11.甘え零れる

 寧々ねねは明るく開けた場所に立っていた。

 豊かな水を湛える巨椋池おぐらいけ、ゆったりと流れる宇治川、畔に並び立つ仏閣。広がる田畑に、丘の上に立ち並ぶ家。

 我が家も丘の上にあった。一番大きな寺院をちょうど見下ろせる場所だったから、洛中洛外からやってくる多くの参拝客も見て取れた。

 色も織も様々な衣装の人たちは顔つきも十人十色。花と黄金と香で飾られたお堂の前で、掌を合わせ経文を唱える作法どおりの行いの裏、願いも皆違うのだろう。

――わたしは、きょうだいたちが飢えずにすみますようにって祈るな。

 もう何年も、寧々の願いは変わらない。同じ家に暮らす子供たちが大人になること。寧々を含めた皆を護ってくれている養父がいずれ幸せに老い、穏やかな生活を続けられること、戦から遠くいられることだ。

 それなのにと眉を顰めると、景色が人が流れる。

 壁に囲まれた中に来た。我が家だ。たった四部屋しかない家で、一つは圭庵の診療所、二つを寝間として使って、残り一つの囲炉裏のある部屋は食事や特別な客が来た時に使っていた。

 囲炉裏の傍に影がある。妙算みょうざん阿頼耶あらやだ。渋い顔の圭庵けいあんと話し込んでいた。三人を襖の影から覗く寧々の傍には、寧々の次に年長の妹、あおいがいた。

 口数の少ない葵はそれ故に聞き上手で、時折、不思議なくらい他人と親しくなる。妙算、阿頼耶の珍客と仲良くなったのも彼女が最初だった。それがいけなかったとは思わないけれど、関白から文が届けられるきっかけとなったのは間違いがなくて。

 皆の穏やかな生活を護るために、誰かが関白の手の内に行かなければならない。寧々が、行く、と決意するのは当然だったのだ。

 また景色が変わる。家の外。壁を曲がった先に気配がある。男女が話す声が聞こえる。葵と阿頼耶だ。恐ろしい型で太刀を振るう彼と思慮深い妹が、何故か。二人が深い仲になったことに気が付いたのは圭庵と寧々、どちらが先だっただろう。最初は密かにだったかもしれないけれど、二人は纏う空気をどんどん変えていって、隠しきれなくなって。

「浮かれていないでよ」

 急にそう言いたくなって、角を曲がる。

 現実のあの時は逃げ出したはずじゃなかったっけ?

 踏み出して、顔を出して、悲鳴を上げて飛び起きた。

 そこに居たのは万丸よろずまるだったのだ。



「夢よ、夢」

 寧々は布団に突っ伏した。



 袖を捲り上げて、床をゴシゴシ拭いていた。絹の着物が、などと気にしている場合では無い。何かしていないと叫びだしてしまいそうだった。

――なんで夢に万丸が出てくるの?

 寧々の暮らしは養父ときょうだいたちが第一だった。寧々自身のことは後回しだ。同じ年頃の娘たちが次々と祝言を挙げていく様子を羨ましいと思ったことなど一度も無い。そのはずなのに。

――なんで、よりによって、万丸なの!?

 傍にいるからつい、頼ってしまっていたけれど。彼も寧々を人質とした側の、圭庵と反目する関係の人間なのだ。

「甘えちゃ駄目」

 一際長く大きく息を吐き出して、床を拭く。近づいてくる足音に、眉を吊り上げて振り向く。

 足早にやってきたのは刑部ぎょうぶ鮎子あゆこの夫妻だ。よりによって夫妻だ。

 二人は寧々の傍に立つと、揃って首を傾げた。

「どうにかできるのか?」

「するしかないでしょう」

「背に腹は帰られぬと言うからな」

「……何の話?」

 寧々が身を退くより早く、刑部が踏み込んできて、頭を下げられた。

「本来の役目ではないと承知の上で、協力を頼みたい」

 目が丸くなる。鮎子が寧々の腕を取る。

「さあ、早く。湯殿に参りますよ」

 瞬く。体はすんなりと引き摺られていく。

 伸ばしっぱなしだった髪の先を切りそろえ、がたがたの爪の先を削って整えて。頭の天辺から足の先まで洗われた最後、着飾ってくれと言われた。

「白書院様は今、関白閣下のお客様と会われているのですが、その都合で」

 喋る間も鮎子の手は止まらない。

「わたしがお客さんの相手をするの?」

「同席されるだけで結構です」

 座っているだけのために装うのだ。溜め息が零れる。

 髪は、椿の実の油だという金色の露で濡らされて、輝く。日焼けの引いた肌は、白粉が被せられて、さらに白く。唇には紅が乗せられる。白妙の小袖を着て、辻が花の打掛を掛けられた。

