12.変調(前)

 角を曲がったところで寧々と遭遇した。

 右手に雑巾を握りしめ、袖を捲り上げて腕を露わにした格好も見慣れてしまった。

「また掃除か」

 万丸が呟くと、赤い顔の彼女はぱくと口を動かして、そのまま横を向いてしまった。

 それだけだ。


 よく喋るはずの彼女が何も言わなくなって三日。さすがに居心地が悪い。

「お心当たりがないとは言わせませぬ」

 と、鮎子には睨まれた。白髪交じりの女人はこういう時が一番怖いが、怯えている場合でもない。

「急に喋らなくなった。何が気に食わぬのか」

 白書院の縁側を進みながら、思うところを口にすると、もっと睨まれた。

「急に、ということはきっかけがございましょう?」

「……衣装の説明に呼びつけた後からだが、あれが悪かったのか?」

「その件に関しては、わたくしも夫も同意いたしましたし、寧々も納得してございましょう」

「じゃあ何だ」

 両手を挙げてみせても。

「わたくしからは申し上げられませぬ」

 鮎子は首を横に振った。

「おまえ、随分あれと親しくなったんだな」

 万丸は足を止め、違う事を口にした。すると鮎子の顔に笑みが浮かぶ。

「絆されたのですよ」

「養父から引き離されたのを不憫と思ったか」

「それもすこし。ですが、それ以上に、鮎子、との呼び名が気に入ったからですね」

 彼女があまりに穏やかに喋るから、万丸は鼻に皺を寄せる。

「……鯉だったんじゃないのか」

「たしかにあの着物に描かれていたのは鯉でございますけれど。佐々木の家内、刑部の妻とばかり言われていたところに、わたくし一人を表す名が出来たのですよ。これはもう、嬉しゅうございます」

 長い付き合いの中でも滅多に見たことのないような笑みで、彼女は。

「たしかにコイでございますわね」

 と重ねた。

 首を捻り、万丸はまた足を進めた。


 向かった先は聚楽第じゅらくてい本丸御殿ほんまるごてん。広間で国松の琴の稽古を眺めながら、万丸はずっと考え込んでいる。

 ここのところ、悩ましいことが多い。

 まず、物の怪の多さ。庭を横切る靄の数は言わずもがな、建屋の中で見かけることが増えた。襲われた者もいるとかいないとか、実にかまびすしい。

 また、宝物を差し出されるべし、との関白の言葉を受けた動きが活発だ。あれから四ヶ月経ち、皆考えがまとまってきたらしい。先日の売込も、泉州の商人たちが利権のために成そうとした事。他にも万丸に関白へのを求める者が上下を問わず引っ切り無しにやってくる。御蔭で、千歳ですら関白と顔を合わせる機会を設けるのでやっと、宝物の話を切り出せていない。

 皆必死なのだ、と思う。相手にとって自分にとってどれだけ価値がある物を差し出せるかによって、この先の立場が変わっていくのだから。

 最善は、相手にとって価値が高く、己が手放しても惜しくないものを渡すこと。

 泉州の商人が仕入れた着物、速水一族が打った刀、ああいう物が差し出す側にはちょうどいい。

 身内を人質に出すよりずっとい。

 そこまで考えて、溜め息を吐き出した。人質と言えば、寧々だ。あれは名うての剣豪・辻井圭庵の動きを止めるための人質なのだ。

 不自由な立場のはずなのに、随分と白書院で寛いでいたようだったが。

「それが何故黙る」

 変わらず掃除に精を出し、書物を読んでもいるようだが、万丸が話しかけてもだんまりだし、向こうから何か言ってくることはない。

「苛々するな」

 呟くと、甲高い弦の音が響いた。

「痛い!」

 叫びに続いて、泣き声。はっと顔を上げる。

 右手を反対の手で押さえて、国松がべそをかいていた。部屋の隅から、縁側から、パタパタと女中たちが集まってくる。子の横では師となった望月が腹を揺すって、身を乗り出した。

