10.残らないならば
「近頃おまえの周りは賑やかだな」
と言われ、顔を伏せた。正面に座った人は愉快そうに笑っている。
「圭庵の娘に速水の遺児、どちらも話題の中心だ。圭庵の方は儂が寄越したわけだが、速水はどうした?」
「一条家の紹介です」
「ふむ。陰陽寮一族か」
関白は顎を擦った。
「あの家の
何もないとは言えない、万丸はひっそり胃を押さえた。関白は扇子を揺らして楽しそうだ。
「昔からのお公家様は儂のことが気に入らぬらしいからなあ。片田舎で神主をしていた一族がふらりと都に現れて、物の怪を狩っていったのだから」
「物の怪だけではないでしょう」
「いや、物の怪じゃ」
関白は目を細める。
「物の怪は人の心の内より生まれ出づる鬼。千年に渡りこの地に溢れていたのは、栄華を相争った人間が生んだ物の怪よ」
パチリ、扇子が閉じられた音が響いた。
「物の怪の種が己らの内にあると気付かぬ公家が、儂らが狩る端から新たな物の怪を生んでいく。これでは終わる戦も終わらぬ」
「それで宝物を差し出せと命じられたのですか?」
「いや、それは別の話」
わはは、と関白は笑った。
「戦が無ければこその楽しみがあると思わぬか?」
万丸は首を振った。
「先般、圭庵の娘にも言ったんだが、聞いておらぬか?」
「ええ、何も」
「そうか、残念じゃな」
唸って、関白はお茶を煽った。
「聞いていないついでに、もう一つ。松の丸が国松に琴の稽古を付けさせると言っておる」
数多の側室たちの中でも寵深く、唯一聚楽第に住まいを定めている松の丸。彼女が己の子に。
「琴を弾かせる」
まだ六つの子供にどうするつもりだと首を傾げると、関白は重々しげに頷いた。
「そりゃ勿論、師匠をつけるんじゃよ。幸いにして、望月と繋がりができたからな」
当代きっての奏者と名高い藤望月。琵琶だけでなく琴も得意で、聞けば、春に行われた宴以降も頻繁に聚楽第に現れていたらしい。
「望月殿が師匠とは」
「贅沢だろう? 今日も稽古の日で…… どれ、応援に行くか」
「いいえ私は」
「ほれ行くぞ」
袖を引かれ、万丸は溜め息を呑み込んだ。
聚楽第本丸御殿。広い敷地の中でさらに堀と塀に囲まれた中にある、関白の住まい。主の好みを反映した煌びやかな建屋だ。
万丸が叔父に呼ばれる時は、南の部屋に通される。だが、今向かわされているのは東の庭に面した広間。関白が私的な席を設けるときに使われる空間、春の宴の会場だ。蓮の咲いた池が見える。
池を背に座り、置かれた琴を睨んでいる小さな体。ぽろん、ぽろろん、何度か響かせられたものの、すぐに寝転がる。
「これ、国松。きちんと座りなさい」
横に座っていた打掛姿の女人――松の丸がその肩を叩く。
「やーだぁ。できない」
「これ」
「すぐにできるようになるものではありませんからな」
反対の肩を叩く狩衣姿。こちらが望月だ。きちんと揃えた膝の上に出っ張った腹が乗っている。それを揺らして、彼は言う。
「長く共にいて、心を通わせて、それで楽器は佳き音を出すようになってくれます。一度や二度失敗したくらいで、泣いてはいけませんな」
「ほら、師はこのようにおっしゃっておいでよ。起きなさい」
「えー……」
部屋に入る一歩手前で立ち止まり。足をばたつかせる子の姿を見て、関白は万丸を振り向いてきた。
「応援するとおっしゃいましたね」
「どうも難しそうだな。止めるか」
ニヤリとされた。文句は当然呑み込んだ。
そろりそろり後退る叔父の気配を辿りつつ、部屋の内を見る。畳の上で大の字になる子供。それを見下ろす女人。母子の顔を順に見てうろたえる男。天井にひっそり漂う黒い靄。
建物の内にいる物の怪に眉を顰める。いったい何処から入ってきたのか。この御殿の主もかんなぎ、庭を横切る分にはともかく、中に潜り込んできたものまで放っておくことはしないだろうに。
今ここで、万丸が手を出せば追い払うことはできるだろう。すべきか否か、靄を睨む。そして、ふわふわと伸びるそれの端が床まで垂れていることに気が付いた。
――出所は部屋にいる人間か?
