08.卯の花くだし
しとしとと雨が降っている。
「出かけた人たち、ずぶ濡れになっていたりしないかな?」
聚楽第二の丸御殿が白書院、南側の縁側。庭を向いて座った寧々は、小袖の裾を絡げ、素足をぱたぱた揺らしていた。温い空気の中で動かしていると、それに併せて細かな雫が弾ける。だから、足はもう結構なほど濡れているのに。
「これくらい平気だろう」
部屋に入ってすぐで書を広げていた万丸は、顔も上げずに言い切った。
「叔父上も側室方も皆、牛車で出かけたからな」
「車に乗っている人は平気でしょうけど。ほら、外にお付きの人たちはいるわけでしょ? その人たちは濡れてないかなぁって。あ、祭礼行列の人たちも濡れちゃってるね」
寧々は雨雲を睨んだ。
「朝は止んでいたのに」
今日、卯月の中の酉の日。古くから伝わる禊ぎの祭りの日だ。選ばれた駿馬、作られた葵と桂の魔除け飾り、それらに守られて、都の安穏を祈る
関白は当然のように出かけていった。側室たちも着飾って続いた。その牛車の列を見送って、自分も見物に行きたかった、と寧々が頬を膨らませたのは今朝のこと。
青空の下をしずしずと進む行列は荘厳だっただろう。いや、雨に濡れているとしてもきっと厳かに違いない。
「見たかったな」
零れた呟きはしっかり聞かれたらしい。
「祭りに興味があったとは知らなかった」
万丸がそう言うのに、部屋の中を振り向いた。寧々が部屋の前に来てからずっと、彼は書見台に開かれた冊子とずっと睨み合っている。小袖袴の上に胴丸を羽織ったいつもどおりの服装で、いつもどおりの表情で。浮つかない態度に問いかける。
「わたしはあるよ。あなたは興味ないの?」
「特別興味を持たずとも、日取りは聞こえてくる」
「ええ? じゃあ今日だってずっと前から知ってたの?」
「そうだ」
「あるって知ってたのに、どうして早く教えてくれなかったの?」
だから、と万丸は声を強めた。
「おまえが興味が持っていると考えていなかったんだ」
一度息を切って、続けられる。
「仮に興味があると知っていたとして、連れて行ってやれたと思うか? おまえの立場は人質なんだ。簡単に外に出せるわけないだろう」
睨まれて、うっと息が詰まる。当然の理論。
「分かってるよ」
「ならば、出かけたいなど軽々しく口にするな」
万丸は静かに視線を書に戻した。書見台に向かって座りなおした姿を見つめて、寧々は肩を落とした。
しとしと、しとしと、雨が降り続ける。
「まあね」
と、真っ直ぐな背中に言い放つ。
「見るなら、家族と見たかったな」
すると。
「誰のことだ」
今度は振り返らないままで問われた。寧々は笑う。
「圭庵先生と、葵と、紀之介と五助と小六と……」
きょうだい全員の名前を連ねようとしたら、いい、と止められた。
「覚えられん」
「はいはい、そうですか」
唇を尖らせて。ふと浮いた疑問を口にした。
「万丸の家族は?」
この白書院で暮らしていると云える人間は少ない。主人の万丸と、彼の付き人である
不用意な問いかけに万丸は僅かに止まって。それから、ゆっくりと振り返ってきた。見えた顔が冷えきっていたことに、息を呑む。答えはないのかもしれない、と思ったのに。
「父はもう鬼籍に入った。母は髪を落として、洛外の寺院で父の菩提を弔っている」
常どおりの声が聞こえて。
「そうなんだ」
むしろ驚いた。
「一緒に住んだりしないんだ」
「考えたこともないな」
「それでもさ、お母様に会いに行ったりしないの?」
「しないな」
次も戻ってきた答えに。
「そんな、せっかくお母さんが生きているのに、会いに行こうよ」
寧々は眉を下げた。
「会いたくても会えない人だっているんだよ?」
「それはそうだろうな。死んでしまえば会うことは叶わぬ」
だが、と万丸の表情は揺らがない。
「俺が聚楽第を出ることはないからな」
「出かけないの? 何処にも?」