「おお、若君。弦で指をやられましたか。急に弦が切れましたからな」

「そうだ、急に切れたんだ! それがいけないんだ!」

 わんわん響く泣き声に、手当をなさい、お方様をお呼び、と言う声が混じる。万丸も腰を上げる。

「国松」

 傍に寄って声をかけると、涙目で見上げられる。

「痛いよ」

「男なら泣くな」

「でも痛いもん」

 しくしくと泣きながら、女中へ黙って右手を差し出す。おとなしく手当をされていると云うか、他者に仕えられることを当然とした振る舞いと云うか。

 その横では、腹を揺すり汗を拭いながら、望月が琴を見ている。壁の端を伝う黒い靄は見なかったことにする。

 そうして立ったままの万丸を見上げて、国松は口を開いた。

「男だって言うならさ、剣の稽古がいい。琴の稽古なんて女みたいだ」

「剣の稽古はもっと怪我をする。痛いぞ?」

「それでも剣がいい」

 国松の頬は膨れたままだ。

「だって、僕も武家の子なんだ。武家の男は合戦に出るんだよ。万丸だって出たことあるでしょ?」

「一応、な」

「ほらね! 僕だって将来は武将になるんだ! その時に強くあるように、剣術が良いよ!」

 手当の終わった右手を空に突き上げる。苦笑いを浮かべて。

――合戦など無い方が良いんだが。

 言葉は呑み込んだ。そのための宝物で人質なのに。

 沈黙を破ったのは望月だ。

「ささ、稽古を続けましょう。何事も続ける琴が肝心肝心」

「えー」

「国松」

 万丸がきつめの声を出すと、ぶつぶつ言いながらも国松は琴に向き直る。その弦はきれいに張り直されている。

 それなのに甲高い音がした。


 琴では無い。


 稽古が終わり、望月を大手門まで見送った。そのまま国松に付き合うことになって、二の丸御殿へ。

 夏が来た空は青。雲の白、庭木の緑との対比に目が眩む。歩いただけで背中を汗が流れる。扇子で風を起こしながら進む万丸に対して、国松はおそろしい程に身軽だ。

「万丸、あれは何をしているの?」

 小さな手が指差す先は大広間の建屋。そこに集っているのは竜丸が手配した絵師たちだ。

「絵を描いている――襖絵を新しくするんだ」

 ふうん、と返される。

「絵だけあってもつまらない。それが何の絵なのか話してもらわなきゃ、分からないんだもん」

「説明が無くても自分で分かるように、勉強しておくんだ。また本を貸してやろうか?」

「本当?」

 キラキラ輝き始めた瞳を見ながら、このまま白書院に連れ込もうと決意する。この暑さだ、庭を走り回るより書を読み聞かせている方が楽だ。

 日盛の中、手を引いて庭を突っ切る。檜の柱の住まいまで戻って、目を丸くする。

「人が多いな」

 主である自分がいない間に人が増えている。

 縁側には人が二人――惟方と千歳だ。惟方は狩衣姿、千歳は肩衣袴に腰に打刀を差している。二人とも万丸を認めると、会釈を送ってきた。

 そこから降りた庭先には竹箒を手にした寧々が、腰に太刀を佩いた少年――阿頼耶と睨み合っている。

 さて、誰から声を掛けようか、と万丸が悩む間に。

「白書院様」

 と呼んできたのは惟方だった。眉がハの字を書いている。

「御覧のとおり、寧々殿と阿頼耶が喧嘩中でして、是非仲裁を」

「喧嘩してない!」

 寧々が叫ぶ。金切り声でも久しぶりに聞いた気がする。

 一方の阿頼耶はひどくおっとりと口を開いた。

「ええ、喧嘩しておりませぬ。白書院に上がらせてくれと言ったら、断られただけのこと」

 口調に反して、その右手は太刀の柄にかかりっぱなしで物騒だ。

「いいなあ、格好いい!」

 物怖じしない国松が阿頼耶に歩み寄り、太刀の鞘へ手を伸ばしたのだが。

「触られぬよう」

 阿頼耶が体をずらす。手は宙を掻く。

「ケチんぼ。僕が子供だから駄目なんだ」

「剣は、その扱いを知っている者しか触ってはならぬと、師に言われていますので」

「じゃあ稽古したらいいの?」

 国松は首を傾げる。

 阿頼耶が佩くのは、彼の身の丈の半分以上もある太刀だ。糸巻の拵えは華美では無いが、頑丈そのもの。中の刃の鋭さも普通では無い。

 阿頼耶は首を横に振った。

生半なまなかな稽古では駄目ですよ、若君。この般若太刀はんにゃのたちは気難しい刀ですから」

「それを使えるおまえは強い剣士ってことだな!」

「ええ、そうです」

 阿頼耶の笑みが深くなるほど、国松は膨れる。そのまま万丸を振り返ってくる。

「ほら、やっぱり琴の稽古じゃ無くて、剣の稽古にしようよ!」

「……おまえが言っても、松の丸母上様が納得しないぞ」

「じゃあ万丸が言ってよ! 万丸だって刀を差してるのに、ずるいよ!」

 ほら、と国松は今度は万丸の腰を示した。胴丸で隠れてはいるが、そこに刀があると彼は知っているのだ。

 合口拵、刃長七寸二分の短刀。それを左手で撫でながら、万丸は首を横に振った。

