03.養花天
「それで? 結局、何と呼ばせているんですか?」
「よろずまる、だ」
答えると、話相手は腹を抱えて笑い出した。
相手は、万丸より一つ年下の公家。春の襲の狩衣を纏い、烏帽子を被った若人。身につけた品は隙のない逸品だけなのに、雑な所作で笑い転げている。
「幼名を言ったのは、漢字が書けるか試すためだったんじゃないんですか?」
「そのつもりだったんだが」
万丸は溜め息を吐き出す。
「白書院も伝えているのに、そちらで呼ぶ気があれには無いらしい」
相手はなお笑う。
「それはそれは。で、他の呼び名は教えてないんですか?」
「教える理由がない」
「左様ですか」
目の端に浮いた涙を拭ってから、相手は座布団に座り直した。
「僕には
真っ直ぐな目。見つめ返して、呼び返す。
「
「はい、なんでしょうか」
「おまえを信頼しているから、呼ばせているんだ」
「ええ、分かっておりますよ。だから貴方も僕を諱で呼ぶ」
真面目な笑みを浮かべ、惟方は続ける。
「僕は友人として、配下として、貴方を盛り立てたいんですよ。それなのに。いつまでも幼名で通そうとなさるなど、ヤル気を感じられなくて悲しいです」
「……悪かったな」
「じゃ、やる気を出しましょ?」
にっこり。また惟方の笑みの形が変わる。
「人質の監視を任されるというのは関白から示された一つの信用です。辻井圭庵の養女、しっかりと閉じ込めておいてくださいませ」
だが。万丸は扇子の先でこめかみを押さえ、呻いた。
「それができれば苦労しない」
「……できないんですか?」
何故、と惟方が首を傾げる。それをじとりと睨む。
「部屋でじっとしていられるような
聚楽第にやってきた翌日には、早くも一人で庭園に出ようとして一悶着した。単独で建屋を出ようとしたこともさることながら、装束の纏い方でも大騒ぎになった。
初日の装いで予測は付いていたが、あの娘は本当に打掛姿を知らなかったらしい。二枚目の着物を帯で留めないということをせず、一枚目も二枚目もぐるっと帯で留めていたのだ。
「袖の大きさが違うから、おかしいなとは思ったんだけど」
というのが本人の弁。
動きにくいと不満げな顔に万丸が諦めて、市中で見かけるような形の小袖を用意するように指示をした。楽ちんと本人は嬉しそうだったが、それでも、絹の衣装で庭にほいほい出て行くのは止めてほしい。
「放り出すことはできぬからせめて、此処で過ごす作法を覚えさせようと思ったんだが」
年配の女人を世話係にしたら、娘はまず女人に名を尋ねた。
「当ててごらんなさい」
という女人の意地悪に娘は、鮎子、と応じたそうだ。
「着物の柄が魚だから」
「魚は魚ですけれど、これは鯉です」
話を伝え聞いた万丸が頭を抱えたのは言うまでもない。女人は万丸自身の目付役の妻でもあるのだ。そこを通じて文句が届くのだろうと覚悟したが、幸いまだ何も言ってこない。
「十日間ずっとこの調子だ」
他人の呼び方。装束の着こなし。そして、振る舞い。何を取っても、聚楽第の常識を外れていくのだ。
「疲れる」
万丸は特大の溜め息を響かせた。
「それは、人質にも関わらず好きに過ごさせている貴方が良くないのでは?」
惟方は反対に首を傾けた。
「勝手に動けないようにすれば良いんです。人目に触れさせなければ、装束がぐちゃぐちゃだろうと、作法がハチャメチャだろうと、誰も気にしません。部屋の前に柵でも立てたらいかがですか」
「それは駄目だ。不便はさせぬと約束した」
「律儀ですねえ。食事に困らないだけで充分だと思うんですけど」
ひょいと肩を竦めてから、惟方は柔らかな視線を万丸に向けてきた。
「貴方は偶にお優しすぎる。だから好きなんですけどね」
その視線から逃げるように、万丸は外を見た。
弥生の空は白く烟り、湿っている。桜の花を招く前独特の空だ。