寧々が食い下がっても、万丸は首を横に振るばかりだ。
「必要ない」
「だからお母さんに会いに行こうよ」
「何故だ」
「わたしが寂しい」
「変な奴だな」
「どうせ変ですよー」
ぷいっと寧々は横を向いた。
視線の先で、庭に降る雨は続く。白い花が打たれてぽたりと地面に落ちる。黒い靄は、物の怪はいない。万丸が近寄らせていないのだろう、と寧々は素直に信じた。
万丸は花を咲かせる力を持っていた。咲かせた花は物の怪を近寄らせない。事実、彼が咲かせてくれた花を部屋に飾るようになってから、一度も部屋の近くで物の怪を見かけていない。よく考えれば、白書院の建屋の中に物の怪は出たことはない。見かけるのは庭だけだ。
そう。雨で庭に出れないから此処にいるのではない。物の怪がいないから此処にいるのだ。護られているのは心地良い。
・。*・。*・。*・。*・。*・。*・。*・。*
家族の話の後、特に口を利いていないというのに、寧々はまだ縁側に座っている。霖雨の中、散策も適わず暇を持て余しているのだと万丸は考えた。深窓の姫君のような暇潰しを彼女は知らないだろう。とはいえ、自分をお喋りの相手に選ぶのは如何なものかと思う。
万丸は冊子を閉じた。喋りながら読んだから、内容をあまり覚えていない。江州の所領から届いた今年の作付けの計画だから把握しておきたいと思う。だから、後でまた読むしかあるまい。
――そういえば、これも字が読めるのだったな。
ちらりと寧々を見る。視線に気付かず、彼女は庭を眺めている。
会った最初に己の幼名で試した結果で、ある程度の文字は知っているのだろうと思ったのだが。また試しに書物を与えてみようか。さすがに知行の報告書はないだろうが、貴公子の一生を描いた架空の物語でも、かつて生きた歌人の日記でも、仏典でも構うまい。幸い、白書院には万丸の蔵書がある。そこから何か差し出せば、暇潰しにはなるはずだ。
差し出すといえば、と眉を寄せる。
――関白閣下の、宝物を差し出せ、というあれはどうなった?
顎先に指を添えて、目を細め。最近何か話はあったかと考えを巡らせ始めたら、耳は人の話し声を聞いた。
「なんだ?」
縁側より先へと目を動かす。寧々も同じ方を向いている。
ざわめきは南から近づいてきた。二の丸御殿は南北に建屋が並んでいるが、その中で白書院は一番北の端。此処まで来るには庭を突っ切るか、南端の車寄から順に廊下を辿ってくるかだが、此度は廊下を辿ってきたらしい。
一つ南の黒書院と繋がる渡り廊下の白書院側の出口に、人が立つ。駒右衛門だ。だが、彼は体は大きいものの口数は少ない。押し切られてしまう質だ。客を追い返すことはしないだろうと踏めば案の定、やってきた一団をすんなりと通してしまった。
五人いる。年の頃はばらばらだが、皆揃ってそれなりの衣装を着ている。中心を歩く若人を認めて、万丸は立ち上がった。
「また面倒なのが来たな」
「え、どうしたの?」
立ち上がりかけた寧々を片手で制して、縁側を回る。
万丸が歩いて行くと、来客たちは足を止めた。その中心を真っ直ぐに見る。
「
背丈こそ変わらないものの太さは倍違うのではないかと思うほど、屈強な体を持つ従弟。物の怪を払う焔を熾すことができるかんなぎ。二の丸御殿黒書院を住まいとし、素襖をきっちり着込み腰に刀を差したもののふでもある彼は、邪魔するぞ、と返してきた。
「白書院にある襖の枚数を数えさせろ」
「何故」
「絵を描くためだ」
はて、と万丸は扇子を広げて口元を覆う。竜丸はニヤリと口の端を上げた。
「二の丸御殿に障壁画を飾る」
「もうあるだろう」
「新しい物にするんだ」
首を捻って見せながら、今の二の丸御殿のあちらこちらを飾る絵は方々から譲られてきたものだったな、と思い出す。由来が様々だから大広間と黒書院と白書院で趣が異なることになったのだが。
「絵師を雇った」
竜丸が胸を張る。
「この力で二の丸御殿全てをがらりと変えて見せよう」