「これは小さいだろう。小さな物しか持てぬほど、俺は剣術は苦手なんだ」

 すると不満を隠さない声が返ってきた。

「剣術が苦手なんて格好悪い!」

「そうは言っても、必要ないからな」

「どうして!? 武家の男なのに!」

 国松は地団駄を踏む。

「武家の男は戦で活躍しなきゃいけないんだ!」

 すると。

「戦はなりませぬ」

 強い声で割り込んできたのは千歳だった。

 国松は目をまん丸にして振り向く。万丸も阿頼耶も寧々もだし、惟方は、うげ、と呻いた。

 千歳は両の拳を体の脇で震わせて。

「戦はなりませぬ」

 もう一度言った。

「人が死ぬのです。安易に始めてはなりませぬ」

 目の端が赤い顔を見て、広げた扇子の蔭で息を吐いた。

 今の国松より幼い時に、千歳は実際の戦を見ているのだ。その決着のために父が腹を切ったことも知っている。

 元服の後にお飾りの大将として戦陣の中にいただけの万丸とは違う。

 縁側の上と外で睨み合った後。わっと国松が声を上げた。そのままぼろぼろと涙を零し始める。

「国松、泣くな」

 肩に手を置くと振り払われた。両手で顔を拭いながら、それでも国松は嗚咽している。

 千歳は縁側に立ち尽くしていた。惟方を見遣ると、彼は頷いて千歳に耳打ちをした。国松が誰かを伝えたのだろう、ますます蒼白になる千歳の顔に胸の内で謝る。

「国松。人に仕えられるなら、話を聞くことも知らねば」

 膝をついて顔をのぞき込む。まだ嗚咽は止まらない。反対隣に、寧々がしゃがみ込む気配がする。

 橙色の小袖の袂から取り出された端布が、幼い顔の縁に触れる。ゆっくりと涙を拭う寧々に、国松はそろり体を向ける。

「うん、お顔拭こうね」

 寧々がぱっと笑った。日盛に負けぬ笑み。国松がぐてっと寄りかかってくるのを彼女は抱きしめる。

「うん、良い子良い子」

 ぎゅ、と腕に力が込められると、国松も腕を伸ばしてしがみつく。嗚咽が止まらない。寧々は国松の背をぽんぽん叩き続けている。

 じくり、胸の奥が疼く。

 痛みを振り払って立ち上がる。


 泣き疲れた国松は、白書院で昼寝を始めてしまった。布団に寝かされた国松に寧々は付いている。本丸へと使いを走らせてやっと、万丸は一息ついた。

「申し訳ございません、白書院様」

 千歳が部屋にも入らず、床に手を付く。その横で惟方が肩を竦めた。

「お見逃しください。国松様へはちょっとお灸を据えた方が良いんですよ。甘やかされてますからね。まさか知らぬ男から言われるとは思わなかったのでしょうか」

 ね、と惟方が意地悪に笑うのに、万丸は首を振る。

「国松は、千歳はともかく、阿頼耶も知らぬのか?」

 阿頼耶は関白の手駒。今は本丸御殿に寄宿しているのではなかっただろうか。そう思って振り向けば、目が合った。

「顔は分かる、くらいではないでしょうか」

 阿頼耶も縁側に立ったまま。にこにこと笑われて、扇子を振った。

「おまえは何をしに来たんだ」

「寧々にお渡ししたいものがあったのです。宇治まで行って参りました」

「辻井圭庵の元か」

 関白の使いだろう。眉を寄せる。

 一方で阿頼耶は、やや頬を染めて、俯いた。

「一刻もいられませんでした。朝出て、もう帰ってきてしまいました」

「……早いな」

 朝出て、昼下がりの今此処に居るというのは、片道四里半の道程を半日で行き来したことになる。阿頼耶の健脚をもってすればわけないだろうが。

「それで、圭庵先生と葵から手紙を預かったので、寧々に渡したくて」

「それなら上がらずとも渡せただろう」

「ええ、そうなんですよね。渡すだけだと気が付いたので、さっさと渡しました」

 万丸は目眩を押さえた。

「おまえとあれは圭庵の元で会っているのに…… 何故仲が悪いんだ」

「分かりません」

 また目眩がする。

 ところで、と阿頼耶は目を細めた。。

「来て気が付いたのですが、今日の白書院、物の怪の気配が濃いですね。信じられない」

 惟方と千歳が息を呑む。阿頼耶は調子を変えない。

「聚楽第としては普通なんですが、此処でこんなに濃いのは珍しい。白書院様の力があるのに」

 すうっと目を細め。

「ほら、いた」

 と、部屋の前の庭を指した。

 びぃん、と甲高い音がする。またこの音だ。

「斬っても?」

「やれ」

 万丸が言うなり、阿頼耶の唇から嗤笑が迸った。

 飛び出して、抜き放った太刀を真っ直ぐに靄へ突き刺し、弾き飛ばす。弦の音、悲鳴のような音が響いて、刃は光だけを映す。千切れた欠片を追って、裸足のまま阿頼耶は走る。

 白書院の角を曲がって、そのまま黒書院の方へと向かう背中に。

「竜丸のところで暴れさせるのは良くないな」

 溜め息を吐いて、万丸は部屋を出た。後ろを惟方と千歳が付いてくる。

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