06.知らず聞こえず

 夜ぐっすり眠れた。寧々ねねはその事実にびっくりした。

 聚楽第じゅらくていでの生活に自覚なく気を張っていたのだろうか。やることがなく、歩ける場所も狭く、喋る人も限られ、物の怪だけが多い暮らしに。

――寝ている間に物の怪が来るかもなんて、全く考えてなかったけどね。

 布団の上で身を起こして、枕元に手を伸ばした。掴んだのは桜の枝。万丸よろずまる枝だ。

 これがあると物の怪は寄ってこない。真偽の程は分からない。だけど、寧々の心はどこかでそれを信じた。別のどこかにあった物の怪を恐れる気持ちが薄れた。だから、あんなにぐっすり。

 うーん、と腕を伸ばす。瞼も体も軽い。しっかり休めた証拠だ。

「御礼を言おう」

 手早く着物を纏って、障子を開け放った。

 外は晴れ。花の香りを含んだ風が吹く。太陽は東の空を回りきって、今日一番の高さへと向かう途中。菜の花色の袖を翻し、踏み出す。

 いつもは万丸が寧々の部屋へと押しかけてくるから、寧々から訪ねることはなかったのだけど。

――昨夜、入れてくれたんだから良いよね。

 うんうんと首を振って、寧々は東南の部屋へ早足で向かっていたのだが。

「お控えください」

 部屋の手前の角で正座していた中年の男――刑部ぎょうぶという呼び名の男に制された。

「今は別の方とお話中です」

「そっか……」

 さすがに邪魔はできないと肩を落として、寧々は男に向き直った。

「長いかなぁ」

「読めません。とのお話は長い時は日が暮れるまでかかりますが、短い時はお茶を入れる間に終わっています」

 首を振る男は眉を寄せ。

「兎に角、今は駄目です」

 と男が被せて言った時、前触れなく、目的の部屋の障子が開いた。中から初老の男が出てくる。

「すぐに端に控えてください」

 早口の刑部に腕を引かれる。倒れ込むような勢いで、縁側に座らされた。渋々と寧々は両手の先を冷たい床に付けた。

 きっと初老の男はすぐにこの前を通り過ぎていく。そうしたらすぐ刑部に文句を言おう。そう思ったのに。

「おや」

 予想と反し、頭の上から声が降ってきた。

「今まさにおぬしの元へと向かおうと思っていたのだよ」

 え、と零す。正面で立ち止まった男をマジマジと見つめた。

 白く長い眉毛、蓄えられた髭も白い。額も口の横も皺が深い。纏う衣装は全て艶の強い絹だ。橙色の帽子と胴丸が目を引く。その蔭では、腰に差した刀、黒漆の拵えが輝きを放つ。

