02.贅沢で贅沢な
かつて夢見たお姫様はどんな姿をしていたっけ? そんなことを思いながら、
牛車はひどく揺れた。
宇治から洛中へ四里半の道程、この間ずっと揺られ続けて、目も胃もぐるぐる回っている。
どれだけの時間を揺らされているのか落ち着いて考えられなくなった頃、前の簾が持ち上げられた。
「着いたぞ」
顔を覗かせたのは、宇治まで迎えに来た牛飼い。彼は次の瞬間、叫んだ。
「ひでえ有様だな、おい!」
そんな叫ばなくても、自分で分かっている。
家を出る前に、元気でな、と養父が食べさせてくれた薬膳粥は、口からすべて飛び出してしまった。胃から逆流してきたその無数の粒が、牛車の内壁、寧々の着物のあちらこちらに張り付いて、ツンと酸っぱい臭いを撒き散らしている。両手も口の周りもベトベトだ。力の入らない体では、立ち上がることはおろか、起き上がることもできない。目を開けていることも限界かもしれない。
がやがやと、いくつもの顔が牛車を覗き込んで。
「誰か、奥まで運んでやれ」
外からそう言う声がした。そこで、プツリ、と視界が暗くなった。
かつて夢見たお姫様はどんな姿をしていたっけ。
日蔭の部屋の奥で静かに微笑んで、長く伸ばした髪を
洛中を訪れる際に見かけた網代車はどれもゆったりと進んで、
寧々にはとてもそんな暮らしは送れない。髪は肩下でばっさり切って、小袖に湯巻という姿で走り回るのが常。手も顔も日に灼けていた。
だが、慌ただしい暮らしがどうしても嫌だったなんてことはない。食べる物があり共に暮らす家族がいるということは幸せなのだ。
血と煙の臭いに屋敷を追われて、草の根を噛んでどうにか命を繋いだ後。温かな食事と寝床を与えてくれ、何年も守り導いてくれた養父には感謝しかない。寧々の他にも命を救われた子供は何人もいて、血が繋がっていなくとも全員のことを家族、きょうだいだと思っている。
その子供たちの中で寧々が一番年上だった。だから、炊事も畑仕事も率先してこなした。新しい着物も下の子たちの分から誂えた。夜眠るときは抱きしめて、温めてやって。そんな日が続くとばかり思っていたのに。
洛外宇治の街で医師として暮らしていた養父は、かつて洛中の戦で名を轟かせた剣客だった。それは知っていた。だけど、それ故に時の人に睨まれるようになるとは考えもしなかった。
叛意は無いと、天下を乱すような真似はしないと、示せ。
養父――
そして今、寧々がむくりと起き上がったのは、畳敷きの広い部屋だった。
「ここ、聚楽第?」
人質となるために牛車で向かわされると聞いた先の名。天下を治める関白の築いた城。着いた、と聞かされるなら目的の場所のはずだ。
うん、と首を捻った瞬間、お腹がぐるると鳴いた。それを宥めるために体に手を当てて、自分が白い小袖を着ていることに気づいた。滑らかな手触りの綿の小袖は、寧々が宇治から着てきたものではない。
首を捻ってよく見れば、布団に使われているのも柔らかな布だった。床一面には畳が敷かれている。柱に飾り金具が付き、襖には湖を渡る鳥の絵が描かれ、奥の棚に桃の枝が活けてある。
「お姫様の部屋だ」
吹き出して、嘆く腹の虫を撫でて、布団から這い出す。
棚とは逆側の障子、うっすらと光を通すそれを引くとそこは板敷の縁側で、向こうに雪の残る庭が見えた。
同時に。
「起きたか」
声がかかる。
振り返ると、男が一人、障子の外側すぐに座っていた。
「気分はどうだ? 動けるか?」
「大丈夫です」
「そうか」
ゆっくりと言葉を紡ぐ、やや高めの声。先ほど、運んでやれ、と言っていた声だ。指示をできるほど偉い人なんだろう、とじっくり見遣る。
まだ若い。若いといっても、寧々と同じ頃合い――二十歳そこそこだろう。小袖に袴、その上に胴丸を羽織り、右手に扇子を握っていた。
着物は絹だろうか、艶やかな生地だ。鳶色の胴丸に至っては綾織の、手の込んだ品と一目で分かる物。扇子は闇の中に雲が浮かぶ絵なのだが、その絵が金で描かれている。
若いが、冷めた視線の、細い躰の男。彼は目を細め、顎をあげた。
「まず着替えろ」
「え?」
「寝巻姿で出てくるな」
「ええ!?」
寧々はもう一度、自分が着ている着物を見た。
白の小袖。家で着ていた物よりずっと高価そうな物なのに。
「寝巻?」
寧々は瞬く。男は低い声で応じてきた。
「寝るために着せられたのだから、寝巻だろう。部屋の中に別の着物が用意してあるはずだ。それを着ろ」
「わたしが着てきた着物は?」
「洗わせている」
だから、と相手はさらに声を低くした。
「つべこべ言わずに着替えてこい。手伝いは要るか?」
「一人でできます!」
寧々が叫ぶと、男はゆらりと立ち上がって、縁側の回る先を扇子で示した。
「俺は向こうの部屋にいるから、着替えたら来い。どの部屋か分かるように障子を開けておいてやる」
寧々が返事をする前に、彼はくるりと背を向けてきた。
ぱちぱち瞬いてから、部屋の中に戻り、ぴしゃりと障子を閉めた。
まさか一日に三回も着替えることになろうとは。その回数に耐えられるだけの衣装があることにも驚く。
「贅沢な暮らしだなぁ」
部屋を見回せばたしかに、布団の向こうの衣紋に着物が掛けてあった。白と桃染が一枚ずつ。
首を捻って、下に白を、上に桃染を着る。最後に帯を締めた。