昼下がり、聚楽第の大手門。日差しの中を人が行き交う。
「これはこれは、白書院様」
万丸の姿を認めて、望月は笑った。すると、彼の目は瞼と頬の肉に埋もれて見えなくなる。
ふう、ふう、と汗を拭いながら向かってきた男に、万丸は頭を下げた。
「いやいやいや、どうされました? この儂が何か?」
「御礼を。従弟に稽古を付けてくださり、かたじけない」
「あ、あああ、そういう……」
額と首に汗を流しながら、笑みも崩さない。
「申し訳ないが、まだ幼い。演奏をものにするのは大分先になるでしょうな」
「松の丸殿もそれは理解してらっしゃる」
「そうだといいですがなぁ」
ただ顎の下を揺らす様をじっと見つめて、万丸は望月へ問いを重ねた。
「雅楽寮のお役目もあるのに、国松の師匠まで引き受けてお忙しくないのか?」
「いやあ、今は忙しいくらいがちょうどいいですよ。余計なことを考えなくてね」
望月は重たげな肩を竦めた。
「先般、閣下に琵琶を献上したでしょう。あれは主上に命じられてやったこと、自分でも納得してやったことなのに、未練がましくてですなぁ。生まれた時から家にあった琵琶ですし、さらに通り名の元はあれの銘ですから。何かとあの琵琶を弾きたいと思ってしまうのですよ」
一気に言って、それから彼はまた汗を拭き始めた。
「いやぁ、お見苦しくて申し訳ない。忘れてください」
無理だ、と胸の中で呟く。そこまではっきり言われて、彼が琵琶を取り戻したいと思っていると分からないわけがない。同時に、関白を説得して返却させるのも難しいだろうと感じる。
万丸は扇子で口元を隠し、首を振ってみせた。望月は笑みを崩さないまま、停められていた牛車に乗り込んだ。
ごろごろと音を立てて車が進む。黒い靄が風に吹かれるていく。
瑞穂國の全てを巻き込んだ戦乱を収められて一年。
諸侯におかれては、この國を彩る宝物を都に差し出されるべし。
関白のお達しから四ヶ月。実際に献上された数はさほどでも無いが、準備が出来たという声はそこそこ聞こえてくる。その動きの先頭にある、藤家の琵琶『望月』。そんなに思い入れのある品をだったのか、と今更思う。
やはり関白は、人質を取るのと同じ発想でこの命を出したのだろうか。手元に誰かの大事なものを置くことで、迂闊に逆らえなくなるように。
「宝物とはなんだ?」
歩みがどんどんと遅くなる。今日は聚楽第の中をぐるぐる巡っているから疲れただけだ、と万丸は息を吐いた。
二の丸御殿に辿り着いてからも住まいが遠い。南の玄関から入ると、四つの建屋を抜けないと白書院に辿り着けない。
真ん中の建屋まで来ると、襖の前を行ったり来たりしている一団がいた。竜丸が雇った絵師たちだ。先月の宴席で竜丸は、この大広間を新しくする、と豪語していたから。彼らも張り切っているのだろう。その様を見ると、新しく物を作るというのは正しい遣り方かもしれないと感じてきた。
「何の為の物だ?」
新しい物を作ると言えば、速水一族――千歳もだ。あれは技を伝える意味も含んでいたから、新しく打たれた刀剣を用意している。
だが、作り出すために労力を費やしても手元に何も残らない。
「宝物は誰のものだ?」
零して、万丸はよろよろと歩を進めた。
そして白書院まで辿り着いた時。
「おかえりなさい」
聞こえた声にほっとした。次の瞬間ぎょっとなった。
声の主は寧々だ。着ているのは聚楽第での暮らしにと万丸が用意した絹の小袖。それはいい。
小さい袖をさらにたすき掛けして、しなやかな腕を曝け出している。右手に握りしめられているのは黒ずんだ布。縁側の脇には水がなみなみ入った桶、壁に立てかけられた箒。裾も乱れて、白い脚が見えている。
「おまえは何をしている」
