体が鋭く神経を刺激してくる。それでも自分たちの対応できる範囲内であったはずだ。だからこそこうして侵入してきた。
長剣を構える。どこに向けるでもなく。ただ何かあればすぐ反応できるように。
時間の経過とともに焦燥感は募っていく。びりびりと脳がしびれる。赤眼のプレッシャーを思い出した。似ている、けれども決定的に違う。相手は獣ではない。だったら何だというのだ。それがわかれば苦労しない。
「撤退しよう」
最後尾の佐原が静かに言った。
それがいいだろう。篠崎は無言で深くうなずいた。
逃亡は敗北ではない。むやみにつっかかって返り討ちにあうことこそが敗北だ。
緊張をほどいてはいけない。まだその時には遠い。背中を見せるな。武器を構えたままじりじりと後退していく。そこにある違和感から決して目をそらさないようにしながら。
「まさかこれほどまでに成長してるとは思いませんでした」
景色がゆがんだ。同時に声が記憶を刺激する。どこかで会ったことのある人物。どこで? 思い出せない。それほど強い関係のある人物ではない。けれども覚えがある。
長身の優男、物腰の柔らかい男で新任の教師か何かを思わせた、高校生を相手にするのにちょうどいい人材かもしれない――ディエス、城にて召喚された学生たちの教育係をまかされていた、そうしていつのまにか消えていた、その男が魔王領に近い森の中にふらりと立っていた。
「どうも、お久しぶりです。栗木くん、佐原くん、篠崎くんでしたね、確か」
「どうしてこんなところにいる? あなたはいったい何者なんだ?」
「うーん、答えるのになかなか難しい質問ですね」
こちらが構えている長剣に対し、ディエスは何も持っていない。というのにたいして警戒の色を見せない。それは油断によるものではないのだろう。そんな緩みきった人間がこの場で待ち伏せしてたなんてことはあり得ない、希望的観測はやめろ。
しばらく宙を眺めていたディエスは何かを思いついたのか、ぽんと手を叩く。そして彼は形を変えた。
形を変えた? それはどういうことだ? そんなこときかれたってそうとしか言いようがない。
最初ディエスは成人男性という形をしていた。その輪郭がぐにゃぐにゃとぶれたかと思えば、その色合いも別のものに変わっていって、ついにはまったく違った形態に変化していた。
真っ黒な影が1つ、森の中に立っていた。純粋に近い黒。自然にはあり得ない色。それが視界に存在している。そこだけ風景が切り取られたみたいに。加工された写真をみせられていると言われた方が納得できたかもしれない。
それはこの世界においても異様な代物だった。
「要求は何だ?」
「切り替えが早くて助かります。要求ですか、なんでも受け入れてくれるんですか」
「命は渡せない。それを求められたらさすがに戦うことになる」
その変形だけで十分だった。十分すぎるほどに力量の差を思い知らされた。一応戦ってこちらの強さを見せるまでもないぐらいの差。
幸運だったのは言葉が通じる相手だったこと。互いが最後の命までかけてやり合わなくてもいい。なんらかの譲歩をせまられることになったとしても。
「安心してください、そんなものこちらも求めてはいませんよ」
「そいつはよかった。気が楽になったよ」篠崎は皮肉気に笑って見せた。単なる強がりだったけれど。
「ついでに武装も解いて大丈夫です。その程度、あってもなくても私には関係ないので」
言うとおりに長剣を収める。
多分彼は真実を話している。篠崎たちにはディエスの存在が未知であること、それからその魔力が膨大であることしかわかっていない。多少武器を構えたところで大きな違いはないだろう。
ついでに緊張もゆるめてほっと一息ついた。今もって状況はやばいがもう自分たちではどうにもならないことだ。なるようになれ。まな板の鯉の気分。
こちらが張りつめた状態を解除したの確認するとディエスは満足そうに頷いた。その黒い影はうやうやしく礼をして、それにしてもどこから声を出しているのかわからない、以前と変わらない声音で言った。
「我が王があなた方と話がしたいとのこと、ついてきていただけますか?」
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