[21] 魔獣

 魔力は遍在する。

 生物の体内、体外、地中、水中、空気中、どこにでもあってはたらいている。ただし一様ではなく濃淡があって、強い地域もあれば弱い地域もある。

 あるいは魔力の多く含まれる食品というのも存在してそれらの摂取によっても体内に許与量を超えた魔力が蓄積する可能性がある。

 要するにおおよそのところはわかっているが、細かい部分に立ち入ろうとすればたちまちよくわからない話にぶちあたるということだ。


 重要なのはそうした原理原則ではない。そんなものの追及は一部の人間にまかせておけばいい。

 ほとんどの生物によって体験的に認識されていることだが、扱いきれない量の魔力に暴露した場合、存在そのものが変質する可能性がある。

 それはあくまで可能性であり必ず発生するというわけではない。確率の問題であって暴露量が増えれば変化の確率も上がるだろうと考えられている。

 またその変質に耐え切れずに身体が崩壊する事態も観測されている。とりわけ暴露量が膨大である場合に崩壊が発生する可能性は大きくなる。


 それなら崩壊しなかった存在はどうなるか? それまでとは別の存在として生きることになる。

 変質によって以前に彼が属していた種とはすでに隔絶されている。単独で生存することを余儀なくされる。ほとんどのケースで群れを離れる(または追放される)。

 彼自身が一個体によって新たなる種を形成する。

 といっても彼の生存能力は変質によって大きく向上しており、生き残ることは難しくない。むしろ彼と敵対する側の方が大変である。

 相手は我々の常識の範疇にないから。


 だいたいそのようなことが一瞬のうちに篠崎の頭の中をぐちゃぐちゃに駆け巡っていった。記述の混乱は不理解によるものなのかもしれないけど。

 一般にそうした変質した存在は『魔獣』と呼ばれている。その魔獣がゆっくりとした動作で木々をかき分けてその姿を現した。


 鉄のバケツをかき鳴らす。村中にがんがん響きわたる。

 寝てた人は全員跳び起きたろうが外には出てこないように言ってある。相手の力量がわからない以上、その場に非戦闘員がいても混乱するだけ。犬も今日は家の中だ。


 闇を溶かしたような黒い毛並。のっしのっしと歩く3Mほどのその巨体は熊に似ていた。

 似ていてもまったく別種のもの。その前足は極端なまでに太く肥大化している。まるで丸太をその両腕にくっつけてみるみたいに。

 夜の中で赤い目だけがはっきりと見える。こちらを視認しまっすぐに観察してくる。


 敵はおそらく一定の知性を保持している。そして危険を認めれば一旦は退く、慎重派。

 遠く焚火に照らされてその爪がぎらりと光った。あれで一撫でされれば確かにちゃちな柵ぐらいなら吹き飛んでもおかしくないだろう。

 そして自分も。


 鋼鉄の盾ごとへし折れる自分の姿を幻視する。大きく開いた穴からは向こう側の景色が綺麗に見えていた。

 耐えきれるか? おそらく不可能だろう。

 真正面から受け止めることはできない。できるだけ衝撃を逃がせ。強く取っ手を握りしめた。

 佐原がテントから出てくる。自分たちの名前を呼ぶ。戦闘態勢は整った。


 お互いがお互いの存在を認めながら距離を保つ。

 赤眼は依然として柵の外周にまでたどり着かない。彼は急ごうとはしない。時間をかけてにじりよってくる。

 それは余裕から来るものなのだろう。まっすぐ進んだ先で手の触れたものが食えるものであれば食い、食えないものであれば破壊する。満ち足りるまでその繰り返し。

 3人もまたその場から動かない。敵の戦闘能力は未知数。

 撤退の選択肢は常に頭の片隅に置いてある、がまだその時ではない。


 その右腕が触れ間に合わせの柵は崩れ落ちた。焚火をはさんで3人と魔獣は相対する。

 篠崎は栗木より少し前に立つ。初撃を受け止めるのは自分の仕事だ。

 まだ近接戦の間合いではない。けれども大きく一歩踏み込めばすぐにも爪と剣がぶつりかりあう距離。

 佐原は動かない。むやみな攻撃は相手を刺激する恐れがある。


 赤眼のその下にある口が大きく開かれた。端からだらだらと透明な粘液が零れ落ちる。

 火の粉が弾ける、舞い上がる。獣は迷いなく飛び込んできた。

 小細工なし。真っ向勝負。


 篠崎は大盾表面に幾重にも防壁を展開する。最大構築。この一撃だけは避けない。受け止める。

 薄紙みたいに簡単に、防壁は破られていく。剥がれ落ちていく。

 衝撃が芯まで響いた。頼みの綱は残る大盾自体の耐久力。

 吹き飛ばされてるのかそれとも自分から吹き飛んでるのか。どうにかこうにか勢いを殺して受ける。


 ぎりぎりのところで心を支える。残っている理由は後ろに友人が立っている、その事実ぐらいしかない。

 自らの立場の不安定さを思い知る。命を懸けるほどの思い入れはなかった、この世界に。

 まだこれが現実だと認められないのだろうか。そうして幻想の中で死んでいくのだろうか。

 夢を見る。ほんのつかの間。暖かい何かに手を伸ばす。何だったのか。すぐに忘れた。


 ――そんな迷いなんてクソくらえだ!

 今生きている、そして死にたくないと願っている、その感情だけで十分すぎる!

 両足で大地を踏みしめる。あるいは人はそれを現実感と呼ぶ。

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