05.朧に奏で(後)

 楽人たちが奏でる音は落ち着いた煌びやかさを持ち、とても美しい。でも、手を叩いて共に歌う祭り囃子とは違って、皆静かに眺めるだけで。

「暇だ……」

 つい呟いてしまうほどだった。。

 座っていろ、喋るな、との言い付けに大人しく従っているように見えて、実際のところは誰にも話しかけられなかったから口を開きようがないだけだ。部屋の奥を通っていく女人たちが、庭をそぞろ歩く公達たちが、意味ありげな視線を寄越してくることはあっても、そこまで。寧々は独り放っておかれていた。

「すっごい暇なんだけど、どうにかしてよ」

 此処にいない万丸に悪態を吐く。

 去っていた後、池をコの字に囲む簀の子縁の真ん中、御殿の奥へと繋がる部屋の前に座っているのが見えた。その後、身嗜みの整った初老の男と庭を歩いていた。その後は建屋の奥で水干姿の男の子たちに囲まれているようだ。時折こちらに視線を寄越してくれたが、戻ってくる気配はない。

 彼のいる辺りにはひときわ華やかな装いの女人が揃っていた。彼女たちからも視線が送り返されてくるのだが、それが堪らなくむず痒い、居たたまれない気持ちにさせる厭な視線で気持ちは落ち込む一方だ。

 日が沈んでいく。池の上の舟から楽人たちは引き上げていって、ますます暇になるかと思ったが、やがて庭には松明が灯された。室内のそこかしこに燭台が置かれる。

 池の端に設けられた舞台に人が登る。

「あの人、昼間の人だ!」

 青嵐が楽人だと紹介した男。

「望月さん、だっけ」

 暗くて遠くて、顔はよく見えない。だが、その特徴ある体躯は間違いようがない。身にたっぷりと宍を蓄えた体は、ゆったりとした動きで琵琶を構えた。そして撥を持った手が動き始める。

 穏やかに、伸びやかに、旋律が響く。

 あ、と声が零れた。一つだけで何にも邪魔されずに歌う音は心地良いのかと知る。この音は好きだと笑った。

「たしかに見事だな」

 声が聞こえ、振り向いた。

 いつの間にか側の席に体の大きな若人が座っていた。彼は寧々の方には見向いていない。だから寧々は眉を寄せ、視線を庭に戻した。

 響く弦の音。絡みつくように黒い靄が池の表面を撫でていく。また物の怪だ。

――演奏の邪魔はしないでよ!

 寧々はそう思うのに、立ち向かう人はいない。側の若人も手酌で酒を呑むばかり。

 宇治だったら大騒ぎになっているはずだ。もっとも、騒ぐだけで終わらせずどうにか始末しようとする。腕っ節に覚えのある男衆が追いかけ回すか、子供が石を投げて追っ払うか。養父の圭庵がその刀でもって斬り伏せるのも見たことがある。

 あれ、と寧々は手で口元を覆った。

――此処には退治できる人がいないのかしら?