力強い宣言に、ほう、と息を吐いた。
「よく金があったな」
「所領を持たせていただいているからな」
竜丸もまた、とっくに元服していて、丹州に所領がある。そこからの収入を宛に雇ったのか、と彼が連れた男たちを見た。彼らが絵師なのだろうと頷いて。
「二の丸御殿全ての障壁を描き直すつもりか?」
問うと、竜丸は大きく頷く。
「大広間も黒書院も?」
「全ての建屋をやる」
「それで、この白書院もか」
冷えた視線を向けたのに、相手は笑っている。
「そうだ、全てだ」
だから万丸は溜め息を零した。
「面倒だな」
「それはおまえだけだ。俺はやるぞ」
「何故」
「関白閣下に宝物を差し出さねばならないだろう?」
自信に溢れた笑み。つい先ほど思い出してしまった事をずばり言われて、万丸は目を伏せた。
「成る程。御殿の装いを変えて、関白閣下への献上とするか」
「分かったら、邪魔するぞ」
と、竜丸が言った時。
「此処までやることないでしょう!?」
万丸の後ろから声が響いた。振り向くまでもない、寧々だ。来るなとはっきり言わなかったのがいけなかったのか。彼女は万丸の横を抜けて、竜丸の正面に立つ。
「また、おまえか」
先日の諍いを覚えていたのだろう従弟は頬を引き攣らせた。寧々は、ご挨拶ね、と応じる。
「あなた、自分の言いたいことしか言わないの? 相手の意見も聞きなさいよ。此処は白書院で、万丸の場所なんでしょ!」
声は荒い。
「あんたが勝手していいわけないじゃない」
ぎゅっと握られた両手は震えている。だが、その彼女を見下ろす竜丸も肩を揺らす。
「おまえは」
言い返す言葉を探しているのだろう、口をぱくぱくと動かす従弟へ扇子を振って合図を送る。視線が向けられるのを受け止めてから。
「あまりそれを怒らすな」
と、万丸は言った。
「一応、俺が閣下から預かっている客人なんだ」
竜丸の顔が引き攣る。
「ただの人質じゃないか」
「大事な人質だ。相手は名うての剣豪、辻井圭庵だ。分かるだろう?」
それに、と重ねる。
「頼られた俺も顔も立ててくれ」
すると竜丸は舌を打った。
「そうだったな、頼られたんだったな。閣下にか? 辻井圭庵にか?」
「さて?」
口元を隠して、首を傾げる。
「腹立たしい奴め」
ぎろりと寧々に視線が動く。ビクッと肩を揺らして、それでも彼女は動かない。
「俺の考えは伝えた。答えを考えておけよ、万丸」
言い置いて、一団は去って行く。
足音が雨の音より小さくなってから。
扇子の先で寧々の額を小突いた。
「何するのよ!」
「じゃじゃ馬め、大人しくしていられないのか」
「だって、アイツ腹立つんだもん! この間だって一方的に決めつけてきたんだよ!」
「ああいう奴だからな」
「それで諦めないで!」
叫んでおいて、寧々は肩を落とした。
「今度は何だ」
「騒いでおいて心配になっただけです」
息を吐いた彼女は、笑みを引っ込めた。しょげた顔で問うてくる。
「本当は障壁画欲しかった?」
「いいや?」
だが、即答できた。
今は白地に墨で描かれた山水画が多い白書院、そのままでも、竜丸好みの絵画に変えられても、住まうことができれば問題ないと思うのだが。
「万丸って、考えてないこと多いね?」
寧々が言い、万丸は眉を吊り上げた。
「そんなことはない」
先程は、関白閣下の命を思い出していたし、所領の作付けのことも考えていて、と言いかけて止めた。お喋りに気を取られて中身を覚えていないと言うことを思い出したから。
「おまえ、しばらく喋るなよ」
「どうして」
「考えるからだ」
くるっと背を向けて、部屋に戻る。寧々はぱたぱたと付いてくるが、口は開かない。まだお喋りの相手をさせる気か、とそれも考えた。
考えることが多過ぎる。
――俺も何か献上すべきなのか?
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