「何って、床の掃除だけど?」
問いに寧々は首を傾げる。
「埃を掃き出して、雑巾で拭いているだけよ。こんな贅沢な着物でやるのも気が引けたんだけど」
右手で己の額を押さえて、万丸は呻いた。
「じゃあやるな」
「でも、庭に出ないでも体を動かせることって掃除くらいなんだよ。お願いしたら刑部さんも鮎子さんも良いって言ってくれたから張り切っちゃった」
堪らずよろめく。寧々の声は明るい。
「もっと早く思いつけば良かった、本当に。全然思いつかなかったんだよ。宇治の家の掃除は弟たちの役目だったんだから。料理も葵が中心でやってくれてたし。わたしは先生の手伝いや外の畑仕事をしていたし」
「外の」
呟いて、振り返って。万丸は改めて寧々の顔を見つめた。
「それで日に灼けていたのか」
「悪かったわね!」
頬を膨らませる寧々に、首を振る。
「白くなったな」
「え?」
指先を伸ばして頬に触れれば、しっとりと湿っていた。灼けた肌は乾いていることが多いが、それが無い。日焼けが静まってしまうほど日が経ったということだ。彼女の元の暮らしが遠くなっていった証。
指先を動かせないまま、黙る。
「あ、あの」
寧々はぱくぱくと口を動かして。
「万丸」
名を呼んで。
「避けなきゃ!」
どん、と突き飛ばしてきた。
不意打ちに勝てず、万丸は床に倒れ込んだ。木の板に背中を強かに打ち付けて、呻く。
寧々はそのまま踏み出した。
「何しに来たのよ!」
彼女の視線の先にあるのは黒い靄。物の怪だ。中心にどしりとした塊から伸びる腕のようなもの。それが振り上げられている。
「触らせないんだから!」
向かってくる腕に手にしていた雑巾を投げ付ける。当たったところから靄は崩れる。空いた両手で壁の箒を握り直すと。彼女はそれを降り回した。
「この! この!」
ぶんぶんと音が立つ度に、千切れ、散らばって。黒い靄は埃よろしく外へと掃き出される。
「もう来るな!」
寧々が叫ぶ横に転がったまま、万丸は呟いた。
「……おかしいな」
物の怪は花を嫌う。どういう理由かは知らぬが、近寄らぬのだ。いきおい、花を咲かせる力を持つ万丸を恐れ、白書院に物の怪が近寄ることは滅多に無い。万丸自身が狙われることはまず無いはずだ。それに。
「屋根の下で見かけたのは、今日二回目か」
本丸御殿を思い出して、息を吐くと。
「悠長にしてないでよ!」
寧々が声を上げた。床に膝を付き、どん、と彼の顔の横に両手を付く。
「あのまま殴られてたらどうなってたと思うの!?」
床に転がったままの万丸に覆い被さるように、寧々は顔を覗き込んできた。
「痛いだろうな」
身動ぎせずに答えると、さらに声が降ってくる。
「痛いで済んでいればいいけど。下手したら死んじゃうじゃない! ちゃんと避けなきゃ」
「結果的に避けることには成功していますが」
「なるほど、おまえは俺を庇ったつもりなのか」
「そうだよ」
「ですが、その体勢は如何なものかと」
「もう少し別の方法はできぬのか。背中が痛い」
「それくらい大丈夫だよ!」
「何を根拠に……」
「あの、万丸様。寧々殿」
呼ばれて、二人で顔を向ける。
縁側を歩いてきたらしい青嵐が立っていた。普段どおりの狩衣姿、広げた扇子で目元を覆っているが、頬が赤いのを隠しきれていない。
「いつまで、寧々殿が万丸様を押し倒された状態でいるのですか?」
ぴたり、動きを止める。万丸が顔を前に真っ直ぐに向けると、寧々の顔が見えて、その向こうに天井が見えた。
わあ、と叫んで、寧々は壁際まで飛びすさる。万丸は転がったまま、元気だな、としか思わなかった。
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