07.笑みは未だ
青嵐は自信たっぷりだったが、寧々からすればまだまだ細い。
本当に腕っ節の強い
医師を名乗る養父がかつて名を轟かせた剣豪だというのは、近くに住む誰もが知るところだった。寧々たち養い子たちも当然知っていて、家には刀が置いてあったし、そもそも圭庵自身が常に腰に一振差していた。付き合いのある研ぎ師も何人かいた。
鋼の手入れがされるところも、圭庵が振るうところも見たことがある。そもそも、寧々を救ってくれた最初が、抜刀して返り血に濡れていたように記憶している。
刀が振るわれるのは恐ろしい。こと人間相手に振るわれた時は特に。
――そんなこと無いのが一番だよ。
そう願うのに、この聚楽第の様子を一月半も見ていると事が起きないとは言い切れない気がしてきた。何故なら刀を帯びている者が多い。関白だって腰に差していた。ピリピリした関係を築いてる聚楽第に於いてはちょっとした諍いで振るわれてしまいそうなのに。
――万丸は弱そう。
彼は背丈はそこそこにあれど寧々より細い。力が出るのか心配になる細さだ。それに、彼は刀を帯びていただろうか。
思い出せない、と寧々は畳の上に突っ伏した。
「わたし、なんでこんなこと考えているんだろう」
やることがないと余計なことを考えるのだ、と頬を膨らませ。視線を開け放した障子の向こうへ向けた。
桜は散りきってしまった庭。松だけは変わらず立っている。白書院からは見えないが、藤棚が盛りを迎えつつあるらしい。
雲が減った空の下、子供の声が響く。
「子守りなら任せてほしいのにな」
だが、あの子等が遊ぶから今は庭に出るな、という話なのだ。唯一のできることを禁じられ、寧々はずっと畳の上を転がっている。
例によって白書院の面々は彼らが誰なのか教えてくれない。ただ無碍にしてはいけない相手なのだと、ずっと庭の隅に控えている刑部と鮎子の姿が教えてくれる。そして万丸でさえも誘いを断れない相手たちなのだろう。部屋でじっとしていることが多い彼が巻き込まれて、庭を駆け回らされているのが見えた。
「アイツが知っている子なんだよね」
藤色、浅黄色、撫子色と色味は異なれど、水干姿であることは共通した三人の男の子たちは、万丸の袖を引いて、歓声を上げている。
遠目からでも万丸は疲労が伝わってくる。
「あれだけしか走れないなんて、何かあっても戦えないよ?」
堪らず呟いて、思う。
寧々の知る戦える男を思うからいけないのだ。物の怪すらも斬ることが適う人間と比べるから。
「圭庵先生と……
そう。妙算と阿頼耶、あの二人だ。見るからに恐ろしげな太刀を佩いた彼ら。
一人は僧形の年嵩の男、もう一人は寧々より幼い少年。容姿も振る舞いも整っておいて、恐ろしげな太刀と考えの持ち主たち。彼らがやって来た後に、関白から文が届いたのだ。
そこで寧々は畳を叩いた。
「あー、もう! 本当、止め止め!」
暇だと碌な事を考えないと、庭と庭で走る人を睨む。肩で息をして、今にも地面に倒れ込みそうだ。情けない。寧々ならばただ走るだけでなく遊んでやれるのにと歯痒い。
「子守りなら任せてよ!」
幼い弟妹たちと遊んだあの瞬間が恋しくてならない。
・。*・。*・。*・。*・。*・。*・。*・。*
「随分面白そうなことになっていたな」
言うと、寧々は眉を寄せた。
「どういうこと?」
「部屋に居るだけなのにあれだけ動けて結構なことだ」
国松石松鶴松と走りながらも、万丸はずっと視線だけこの部屋に向けていた。彼女も睨んできていたからだ。散策を封じられて不満そうな顔をしていた。
だが、彼女と三人の子供たちを会わせると、関白からもそれぞれの母親たちからも面倒を言われるに違いない。面倒は避けるに限る。
万丸は溜め息を吐きつつ、縁側に腰を下ろした。
ようやく解放された安堵から、つい座ってしまった。其処は白書院西側の寧々に宛がった部屋の前だから、万丸の居室からは遠い。だが今は立ち上がるのが億劫だった。足が重い。
「すごい疲れてる」
寧々に言い返す気力も湧かなかったのに。
「あの子たちは誰?」
問われ、頭を抱えた。
「これも言わないと分からないのか」