「すごい、お姫様だ」

 鏡台に映った自分は別人だ。宇治で畑仕事と子守に励んでいた寧々ではない。

「こちらを」

 と、鮎子が白い花を渡してくる。

「白書院様から預かりました」

 梔子の花だ。梅雨が明け、もう見頃は過ぎたはずの花。それが甘く香るのはきっと彼が咲かせたから。

――喋るなってことね。

 両手で包んで持って、立ち上がる。鮎子が速足で進むのを、必死に追った。


 渡り廊下を通って移動するのは初めてだ。正確には聚楽第へやってきた最初の日に通っているはずだが、牛車に酔って気を失ったところを運ばれたわけで、覚えていない。

 檜の柱の白書院を出て、南の黒書院へ。此処の柱は杉だと聞いたがたしかに黒い。そんな違いをゆっくり見る間も無く、さらに南の大広間の棟へ。仕事中らしい男たちが右往左往している中を抜けて、もう一つ南。松の襖絵で囲まれた部屋に辿り着いた。


「来たか」

 万丸は一番奥に座っていた。小袖袴の上に胴丸を羽織った、いつもどおりの姿。表情は特に無く、広げた扇子で一角を示された。

 分厚い座布団が一枚。そろり座る。

「なるほど、こちらの女人に着せてみよ、ということですな!」

 庭を背に座っているのは、羽織袴に頭巾を被った男。横に葛籠をいくつも並べている。

 葛籠に並ぶ形で、青嵐せいらんが立っている。彼もいつもどおりの狩衣姿だが、顔に浮かべているのは曖昧な笑みだ。

 そろりと首を回すと、反対側には刑部と駒右衛門こまえもん。こちらは揃って無表情。

 寧々の両手の中には梔子の花。潰さない程度に力を込める。

「では早速」

 と、頭巾の男が立つ。葛籠から恭しく取り出されたのは、赤い絞染の打掛。

「どうです、華やかでしょう? 西海道から仕入れたのですよ」

 辻が花の打掛が取り払われ、赤いそれが乗る。

「如何ですか。如何ですか!? あ、お気に召さない? では次を」

 代わって、黒字に銀糸の刺繍が施された打掛。寧々の肩に掛けるなり、商人なのだろう男は瑞穂國の何処で作られた品で何両の価値があるかを蕩々と述べる。

 そしてまた絞染、型染、綾織、と品物は次々出てくる。寧々の肩の上は、取っかえ引っかえ替わっていく。

「さて、これで全部ですかな」

 満足げに頷く商人に、万丸はひらりと扇子を振った。

「ご苦労だった。閣下には私から伝えておく」

「はい! 是非お買い上げよろしくお願いします! 松の丸様お好みの赤も、星の前様お好みの刺繡も、南御殿様のお気を引くような形も、すべて手前にお任せくださいとお伝えください!」