「無遠慮に申し訳ございません」

 横に座っていた刑部が手を伸ばし、寧々の頭を押さえつけてきた。頭を下げろということだと察して従う前に、下向きに固定される。首の後ろが痛い。

「よい、よい。気にするな」

 呵々と男が笑う。

「若い女に見つめられて悪い気はせぬよ」

 そう言った次に、彼は溜め息を吐き出した。

「おぬしのために本丸に部屋を用意していた。松の丸が騒がねばそのまま招いてやれたのだが」

 本丸に部屋を。聞いた言葉を反芻して、寧々は目を剥いた。

 部屋を宛がうことができる、御殿の主。本丸御殿の主と言えば思い当たるのは一人。

――こいつが関白。

 今をときめく。養父にあらぬ疑いを掛け、平穏な暮らしを乱し、人質を出せと迫った本人だ。

 顔をあげようと力を入れる。それ以上の力で刑部が頭を押さえてくる。言葉も喉でつっかえてしまう。

「閣下」

 代わりに、万丸の冷えた声が聞こえた。横はどうにか見えると視線を動かすと、部屋の方から歩いてきたらしい袴の裾が見えた。

「娘はこのとおり大人しく過ごしております。見ていただけましたか」

「見た。見たが…… ううん、そうではないんだ」

「着飾らせた姿も昨夜ご覧になったでしょう」

「遠くから、それも暗い中でではないか。隙を見て話しかけに行こうと考えていたのに、おぬしがさっさと連れ帰ってしまうしな」

竜丸たつまると悶着を起こしましたので」

「女の扱いを分かっておらん彼奴あやつが悪い。儂の気持ちを理解しないおぬしも悪い」

 こどもじみた、拗ねた声音。彼は寧々の何倍も生きていそうな外見なのに。

「閣下」

 同じ年頃の万丸の声の方がよほど大人びている。

「僭越ながら。不用意に女子にお声をおかけになるのは、これ以上側室をお迎えになるのはお控えくださいますよう。松の丸様も南御殿様も星の前様もお望みです」

「分かっておる! この娘がやってくるその日に、松の丸の呼びかけで二人が押しかけてきたのはそういうことじゃろう。普段はいがみ合っておるくせに!」

「お分かりでしたら何卒、辻井圭庵の娘に近寄られませんよう。お三方が心安らかになれます」

「それでは圭庵から人質を取った意味がない。何か一つくらい儂にやらせろ」

「何か、ですか……」

 一瞬躊躇ったような息の揺らぎを立ててから、万丸は言った。

「これの呼び名をお決めください」

「呼び名! 呼び名か!」

 ううむ、と関白は顎を擦った。

「成る程なぁ」

 そう言って、ううむ、ううむ、と唸った末。

「思いつかん!」

 関白は言った。

「左様ですか」

 万丸はやっぱり揺らがない。

「では、本日はこちらで仕舞いにしてくださいませ」

「うむ! 思いついたらまた来よう」

 笑い声を響かせて、彼は歩き出した。その足音が全く聞こえなくなってからやっと、刑部が手をどけてくれる。首の後ろを擦り、刑部を睨みながら、寧々は体を起こした。

 その途中で見えたのは、庭で蠢く無数の黒い靄。それら物の怪たちは地を這うように、関白が去って行った方へと進んでいった。

「多いですね」

 と声が聞こえた。廊下の角から姿を見せたのは青嵐せいらんだ。狩衣の袖を揺らし、扇子で口元を隠した顔の、眉は険しく吊り上がっている。

「いたのか」

「関白閣下と顔を合わせるのもアレなので、隠れておりました」

「賢明なご判断です」

 刑部は溜め息を吐いて、立ち上がる。

「お茶を持たせましょう」

 頷いて、万丸は扇子を振って。寧々を見下ろしてきた。

「おまえは野次馬か」

「違う!」

 頬を膨らませる。

「来ているなんて知らなかったもん」

 肩を竦める万丸を睨む。

「御礼を言いに来ただけなのに」

「とてもそんな顔ではないな」

「させてるのは誰よ!」

 叫ぶと、あはは、と青嵐が笑い声を立てた。

「では、当初の目的を果たすと致しましょう。寧々殿は万丸様に御礼を言いに来た。何の?」

 促され、何度も息を吸って。

「花の」

 と言った。万丸がは一瞬訝そうな顔をしてから、頷いた。

「たしかにおまえに渡したが…… あれに何の意味があった?」

「物の怪が寄ってこないってあなたが言ったんじゃない」