「また莫迦にする!」
「してない」
また溜め息。それから答える。
「彼らは関白の子だ」
「三人とも? 三つ子?」
「いいや。偶々同い年というだけで、母は別々だ」
ここまでで息がまた切れる。万丸は頭を抱え。そう、と言って寧々は立ち上がった。
「お茶貰ってくるね」
わざわざ言いに行かなくても、との思いは声にできなかった。。
トタトタトタ、木の床を軽やかに叩く足音が遠ざかっていく。代わりに枝と葉が擦れる音が聞こえてきた。音を運んできた風は新緑の匂いがする。
目を閉じて、大きく息を吸って、吐き出す。風の音しかしない。そのまま目を閉じていたら。
「近寄ってもよろしいですか?」
庭側から声が掛けられた。
知っている声だ。だから目を開けて、顔を向けた。
「
呼び名を口にする。縁側から大分離れた位置に立った相手はもう一度。
「白書院様、僕は近寄ってもよろしいですか?」
尋ねてきた。
「構わない」
「どれくらいまで許されますでしょうか」
「適当に決めろ」
万丸がつっけんどんに言い放つと、彼は眉を寄せた。
背はそこまで高くない、ぱっと見は線の細い少年。羽織に細身の袴を身に付けている至って普通のもののふだが。腰に佩いた糸巻太刀が目立つ。その長さは彼の身の丈の半分以上あるのだ。長さに見合う太さもある。
ううん、と唸った少年は摺り足で進んできた。万丸まであと三歩というところで止まる。そこなら彼の太刀でもまず届かないという位置。
「帰還の挨拶に参りました」
阿頼耶は腰を折った。万丸が眉間に皺を刻む。
「辻井圭庵の元にいたんだったな」
「はい。圭庵様に医術と武術を学んでまいりました」
「医術はともかく、武術はもう、おまえは学ぶことがないだろう?」
「そんなことはございません」
ニコリと阿頼耶は続ける。
「今一度、柄の握り方、足の運び方から教えていただきました」
「その結果で足音を立てずに近寄ってきたのか?」
「聞こえませんでしたか? それならばきっと修行の成果です」
邪気の無い笑み。万丸は扇子の先で眉間を押さえた。さらに。
「なんで、あんたが此処にいるのよ!」
甲高い叫びに耳を塞いだ。
見向けば、急須と湯飲みが乗った盆を抱えた寧々が戻ってきていた。
険しい顔、大股で近づいてきて。すとっと盆を万丸の脇に下ろす。そのまま裸足で庭に飛び降りて。
「宇治にいるんじゃなかったの!?」
そう阿頼耶に詰め寄った。阿頼耶の方は動じない。
「僕自身はそのつもりでいたんです」
「そうでしょうね! 人質を取るのじゃ飽き足らず、あんたと妙算は圭庵先生を直接見張ってるって言ったんだから!」
寧々の言っていることは間違っていない、と万丸は息を吐いた。阿頼耶は関白が重用している手駒なのだ。辻井圭庵に叛意があるという、万丸は気にしていなかった噂を気に掛けた天下人が直接向かわせた見張りだ。武術と医術を学ぶというのは方便に過ぎない。寧々が此処に留まらされているのと同じく、圭庵本人に刃を突きつけ続けることは大事なはずなのに。
「何故戻ってきた。いつも一緒の相棒はどうした?」
万丸が口を挟むと。
「
その瞬間だけ阿頼耶の表情が歪んだ。
「死にました」
え、と寧々が呟く。万丸もきょとんとなった。
「あの殺しても死にそうにないご面相の僧兵が、か」
ぎゅっと寧々は両手を握りしめ、阿頼耶に向き直る。
「いつ?」
「弥生の初めに。その委細を報告せよとのお達しがあって、戻って参りました」
「そう…… そうだったの」
顔を伏せた女子を。
「寧々」
と、少年が呼ぶ。
「何故、貴女が悲しそうなのですか?」
顔を上げた寧々は、ぎゅっと阿頼耶を睨んだ。
「当然でしょう? 知っている人が亡くなったのに……」
と、途中で寧々は言葉を切ってしまった。
この当然が通じないのが阿頼耶だ。それを寧々も知っているのだろう。
溜め息を一つ。それから。
「折角なら教えてよ。他のみんなは変わりない?」
と、寧々は低く呟く。
「はい。圭庵様も、あなたのごきょうだいも」
「葵も?」
「ええ。あなたの妹君もお元気です」
阿頼耶の顔にふわりと笑みが広がる。寧々は苦々しげにそれを見つめていたのだが。