 思って、もう一度左右を見回した。

 よく見れば、見て見ぬ振りをしているのではない。近寄らないように歩き、気づかれないように気配を殺しているのだ。誰もが。

 琵琶を奏でる望月でさえそうだ。無心に琵琶を奏でているようで、時折脈絡なく首を振る。その周りをうろつく靄は邪魔なのだ。

 ふと、隣の若人が立ち上がった。

「あれはたしかに邪魔だな」

 立つと本当に体が大きいのが分かる。背も高いし、体の厚みもある。袖から覗いた腕も、真っ直ぐ伸ばされた首も太い。若さと力強さを漲らせた体の持ち主だ。

 直垂の袖を捲り上げて、彼は高欄を跨いだ。庭に飛び降りて、左手を腰の太刀に当てたまま、ずかずかと舞台へと進む。

 寧々は息を呑んだ。

 舞台を離れ彼の正面へと流れてくる靄は、広がって、人間を呑み込もうとして。

 ゴウ、と。

 音を立てて焔が広がった。彼の右手からだ。物の怪のほうこそが呑み込まれて、失せる。

 琵琶の音は止まらない。

 赤い輝きが消えていくにつれ、ざわめきが広がる。さすが、頼もしい、恐ろしくもあると言った言葉が聞こえてきた。

 舞台の上の望月は、しゃんと背を伸ばし、先ほどとは違った音色を紡ぎ始めた。明るく弾む音。喜んでいるのだ。

 靄が漂っていた場所に背を向けて、若人は此方へ戻ってくる。顔に浮かべているのは満足げな色。

「ねえ」

 と、堪らず声をかけた。

「今、何をしたの?」

 膝立ちになった寧々を見下ろして、彼は鼻白んだ。

の力を知らんのか」

 瞬いてみせる。相手は片方だけ口の端を持ち上げた。

「物を知らん娘だという噂は本当なんだな」

「な、何よ、それ!?」

 顔を顰めた。

「大きな声を出すんじゃない」

 そう言う彼の体の大きさにはそぐわぬ小ささだ。低い分、腹の底に響く。

「女人の振る舞いも分からんのか」

「はあ?」

「大声を上げずに笑っていれば良いんだ」

 彼は、ははっと嗤った。

「黒書院からも庭を駆け回っているのが見えて、お転婆めと思っていたがな。育てた子が礼儀も物も知らんとあっては、圭庵とやらも大した者じゃなさそうだな」

 カチンと頭の中で何かが鳴る。

「圭庵先生を莫迦にしないで!」

 一際大きな声が出た。ざわり、周囲が揺らぐ。若人はこめかみを引き攣らせた。

「耳障りな声を出すな」

「そっちこそ、腹が立つようなことを言わないで。よく知らない人を悪く言うなんて、最低!」

「騒ぐな、本当に恥知らずな奴め!」

 言葉を切り、彼は寧々睨んでくる。

 キリキリと胃の腑が締め上げられるような、沈黙。

 その空気は衣擦れの音が裂いた。

「万丸」

 音の主、歩いてきた若人に、ほっと息を吐き出した。

 歩いてきた彼は扇子で口元を隠したまま、寧々と若人を順に見た。

「関白閣下は諍いがお嫌いだ」

 見える目元は冷めて、凪いでいて。

「松の丸様方を見習わないとな」

 言葉もゆっくり響かせ、彼はその場に腰を落とした。そのまま扇子を閉じ、両手を床について。

「騒がせて申し訳なかった、黒書院殿」

 頭を下げた。

 あ、とか、う、とか。若人が呻く。

 すぐに万丸は立ち上がり、寧々に視線を向けてきた。

「帰るぞ」

 くるりと彼は背を向け、歩き出す。寧々は打掛を絡げて、後を追った。

 ずんずん進む。

「宴は…… 演奏はいいの?」

「興味ない」

 寧々の問いに万丸は振り返らず答えてきた。

「今日はおまえを見せられれば良かったんだ」

「なんで?」

「辻井圭庵が確かに人質を出してきたと皆が分かれば」

 一瞬だけ振り返った彼は、溜め息を吐いた。

「途中までは大人しく座っていたからな。その時に、閣下の側室方も、客としてやってきた公家や武家の連中も見ている。最後に竜丸たつまると騒ぎにならなければ完璧だったのに」