「で、件の娘は今はどうしてるんですか?」
「じっとしてられぬらしい、懲りもせず庭に出ている。が、もうすぐ戻ってくるだろう」
「成る程。僕、ご挨拶していけますかね?」
そう決めたという顔で青嵐は立ち上がる。万丸も、溜め息を吐いてから、腰を上げた。
並んで縁側に出ると、青嵐が問うてきた。
「ちなみに何と呼べばよろしいですか?」
そこで、万丸は目を剥いた。
「しまった」
「何が?」
「決めてないな」
「え!?」
・。*・。*・。*・。*・。*・。*・。*・。*
涅槃雪も姿を消した弥生の庭をぐるりと巡って、白書院が見える場所まで戻ってきた。
「桜、もうちょっとで咲きそうだった」
寧々は振り返って言う。後ろを付いてきていたのは鮎子だ。化粧を施した顔をピクリともさせず、そうですね、と応じられる。だがそれだけだった。むう、と頬を膨らませる。
此処に来て十日、人との会話というものがほとんどなく過ごしている。監視のためにだろう、日に二回、万丸が部屋に押しかけてくるその時だけは大声で喋っているが、それだけだ。
――あいつと喋るって言っても、ご飯は食べたかとかそういう確認だけなんだよね。
家族や近所の人たちに囲まれて賑やかに過ごしてきた身に、この静寂は堪える。
宇治が恋しい。彼処と違い、聚楽第は何もかもが苦しい場所だ。此処での憂鬱な暮らしはいつまで続くのだろう。花曇りの空に溜め息を吐き出す。
常はこのまま真っ直ぐ宛がわれた部屋に戻るのだが。今日は濡れ縁に人が立っているのが見えた。
若人が二人。一人は烏帽子を被った重たげな衣装。もう一人は小袖袴に胴丸という姿。軽い姿の方が主だ。
「白書院様」
後ろで鮎子が驚いた声を上げる。
「何かございましたでしょうか」
上擦った声に万丸はひらりと扇子を振った。
「おまえに不手際は無い、いつもよくやってもらっている。用があるのはそっちの
閉じた扇子の先を向けられる。眉を寄せて、寧々は濡れ縁の近くに寄った。
二人を交互に見上げる。万丸は扇子を口元に当てて、険しい顔をしてる。もう一方の烏帽子を被った方は、にっこりと笑いかけてきた。
「はじめまして。
瞬く。彼はさらりと続ける。
「朝廷の陰陽寮に勤めている者ですが、縁があって万丸様にもお仕えしております。貴女は此方で新しく過ごされるようになった方ですからね、ご挨拶申し上げないと」
そうでしょう、と首を傾げられて。寧々も相好を崩した。
「寧々です。仲良くしてください」
深々と腰を折る。顔を上げると、青嵐は笑顔のまま続けた。
「立ち話もなんですから、部屋に戻りましょう。ね、万丸様?」
「ああ……」
ぷいっと背中を向けられた。足も真っ直ぐ彼の部屋へと向いている。
頬を膨らませかけたところに。
「行きますよ」
青嵐に手招かれた。
初日にも入った部屋は、万丸の部屋だったらしい。
その襖絵をじっと見ていると。
「白いでしょう? 柱にも
青嵐が言うのに、寧々は笑う。
「白じゃない所もあるんですね」
「ええ。お訪ねになっていないと思いますが、この一つ南は黒書院と呼ばれています。杉の柱なんですよ」
にっこりと青嵐は続ける。
「そこの主も建屋と同じ呼び名が使われます。万丸様が白書院様と呼ばれるように、黒書院様もいらっしゃる」
「誰なんですか?」
「万丸様の御従弟です」
青嵐が視線を送ると、万丸はしぶしぶ頷く。
「竜丸だ。面倒だから、会いたいなどと言うなよ」
「ええ……」
寧々は眉を寄せる。青嵐は笑い出した。
「黒書院様にご挨拶は不要ですよ、万丸様とは水と油の関係ですからね。覚えておいてください」
しかめっ面のまま振り向く。青嵐はふっと笑みを消した。
「白書院の方々があまりお話にならないようだから、僭越ながら僕から。寧々殿はもう少し警戒なさった方がいい。例えば、軽率に名乗らないとかね」