「変わりないのは聚楽第もですね」
と阿頼耶が周囲を見回すのにつられ、庭へと視線を動かす。今日も黒い靄が、物の怪が漂っている。地を這いずる影からは、微かに弦楽の音が聞こえた気がした。
「斬ってしまっても?」
と阿頼耶が右手を太刀の柄にかけるので、万丸は黙って頷いた。
次の瞬間、彼の口から哄笑が響いた。
すぐに駆け出す。太刀が鞘から躍り出て、宙で唸る。鋒に触れるなり。物の怪は千切れ、勢いよく風に紛れていく。霧散する中から弦楽の音が聞こえた気がする。よほど音が好きな人間の生んだ物の怪だろうと思う。
ふと見れば、寧々は立ち尽くしていた。
「こちらに来い」
背中に声をかける。振り返った顔は真っ青だ。
「怖いなら見なければ良いものを」
声を出すと足も動いた。そのまま万丸も庭に降りて寧々の後ろに立つ。
そら、と右の袖を彼女の顔の前に回す。腕を上げれば頭から隠せる程に寧々は万丸より背が低かった。
これで寧々からは太刀を振るう阿頼耶は見えなくなったはずなのに、もそもそと、彼女は万丸の袖の中で動いた。
「今度はなんだ」
「なんだって、その……」
声は上擦っている。万丸の眉が寄る。
「はっきり言え」
「ええっと、その……」
呼吸を何度も繰り返してから、寧々は尋ねてきた。
「あなたは怖くないの?」
だから、ふむ、と逆の手で扇子の先を顎に当てて。
「考えたこともないな」
答えると、首を振られた。
日の沈む刻限、白書院東南の万丸の部屋はどの部屋よりも早く暗くなる。
「静かですね」
と、部屋にやってきた刑部が言った。
「白書院様の力で、聚楽第の中でも此処は物の怪が少ない処ですが」
「今日は阿頼耶が斬った分もあるのだろう」
応じると、刑部は眉を寄せた。
「あれは斬れる者とあったらなんでも斬りますからね。人間でも魑魅魍魎でも」
「……魑魅魍魎も斬るのか」
「山野に生じる化生のモノこそ刀が有効です。腕力で抵抗できない物の怪こそ恐ろしい」
その物の怪でも斬り伏せるのが、かんなぎの恐ろしいところなのだろう。阿頼耶がそうなのは何度も見ているし、圭庵もそうだと聞く。
「物の怪と言えば」
と刑部がまた言う。
「最近、何もないところから音楽が聞こえるという如何にも物の怪の仕業らしき噂がございます。ご存じで?」
「知らない」
首を振って、はたと止まる。
「今日、阿頼耶が斬った中に楽器を奏しているような音の影がいたな」
「左様にございますか。では、噂もそのうち立ち消えましょうぞ」
二人うなずき合う。
「それで、例の件は?」
万丸が問うと、刑部は姿勢を伸ばした。
「本丸勤めの者から確認できました。森
「誰が殺した」
「引き続き調べます」
「圭庵ではないだろうな?」
「仮にあの男が殺したのであれば、反逆の意思ありと捉えられても文句は言えますまい。寧々も無事ではいられないでしょう」
「そうだな」
「むしろ、今流れている圭庵絡みの噂は、関白閣下の跡目争いへ噛みにきているのではないか、というものです」
「そんなのがあるのか」
驚く。刑部は淡々と続けた。
「勿論、あれが跡目を狙うという話ではござらぬ。何名もいる候補の中で見定めたという話で」
「宇治に引き籠もっているのに、洛中の政に首を突っ込めるわけないだろうに」
うっすら笑っても、刑部はまだ続けた。
「頼りと見定めた故に、差し出した人質を白書院様に預けているのだと断じる輩もおるのです」
万丸は嗤った。
「関白閣下に押しつけられたのが実態なのにな」
「ですが事実、圭庵の差し出した娘は此処におります。白書院様の庇護の下に」
「居るだけではないか」
「それこそが大事なのです。有利に戦う道具があるという事にお気づきになりませんでしたか?」
分からぬと首を振る。刑部は重ねて問うてきた。
「跡目争いを進めたいと未だに考えられませぬか?」
「考えたこともないな」
万丸は首を傾げた。
「何故聞いた?」
だが刑部は緩く微笑んだだけだった。
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