04.朧に奏で(前)
「今日は
「良いの!?」
二十日も経てば、さすがの
「じっとしているのはお嫌いでしょう」
促されて、濡れ縁から庭に出た。
「今日の着物は菜の花色ですか。春らしくて結構」
「
「ええ、そうでしょうね」
並んで歩きながら、ふふ、と青嵐は零した。
「装う物の色や柄に人一倍拘る方です。だから白書院に住んでいる」
「どういうこと?」
「白書院の中は余計な色や柄がないでしょう。だから人間の着る衣装や持つ品が映える。万丸様向きです」
そうなんだ、と頷いて青嵐を見る。
「僕も選んでいただいているんですよ」
細身で背が高い彼が着る菫色の狩衣も、よく見ると花の紋様が織り込まれていた。右手に握った扇子も柄に彫り物が施されている。贅沢な品々だ。
「万丸が選んだの?」
「ええ、着物は見繕っていただきました。扇子も万丸様のところに売り込みに来た商人から買ったんです。その時にあの方も一本買われていますよ」
「ふうん」
毎日顔を合わせていても、彼の衣装や持ち物はあまり覚えていない。顔を合わせるだけの関係で、何も知らない。
「そういえば、あの人って毎日何をやっているのかしら」
「何って…… うーん、言いにくいなぁ。太政官の職を受けているから、朝廷に出仕していてもおかしくないですけど。今は専らこの御殿で関白閣下に宛てて来るあれこれを捌いているってところですかね」
「あれこれ?」
「ええ、あれこれです」
つい唇を尖らせる。青嵐は吹き出した。
「とはいえ、寧々殿も無関係じゃない。今日、鮎子殿が忙しいのはあれこれに関わる準備のためですから」
「準備?」
「ええ。貴女も参加なさるのですよ」
「何も聞いてないけど」
「そうじゃないかなと先ほどから思っておりました」
扇子を口元に宛てて、青嵐は笑む。
「なんでもかんでも僕から伝えさせるのはどうかと思いますけどね。他ならぬ万丸様のご期待だ、応えないと」
そう言って、青嵐は体の向きを変えた。
「今日この後、宴が開かれるんですよ。貴女も参加です」
「ええ!?」
「さ、会場の下見に行きますよ」
彼が見る方角は普段の散歩では向かわない西の方。二の丸御殿から離れていく方角だ。
「そっちに行って良いの?」
「下見だから良いんです」
手招かれ、寧々は裾を絡げて歩き出した。
「脚を見せるのはお止めなさい」
「歩きにくいのよ」
「鮎子殿にも怒られますよ」
「それも分かるんだけど、無理!」
そんな遣り取りと歩を進めて、暫し。
ずっと二の丸御殿から眺めるばかりだった塀のそばに来た。
「塀だけじゃなく堀もあったのね」
「二の丸御殿からは見えないでしょうね。ちなみに、この向こうは城の外ではないですよ」
「うん…… それは、なんとなく、そうかなって思っていたけど」
寧々が眉を寄せると、青嵐は扇の先を塀の向こうに向けた。其処には黒瓦の御殿が聳える。
「聚楽第本丸御殿です。関白閣下とご寵愛深い側室の一人、松の丸殿がお住まいです」
南側の一部は三階建てらしい。それを中心に広がる棟、広さは二の丸御殿より小さいだろう。だが、塀の中の広さはそれ以上。
「庭が広いの?」
「ええ。かつての公家の暮らしを模した庭園が広がっています。池も作ったのですよ」
「作った? ある、じゃなくて?」
「ええ、作った、です」
くすくすと青嵐は笑う。
「関白閣下は戦乱で荒れる前の瑞穂國の、都の暮らしを懐かしんでいらっしゃるのでしょう。直接には知らない暮らしを、文献を読み解いて蘇らそうとなさっている。池だけじゃないですよ、やっていることは」
三階の屋根を見上げて、寧々は溜め息しか出せない。
「偉い人のやることは分からないわ」
「関白閣下のお考えは難しいですよ。宝物を献上せよ、という命だって何を考えての事なのやら」
青嵐も長く息を吐いて、黙ってしまった。
だから、黒い瓦の先の空を見上げる。
今日はすっきりと晴れている。空は青い。桜の色が眩しい。がやがやと聞こえてきた声もまた華やかだ。
二人、同時に振り向く。塀沿いにできた道をやってくる行列が賑わいの正体だ。
「面倒な」
と青嵐が呟くのと同時に。