「そうなの?」
目を丸くする。青嵐は真剣な表情で頷いた。
「例えば僕。一条は家の名、青嵐は号です。主に書画で使っていた号なのですが、今は仕事でも呼ばれています。諱は別にありますが…… 明かさないものなんですよ。都では」
「そうなの!?」
素っ頓狂な声を上げてから、寧々は万丸を見た。彼もまた真剣な顔だ。
「万丸は幼名だ。通りがいいからそのまま使っているが、俺も諱が別にある。辻井圭庵だってそうだろう?」
「あ……」
瞬いて、そうだったと考えを巡らせる。圭庵は医師として名乗るもので、剣豪として呼ばれる名も、本当の名前もある、と言われたことがあった気がする。
「でも、私には寧々という名前しか無いわ」
「そのうち万丸様が呼び名をつけてくださいますよ」
ね、と青嵐がまた笑みを浮かべる。
「じゃじゃ馬で十分だな」
万丸は渋い声を出した。
「ご冗談を」
「庭をほいほい歩き回るくらい落ち着きが無いんだ。じゃじゃ馬だ」
「元気があるって言うんですよ。それに明るいお声のお嬢様じゃないですか」
「喧しい」
「僕は好きですけどね…… まあ、早く佳い名を考えてください。誰かが適当なのを言い出さないはも限らないから」
「本丸あたりではもう渾名が出来ているんじゃないか?」
「どうでしょうねえ」
流れるように喋る二人を見つめる。特に万丸をだ。
決して口下手ということはないと思っていたが、こんなに喋る姿は初めて見た気がする。相手が青嵐だからか。心許せる相手がいうということが羨ましい。
また宇治が恋しくなった。
――会いたいよ、先生。葵。みんな。
養父、一番近い年の義妹、大勢のきょうだいたち。顔がまぶたの裏に浮かぶ。彼らのために人質になると自分で決めたはずなのに、寧々は宇治が恋しくて仕方ない。挫けそうだ。
――ダメダメ、それじゃ。戦わなきゃ、私。
ぱんぱん、と両手で頬を叩く。それから前を向くと、妙な顔で万丸と青嵐が向いてきていた。
「不便はさせぬ」
「鬱憤も溜めないようにね、気をつけないと。もっと散歩してきます? 今度は僕がご一緒しましょうか」
「今日はもういいです。だって」
と寧々は息を吸った。
「だって、今日は、庭に物の怪が多いんだもの」
物の怪。黒い靄。宇治でも時折見かけていたが、聚楽第に現れる数はその倍以上だ。直接に間接に人間を苦しめるそれが多いこと。聚楽第での暮らしが憂鬱になるもう一つの理由。
「怖いよ」
ぽつんと呟く。万丸は目を細めた。
「今日は多い、か。気にしてなかったな」
「貴方の周りには寄ってこないでしょうからね」
青嵐がこめかみを揉む。
「ですが、僕も此処に来るまでの間に気になりました。仕方のないことかもしれませんが」
「そうなの?」
「関白閣下が出された命に頭を悩ませている人は多いようです。その念でしょう」
青嵐は至極当然のように話す。寧々は首を振った。
「分からない」
「ううん…… 寧々殿。物の怪の正体が何か、はご存じで?」
「知らない」
なるほど、と青嵐が苦笑いを浮かべる。
「物の怪というのは、生き霊死霊――人間の魂が歪んだ時に生まれるものです。僕が先ほど言ったのは、関白閣下の命で悩んだ者の魂が歪めば、生き霊が現れるでしょうということ。もっとも、閣下の命が無くとも、聚楽第にはこれだけの人間が集まっていますからね。その分浮世の苦しみというのも増えます。生き霊死霊が増えるのは道理」
「そうなのね」
「そういうもんです」
にっこりと青嵐が笑う。寧々は頷くしか無い。
「故に此処で暮らすのは大変でしょうけど。頑張ってくださいね」
「はい。ありがとうございます」
どうにか笑い返す。万丸が目を閉じるのがが見えた。
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