「どういう完璧よ」

「聚楽第で平穏に過ごせるだろうという意味で」

 寧々は眉を寄せる。だが、万丸が足を止めないから、歩き続けるしかない。


 鮎子に怒られるとか、青嵐に笑われるとか、気にしている場合ではなかった。小走りで万丸の背を追う。

 朧月夜の庭に、物の怪は出てこない。

 細い背中を追うことだけを考える。


 白書院に戻ってくると、年嵩の男が飛び出してきた。

刑部ぎょうぶ

 と、万丸が呼ぶ。

「宴は終わられたので?」

「まだだ。だが俺の用は済んだ。余計な問題も起きたが」

「お聞きしても?」

「まず俺が詳しく聞かないとおまえに話せない。朝まで待て」

 ひらりと扇子を振られて、刑部は頭を下げた。その前を通り過ぎる万丸が振り返る。

「おまえは此方だ」

 平たい声に首を傾げる。

「先ほどの騒ぎの話を聞かせろ」

 そのまま連れて行かれたのは、また万丸の部屋。奥の床の間に今日は花を落とした枝が飾られている。

 腰を下ろすなり鮎子がやってきた。手にした盆の上には急須と湯飲み。二人それぞれの前に湯気を立てたそれを置くと、彼女は黙って去って行く。

 その後に広がったのは緑の香りと静寂。

 寧々は改めて万丸を見た。

 背丈だけはそこそこにあるのに、線の細い男。自分とそう年は変わらなそうで、上質の衣も贅沢な部屋も似合う、冷めた視線の持ち主。

 彼は、扇子の開け閉めを何度も繰り返してやっと、口を開いた。

「竜丸が何をした?」

「した、というよりも、言った、よ」

 唇を突き出して、先ほどの遣り取りを告げる。万丸はゆっくりと目を細めた。

「あいつは時々自分のことしか見えなくなる」

「だから我慢しろって言うの?」

「そういうことではなくて……」

 とん、と扇子で床を叩く。

「……竜丸もおまえも、よくそれだけ口が回るな」

「え?」

「口だけじゃない。体もだ」

 小さな、でも深い、溜め息。

 二度頭を振って、万丸はまた口を開く。

「竜丸は物の怪を祓ったんだろう。あいつもだからな」

「そう、それ!」

 寧々は身を乗り出した。

「かんなぎって何?」

 振り向いた彼は目を丸くしていた。

「知らないのか?」

「さっきも言われた」

 寧々もきょとんとなる。万丸は首を傾げる。

「市井にはがいない、なんてことはないだろう? 呼び方がないだけか? 辻井圭庵だってだ」

「そうなの?」

「彼はその太刀で物の怪を斬ることができる」

 寧々は眉を寄せる。

「それは知ってるけど」

 万丸は淡々と続けた。

「世間には、物の怪を祓う異能ちからを持った人間がいる。一番多いのは辻井圭庵のように得物で狩る者だが、竜丸のように祓うためだけの焔を熾すことができる人間も多いと聞く」

「つまり、凄い人ってこと?」

「まあ、そうなんだろうな」

「凄いと思わないの?」

「思わないな。俺もそうだから」

 万丸は動じない。寧々だけがあんぐりと口を開く。

「あなたも物の怪を祓う力があるの?」

「俺の場合は、祓うというより、近寄らせないというのが正解だな」

 扇子を床に置くと、彼は静かに立ち上がった。

 部屋の奥、床の間の前へ。そこの壺に刺してあった枝を取り上げる。花が付いていないから、枯れているのがどうか判然としないそれを右手で持ち、左手で撫でる。

 瞬間、枝が輝いた気がした。ムクリと動く。先が膨らむ。無数に蕾が芽吹き、膨らみ、大きく開く。

 桜だ。

 風もない部屋の中に、花弁が広がった。

「俺は花を咲かせることができる」

 淡々と告げられても驚くしかない。寧々はただ花を見て。万丸を見た。

「物の怪は何故か花を恐れる。その花を咲かせられる俺も物の怪に避けられている」

 そう話す顔は、咲いた花とは真逆の無表情。

「何もないところには無理だが種さえあれば咲かせられる。信じさせるには、そうだな、冬の牡丹を咲かせて見せようか?」

「え、遠慮します……」

 ぶるり、体を揺らす。

「だけど、聞いてもいい?」

 と目を向けると、彼は首を傾げた。

「物の怪を放っておけって言ってたのは、自分には近寄ってこないから。害がないから?」

「そうだな。物の怪を恐れて暮らさずに済んでいるのだから、楽と言えば楽だな」

「あなたはそれで良いかもしれないけど…… 他の人が怯えているとは考えないの?」

 先ほどの宴の場を思い出す。本当は皆、無視しているわけではないのだ。何もできないから逃げていただけ。

「本当は助けてくれたんだ。その…… 焔を熾す人は」

「竜丸か。己の力を誇示したかっただけと思うが」

「それでも、物の怪がいなくなってほっとした人は多いと思う」

 演奏している望月は勿論、寧々もきっとそうだ。

 唇を噛んで、俯く。

「助けてくれたのに、怒らせちゃった」

「気にするような奴ではない。忘れろ」

 万丸は慰めのつもりだろう。だが寧々の気持ちは晴れない。

「あなたも助けてくれれば良いのに」

 また恨み言が零れる。

「俺が? 誰を」

「物の怪を恐れている人たちを」

 言ってから、悔いた。

 胸の内のモヤモヤは収まらない。これもまた黒くなって、庭へと漂っていきそうだ。

 不意に、目の前に桜の枝を突き出された。顔を上げると万丸が正面まで来ていたのだ。

「……何?」

「持って行け。今夜は咲きっぱなしだろう」

「なんで?」

「咲いている間は物の怪が寄ってこない」

 寝ている間のお守りにということらしい。

「ありがとう」

 素直に受け取る。その瞬間、指先が触れあう。彼の指は柔らかく、湿っていた。

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