「おやおや! そこにおるのは青嵐ではないか!」
声がかかった。
「望月殿」
青嵐が苦笑して、広げた扇子を振る。行列の中でも一際太った男が、どすどすと足音を響かせて、歩み寄ってきた。
寧々は思わず、その姿をまじまじと見つめてしまった。ゆとりを持った狩衣の形からでも窺えるほど、腹が出ている。宍が垂れてしまって、襟と顎の間の首が見えない。袖から見えた手もたっぷり肉を蓄えている。とにかく太った男。
「おまえもこちらに来ていたのか」
ふうふう、と額の汗を拭って。彼は膝に手をついた。
「ワシは久しぶりに此方へ参ったが…… いやぁ疲れた。大手門から本丸まで遠いんだよ」
「牛車で来たのではないのですか」
青嵐が目を細める。男は顔を袖で拭った。
「もちろん乗ってきたぞ。だが、さすがに本丸まで乗り付ける度胸はない。閣下に献上する荷物があるといってもなぁ」
はははと声を立て、彼はまた額を流れる汗を袖で拭いた。
「運ばせているのはもしや?」
行列の長持ちに視線を送りながら青嵐が問うと、その一瞬だけ男の顔が曇る。
「ああ。琵琶じゃ」
だが次の瞬間にはからっと笑っていた。
「して? おぬしは何をしている。そっちの娘は誰だ」
頬の肉に埋もれかけた目を瞬かせて、彼は寧々を見つめてくる。だから名乗ろうとしたのに、青嵐が一歩踏み出して寧々を背中に隠してしまった
「白書院様の元にいる女人です」
「ほほぅ」
「じろじろと見るのはお止めなさい。あらぬ誤解は生みたくないでしょう、
青嵐が睨むと。
「色恋に耽るほど若くはないなぁ」
望月と呼ばれた男は頬を掻く。それからもう二言三言交わすと、彼は行列を率いて去って行った。
影が見えなくなってから振り返った青嵐は苦笑いを浮かべていた。
「今の人は?」
「
・。*・。*・。*・。*・。*・。*・。*・。*
風の中では桜の花弁が舞い、池には竜頭の舟が浮かぶ。その横を進む姿は大分様になっていた。
「馬子にも衣装だな」
万丸はつい呟いた。寧々はぶすっと頬を膨らませる。
「どうせ、お姫様にはなれません」
そっぽを向いた彼女は今、裾の長い打掛を引き摺るのに手こずっていた。その動きの固さを覗けば、それなりに見える。
万丸が選んだ春の襲、萌葱色の濃淡はこの場の他の誰かと被ることもなく、かといって目を引き過ぎることもない。肩下でばっさり切られていた髪は艶やかに梳られ、唇にはほんのりと紅を乗せられて。十分に、一端の姫君だ。本人に告げる気はないが、よく化けたな、と思う。
日が沈みゆく刻限に開かれる宴にちょうどいい。
――しかし似合ってないな。
部屋の奥に座っていることを前提にした打掛より、動きやすさを求めた小袖に湯巻を巻いた姿の方がしっくりくる。衣の色も緑より紅や黄色のほうが映える。
見慣れてしまったからだろうか。
扇子の蔭に顔を隠して続けていた考え事は、他ならぬ寧々が振り向いてきたことで中断した。
「わたし、どうしていればいいの?」
「其処に座っていろ」
扇子を閉じ、その先で席を示す。庭から見て西側の簀の子、万丸の席だ。
「座って庭を眺めていろ。無理に酒を呑もうとするな。話しかけられたら相槌だけ打っておけ」
「喋るなってこと?」
「ボロが出る」
寧々はさらに頬を膨らませた。溜め息が零れる。
「おまえの思っている宴はどんちゃん騒ぎなのかもしれんが、今日のこれはそういう場ではないんだ。庭を眺めていろ」
そら、と扇子を庭に、池に向ける。
今一度見遣った竜頭の舟。その上には橙色の揃いの衣装を纏った楽人たち。
高欄を握って身を乗り出した寧々は、わぁ、と声を上げた。
「演奏があるの?」
「そうだ」
「楽しみだなぁ。宇治のお囃子とは違うのかな。あ、向こうの舟の人、昼間会った人だ」
にこにことした顔。気持ちが弾んでいるのを隠そうとはしていない。ズキ、と胸が痛む。
「おとなしく聞いていろ」
もう一度言って、万丸だけ歩き出した。
簀の子を巡る。旧き寝殿造りを模した本丸御殿中央の一階。池の正面には一際眩い衣装の一団がいる。その前まで来て、万丸は腰を下ろし、両手を付いた。