袖を揺らし、裾を見下ろして、よしと拳を握る。それから部屋を出て、建屋の外側を巡る廊下をぐるり辿った。
日は大分傾いていて、木々の落とす陰が長い。寧々が寝かされていたのとちょうど反対側まで来てやっと、障子が開け放たれたままの部屋を見つけた。
覗き込むと、先ほどの男が奥に座っていた。声をかける前に振り返った彼は、目を丸くした。
「なんだその着方は」
「何かおかしい?」
首を傾げる。
「一枚は肩にかける物だ」
「そうなの?」
「打掛を知らないのか? それとも…… 市井の
相手も首を傾げるから、寧々は唇を尖らせた。
「多分、宇治では変ではないです」
「そうか」
また溜め息を吐いてから、彼は扇子の先で床を叩いた。
「まず座れ」
そう言う彼の正面にはちゃんと座布団が置いてあった。遠慮なく腰を下ろす。
だから、正面から姿形を見られた。
とにかく躰が細い。腕も寧々のほうが太そうだ。それだけでなく、色が白い。細面で、鼻筋の通った顔立ち。眉間に皺を刻んで溜め息を吐く様に、こちらの胃が先ほどとは違う痛みを訴える。
「さて、何から話すか――」
とんとん、と扇子で手を叩いてから、彼は寧々を見つめてきた。
「おまえが辻井圭庵の娘か」
「養女です」
「……細かい話を」
空いた手の指先でこめかみを押さえながら、彼はまた溜息を吐く。
「辻井圭庵が、関白閣下に叛意がないことを示すために差し出してきた人質がおまえなのか、を聞きたいんだが」
「それなら、わたしです」
「よし」
頷いた彼の前の床に、ばん、と両手を付く。
「わざわざ人質なんか取らなくたって、圭庵先生はもう戦う気は無いのよ! 宇治で医師として誰かの役に立とうと頑張ってるだけなのに!」
「それを言って通るなら、人質を出せなどということにはならん。おまえ、間違っても関白閣下にまで食ってかかるなよ」
ぱん、と扇子を広げて。彼は顔の下半分を隠してしまった。そのまま一拍置いて、彼はゆっくり喋る。
「俺はおまえの話を聞くだけはしてやれるが、それまでだ。閣下を説得などできぬと心得ておけ」
そんな、と呟いて、寧々は俯いた。男の声は響き続ける。
「人質を求めるのが何時までなのか予測できないが、終わるまで此処で過ごせ。閣下にはそう言われている。俺からも不便はさせぬと約束しよう」
はぁ、と気の抜けた声を上げて、寧々は改めて周りを見回した。
男の向こうの床の間には、やはり桃が活けられている。その壺は白磁。柱に飾り金具があるのも、欄干に鳥の透かし彫りがあるのも、先ほどの部屋と同じだ。襖には白花色の地に墨の濃淡で物語の人物たちが描かれている。居るのは男と寧々の二人だけなのに、置かれた白絹の座布団は一枚二枚ではない。濃紺の火鉢では炭がパチリとはぜる。贅が尽くされた部屋だ。
「此処は、何?」
「何、か。部屋のことか? 建屋のことか?」
「両方、かしら」
寧々が顔を向けると、男は扇子を広げたまま、冷めた声で答えた。
「建屋のことを云うのなら、聚楽第が二の丸御殿、一番北の白書院だ。先ほども言ったが、人質として居る間は此処で過ごせ。奥の間をおまえに宛がってやる」
その最後の言葉に、瞬く。宛がう、とはずいぶん上からの物言いだ。
「あなたはなんなの?」
ぎゅっと睨む。扇子が揺らされる。
「ああ、そうか。名乗っていなかったな。俺は此処の今の主だ。だから白書院と呼ぶ者が多いが…… そうだな」
一度息を切ってから、彼はまっすぐ寧々を見つめてきた。
「よろずまると呼べ」
きょとん、と見つめ返す。彼の姿勢は変わらない。
「数字の万を書いて、よろずまる、だ。まんまるなどと抜かしたら承知しないぞ」
扇子の上側から覗く一重の瞳は真っ直ぐに向けられたまま。寧々はまた首を捻って。
「あ」
声を上げた。
「万丸ね。数字の万を書いて、万丸」
すると、扇子が下がった。見えた唇は弧を描いている。
「字の読み書きはできるようで、重畳」
「馬鹿にしているの!?」
「さて」
それだけ言って、万丸は黙ってしまった。寧々も唇を尖らせたまま、座り直す。首を振って、部屋の外に視線を投げて。
庭を黒い靄が横切っていくのを見つけた。
「あ、あれ!」
声を上げて、指を向ける。ゆるりと万丸も顔を向ける。
「物の怪か」
ふわふわふよふよと空中に浮かぶそれ。彼は言葉を継ぐ。
「大した物の怪じゃない、放っておけ」
寧々は目を見張った。
「バケモノがいるのよ! 何とかしないと」
「騒ぐんじゃない」
扇子を目の前で揺らされる。万丸は妙に冷めた顔をしていた。
「此処ではあれくらい普通だ。人間が多いからな。諦めろ」
「そんな言って、あの物の怪が何か起こしたらどうするのよ!」
身動ぎ一つしない万丸と松の緑に紛れていきそうな靄と交互に見て、寧々は立ち上がる。
「放っておけ」
また言われた。
「余計なところまで走る気か、このじゃじゃ馬め」
振り返り、きっと睨む。
「止めるばかりで、実はあなた、走る体力が無いんじゃないの? この
万丸の唇が歪む。直後、パン、と扇子で畳を叩かれた。
「その呼び方も承知せん」
鋭い声に、寧々はきゅっと唇を噛んだ。
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