 ぺこぺこと頭を下げて、男は去って行く。

 その足音が遠ざかってなお、たっぷり時間を置いてから。

「毎度のことながら疲れますね」

 青嵐が口を開いた。

「寧々殿もお疲れ様です」

「あの、今のは……」

「関白閣下への売り込みだ。いつもは散々喋って商品を置いていくだけなんだが」

 うんざりした声を出したのは万丸。刑部もこめかみを押さえている。

「一介の商人風情を関白閣下にたやすく面会させるわけには参らぬ。故に、常から万丸様が代理をされていたわけなのだが」

「今回に限っては、聞くだけでなく実際に着ているところを見ろ、とうるさくてな」

 寧々は鼻に皺を寄せた。

「着せるの為の道具だったのね、わたし」

「拗ねるな」

 万丸が息を吐く。

「手間賃にその中から好きな物を選んでもいいぞ」

「結構です!」

 ふん、と立ち上がる。だが、いつもと違う装いは動きづらい。

「慌てて動くと転びますよ」

 と、手を出してきてくれたのは青嵐だった。

「白書院までお戻りなら、お供します」

「ありがとう」

「ですが、折角の晴れ姿、すぐ脱いでしまうのは勿体ない。とてもお似合いですよ。ねえ、万丸様?」

 皆の視線が万丸に集まる。だが彼は扇子で口元を隠して。

「悪くないな」

 と言った。

「どうせお姫様じゃないですよ!」

 べ、と舌を出す。万丸は息を吐く。

「喋らなければ姫君に見えなくもないのにな」

 ズキ、と胸の奥が軋む。両手の中にまだある梔子の花。


 甘い香りは掌に移っていた。

「しばらく何もできないよ」

 部屋に戻り、両手を顔に寄せて、鼻を鳴らす。

 この手で着物を触ったら、香りが移ってしまいそうだ。そうなると始末に悪い。ずっと着ているのも手入れが面倒になるだろうに、と思いながら寧々はじっと座っていた。

 視線を落とせば、辻が花。

「悪くないって何よ」

 頬を膨らませる。

――わたし、万丸に何を言ってもらいたかったんだろう。

 しゅん、と肩を落とした時に。

「入るぞ」

 声に体を揺らす。

「そんなに驚くことないだろう」

 縁側に立っているのは万丸だった。袂に閉じた扇子を入れ、手には。

「桃?」

 よく熟れていそうな果実を持っている。

「どうしたの?」

 瞬いて問うと、彼は部屋に入ってきた。

「先程の商人の品の一つだ。これはちゃんと買った」

 そう言って袴の裾を捌き、寧々の正面に腰を下ろす。

「なんでも甲州から届いたとか」

「え? 何処?」

「東海道だ。いったい何日かけて運ばれてきたのだろうな」

 僅かに息を吐いてから、彼はずいっと寧々の前に実を差し出してきた。

「先程の手間賃だ」

「わたしにくれるの?」

 わっと前のめりになる。ごくり、喉を鳴らす。

「美味しそう」

「食べたいか?」

「もちろん!」

 寧々は手を出しかけて、止まった。

「どうした」

「今、手にさっきの梔子の匂いが移っちゃってるの」

「なるほど。それで桃を持ったら、大変なことになりそうだな」

 ふむ、と万丸は首を捻った。

「……まず、皮を剥けば良いのか?」

「そうだね」

「包丁がいるか?」

「いらないよ。よく熟れてたら、するっと剥けるよ」

「手で?」

 ほう、と万丸は息を吐く。また首を捻って。

「こうか」

 左手で桃を支え、右手の爪を立てる。するり、と淡紅の皮が摘ままれて、引かれる。

「え、今剥いちゃうの?」

「食べたいんだろう?」

「そうだけど」

 皿も何もない。どうするつもりだとハラハラしている間に桃はその白い実を露わにする。

「できた」

 万丸が笑んで、そして。

「そら」

 と。右手に持ち直した桃を差し出してきた。

「食え」

「このまま?」

「早くしろ。握り潰しそうだ」

 寧々は瞬いた。花とはまた違う甘酸っぱい香りの果実。汁をふんだんに含んでいるのだろうそれ。

 喉が鳴る。

 そろり、両手で髪を押さえて。目を閉じて、首を伸ばす。

 齧り付く。

 しゃく、と桃が口の中で崩れる。柔らかく瑞々しい。もう一口、もう一口、と囓ると、万丸が笑うのが聞こえた。

 頬が熱い。

「ほら、全部食べてしまえ」

 うっすら目を開くと、彼が手の向きを変えて、食べやすくしてくれているのが見えた。その手首を果汁が伝っていくのも。

 それでも桃に齧り付く。

 やがて、真ん中の堅い種だけになってから、寧々は身を引いた。

 口の中いっぱいの甘酸っぱさ。頬には熱。

「ご馳走様でした」

 精一杯、声を絞り出す。

 万丸は肩を震わせて。

「美味そうだったな」

 桃を握っていた手に舌を這わせた。

 手首とその先へと伝っていた果汁を舐め取ろうとするから、袖から腕がのぞく。筋張った男の腕だ。それに己の舌を這わせて、万丸はまだ笑う。

「たしかに美味いな」

 見ていられなくて、寧々は顔を伏せた。


 万丸は分かっていない。花を贈ってくれることが、袖の中に隠されることが。着物を、肌を見ているのだと知ることが。彼が為してくることがどれだけ寧々の中を掻き乱しているのか。万丸は分かっていない。

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