「お招きありがとうございます、関白閣下」
中心に座っていた男が、あはは、と笑った。
「堅苦しい挨拶は抜きにしろ、万丸。今日は音を聞いていけばよい夕べだ」
頷いて、顔を上げる。
「早々に差し出された宝物の音色を披露する場だと伺いました」
「そのとおり」
関白は、その手の扇子を竜頭の舟に向けた。
「藤家から家伝の琵琶が出された、その披露じゃ。堅苦しいことは考えるな、我々は聴くだけで良い。器の音の善し悪し、奏者の腕前は松の丸が判じてくれる」
なあ、と関白が振り向くと、一歩後ろに座していた女人が頷いた。関白が迎えた側室の一人だ。
「松の丸様におかれましては、ご機嫌麗しく……」
万丸が頭を下げると。
「あら、挨拶は松の丸様だけなの?」
違う方向から声が飛んできた。そちらもまた側室の一人。
「南御殿様」
呼んで、ついでだと今一人も呼ぶ。
「星の前様」
側室の中でも特に寵が深い、三人の子供たちそれぞれの母親が居並んでいる。
「皆様お変わりなく」
「ええ、元気よ。この間も国松と遊んでくれたようで、感謝します」
「白書院様も元気?」
「毎日お忙しいでしょう。困ったことがあったらわたくしを頼ってくださって?」
万丸に笑いかけているようで、お互い目の端で牽制し合っている。本当に仲が悪い。万丸は頭が痛い。
だが、関白の前で諍いを起こすわけにもいかない、と本人たちは分かっている。少しずつ少しずつ諍いの種を避けている。その証拠の今日の衣装。皆、桜紋様だ。しかし、蘇芳色、紅緋色、東雲色とそれぞれ趣の違う赤を纏っている。
ちなみに、母たちの打掛と揃いの生地で子らの水干が作られていた。此処に集っている側室たちと、簀の子の向こうの部屋内で双六に興じる国松石松鶴松の三人は、同じ色合いだ。
「よくお似合いでいらっしゃいます」
もう一度、頭を下げる。側室たちがころころ笑う。
「白書院様に褒められるのは嬉しい」
「でも今日はわたくしたちが主役ではないのよ」
と、皆の視線が一度竜頭の舟に動き。松の丸に戻ってきた。
「左様。今宵の主役は音と月」
一身に視線を集めて、彼女は艶然と微笑んだ。
「音の善し悪しを判ずるのでしょう? でも名高い名器ですもの、きっと素晴らしいですわ。それに奏者の腕も心配無用。当代一の琵琶の名手、望月殿がおいでですからね」
ああ、と皆が頷く。万丸もだ。
「望月殿のことはご存知?」
松の丸の問いに、はい、と答える。
「雅楽寮の音博士として長く朝廷に勤めていらっしゃる方でしょう。家伝の琵琶の銘に従って『望月』と呼ばれていると伺っています」
そこで一度、万丸は息を切った。
「その『望月』を差し出されたそうで」
関白が頷く。側室たちが笑みを浮かべる。
「望月を演奏なさる望月殿を見られるなんて、宮中の主上でさえ滅多になくってよ」
「その機会を作ったなんて、さすが関白様ですよね」
勢いで側室たちの笑いは捻れていく。
「それにしても、望月、だなんて。餅つきの間違いではないかしら」
「あんなに太ってるの、あの人くらいだものね」
「でも昔はとても美少年でらしたんですって。演奏の冴えと見目の麗しさを引き換えにしたってもっぱらの噂よ」
くすくす、くすくす。さざめきを関白さえも止めない。だからだと思う。ゆらり、黒い靄が――物の怪が視界の隅を掠めていった。
「見目は大事なのにね」
構わず側室たちの言葉は続く。
「一等の衣を仕立てるのも大事だけど、肌も髪も手を入れてこそ」
「ええ、そうね。そう、見目で思い出したのだけど…… 白書院様はお困りのようね?」
はて、と首を捻ると哀れむような視線を向けられた。
「
肩が揺れるのを気合いで押さえ込む。万丸は扇子を広げ、顔を上げた。
「それが、何か」
「髪を伸ばしてもいないし、衣も端女のように着るの」
「庭を歩き回るなんて尋常でないわ」
「斯様に物を知らぬ女子。聚楽第に要りませぬでしょう?」
まだ、くすくすくすくす、響いている。同時に、彼女が怖がる物の怪がまた庭を横切っていった。
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