 ますます気持ちが萎んでいく。庭に視線を送れば、まだそこには黒い靄が蠢いていた。縁側まで寄ってこないのは万丸がいるからなのだろう。それを指差して。

「あなたが咲かせた花があれば、物の怪はあんなふうになるんでしょう?」

 言うと。

「花を咲かせた!? 貴方が!?」

 青嵐の声が裏返った。

「待って…… 待ってくださいよ、万丸様が花を咲かせて、それを寧々殿に与えたってことですか!?」

「そうだが」

 万丸が目を細める。青嵐の目はどんどん丸くなる。

「嘘でしょう…… 貴方が、自ら花を咲かせた? 頼まれたってやらないのに? 宝の持ち腐れだったのに!?」

「随分な言い様だな」

 視線をやや強くして、万丸は踵を返す。

 背中をぽかんと見送る。寧々だけでない。

「やれるんじゃないですか」

 青嵐もだ。

 立ち尽くした格好の彼の袖を、立ち上がり損ねていた寧々は引いた。

「万丸は自分で教えてくれたんだよ、花を咲かすことができるって」

「できるとやるは違いますから」

 緩く頭を振って、青嵐は視線を向けてきた。

「寧々殿。今、万丸様がとおっしゃいましたね」

 頷くと、彼は苦笑いを浮かべた。

「ちょっと妬けるな」

 言って、寧々の隣に腰を下ろす。

 縁側の板の床に直に座ると冷たい。それでも二人は座ったまま。

「寧々殿はの力についてどこまでご存知ですか」

 と青嵐は尋ねてきた。

「あまり知らないんだと思う。かんなぎって言葉も知らなくて、万丸は驚いていたし」

「それでと」

 二度、三度と瞬いて。

「珍しいことがあるものです。だって、あの人は基本的に他人に関わらない。自ら動こうとはしないし、頼まれ事も引き受けたがらないのですよ」

 青嵐は言葉を続ける。

「関白閣下の甥であり、としての力に恵まれたあの人は、次の時代を引っ張っていく立場に就くことが望まれています。それは一方で、関白閣下の跡目争いにも加わるということです。跡目争いには誰が名を連ねているかご存じですか?」

「もっと知らないよ」

 宇治の暮らしでは、洛中の政がどうなっているかなど大した意味を持たない。それは口にしなかったし、青嵐も聞いてこなかったけれど。

「此処にいれば嫌でも聞こえてくるでしょうからね」

 と、青嵐の扇子が西の本丸を向いた。

「覚えておいてください。関白閣下は御正室との間に子がありません。ですが、三人、それぞれ別の側室との間の子がいます。彼らはまだ幼いのですが、だからこそ己に懐かせようと群がる輩が多くいる。側室の実家も、血縁を繋ごうと必死です。それとは別に甥の方々も候補に数えられている。甥ですから閣下の傍系、本来であれば跡目争いに加わるはずないのですが、かんなぎとしての力を持っているが故に候補と見なされる。他ならぬ関白閣下がだからです」

 青嵐は扇子を南に向けた。

「その候補とされる甥の一人が黒書院に居を構える竜丸殿。そして今一人が」

 言葉が切れたから、寧々が継いだ。

「万丸ってこと?」

「そうです」

 青嵐の溜め息が深い。

「そういう立場の方です。なのに、政の動きを知らないわけでないのに自らの立場を強めるために動こうとはされない。かんなぎとしての力を人に見せるわけでない。跡目争いに負けたらどうなるか、考えていらっしゃらないわけではないでしょうにね」

 もう一度、溜め息。それから青嵐は立ち上がった。

「寧々殿を――辻井つじい圭庵けいあんが差し出した人質を任されているというのは、あの人にとっては閣下からの信頼を示す機会なんです」

 見下ろしてくる視線が途端に冷たくなる。

「だから此処を出て行くようなことは承知しません」

 腹の底が冷え込むような瞳。寧々は唾を呑み込む。

「もし、出て行ったら?」

「追いかけますよ。僕にはかんなぎの力がないので物の怪の相手はできませんが、腕力で解決できることなら如何とでもします」

 そこまで言って、からりと青嵐は笑い直した。

「物の怪は殴っても追い払えませんが、人間とか獣とか魑魅魍魎の類が相手だったら戦えるってことですよ」

「喧嘩するの!? 青嵐が?」

「任せてください」

 唐突に力こぶを見せつけられて、寧々は堪らず吹き出した。

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