第44話 シャルルの事情 ㉑

僕はハイネ先生に叱られ呆然と立ち尽くすエリー嬢と、青ざめたままのパートナーの男子学生を見やって、姉さまの耳元でこそっと呟いた。


「姉さま…良かったね。僕等ヘイストンの勝利だよ。フィリプス家に勝ったんだ」

「そうね、勝ったわ」


不思議な事に姉さまの顔に勝利の喜びは浮かんでいなかった。

姉さまはそのまま冷静に注意深くダニエラ=フィリプスの様子を伺っていた。


それはまるで森にいる狩人ハンターが確実に獲物を仕留める前に、その獲物の最後の抵抗を息を詰めながら見つめる様子にも似ていた。


すると姉さまは息を詰めたまま前を向き、僕の手を離して口を開いた。


「…シャルル、あんたはもう帰っていいわ」

「何だよ、それ。僕も姉さまの勝利を分かち合いたいよ」

「いいから…帰ってちょうだい」

「いきなりどうし…」

「早く帰って…!」


突然の姉さまの厳しい口調と態度の豹変ぶりに、正直僕は…困惑し気を悪くした。

「……あっそ、本当に意味が分からない。けれど分かったよ。言われた通り僕は帰る。では失礼するよ」


肩をすくめて僕は姉さまに背を向けた。

そして講堂を出る為にその場から離れようとした瞬間――。


「――待ちなさい!シャルル=ヘイストン!!」


ダンス用のオーケストラの音に紛れて、ダニエラ=フィリプスが僕の名をヒステリックに呼ぶ声が聞こえた。


 ++++++


「…待ちなさいよ!シャルル=ヘイストン!!」


どうやら彼女は感情の起伏が激しい女の子の様だ。

僕が見る限り何かがあれば常に怒っている。


エリー嬢以降にも女生徒がまだダンスの試験を受けている最中だと言うのに、目を吊り上げ顔を強張らせたダニエラ=フィリプスは、ダンスフロアを横切る様に靴音高く――歩いて来た。


一部ダンスの試験を既に終えた生徒が、僕等の声は聞こえなくてもこちらの様子が気になる様に、ちらちらと見ているのが分かる。


「そんなに簡単に帰らせないわ。元はと言えば…あんたのせいなのに…!」


彼女は怒りと苛立ちの表情を浮かべた状態で、カツカツとドレスシューズを鳴らしながらくる。


(何だ?…『』って、一体何だ?)

僕の頭の中に、彼女が喚く言葉への沢山の疑問符が浮かぶ。


彼女の好意と手紙をお断りした事は申し訳ないが、今までと同じ様に丁寧に説明して断った(筈だ)し、少なくともこんな風に追いかけられて怒られる様な付き合いを告白の前にも後ろにもしていない(筈だ)。


確か姉さまは『僕が断ったのがきっかけ』だと――。


がきっかけだとしても彼女エリー嬢はわたしの大切なものを傷つけた』

と言っていなかったか?


(確かそれで姉さまから『勝負を申し込んだ』と…)


その時手を軽く広げた姉さまの身体が、突撃を仕掛けてくる様なエリー嬢と僕との間にスッと入り込んだ。


まるで僕を守るかの様に、姉さまが怒れるダニエラ=フィリプスの前に立ちはだかったのだ。


 ++++++


微かなちッと云う舌打ちの音と同時に、姉さまの細い背中から苛立たし気な声が小さく聞こえた。


「だから早く帰ってって言ったのに…」

「…え?」


(今…姉さまが僕に舌打ちをしたのか?)

品が無いとされている舌打ちの行為をこの僕に…?


混乱と困惑に陥る僕を置いて、姉さまは静かな声でエリー嬢へと呼びかけた。


「ねえ、エリー…分かっているでしょう?勝負はもう決まったの。

筆記の試験でもどうやらわたしの方があんたよりも点数が良いみたいだし。

ダンスの試験も…どんなに頑張っても、失格になったあんたじゃわたしよりも点数は取れないわ。

もう諦めて


姉さまは僕の身体を左手で後ろへ押した。

そして、休戦(だか終戦だか)を示す握手を求めるかの様に、右手をエリ―嬢の前へと差し出しながら、一歩前へ出た。


「ね?…はい、もう終わりよ…、今までのわ」


エリー嬢は、目の前の姉さまの右手を暫く瞬きもせず無言で見つめていた。

そして、どのくらい時間が経っただろう――自分の右手をゆっくりと差し出し、姉さまの手をぎゅっと握った。


――かの様に見えた次の瞬間。


なんと…ダニエラ=フィリプスは握った右手で、姉さまを自分の方へと引っ張り、その左手でよろめいた姉さまの右頬をバチン!と、思い切り張ったのだ。


「――姉さま!」


 +++++


僕は思わず叫んで、床にぺたんと座り込んだ姉さまに駆け寄った。


「な、なんて野蛮な事を…!姉さま!…姉さま、大丈夫かい!?」


ダニエラ=フィリプスは、そんな僕と姉さまを馬鹿にした様に見下ろした。


そして唇を歪め――先程の試験の時の様に高笑いを始めたのだ。

「本当に本当のお馬鹿さんね!アリシア=ヘイストン!!

わたくしがあんたとの…ヘイストン家の者とのと本当に思っていたの!?」


そしてそのままくるりと僕等に背をむけたダニエラ=フィリプスは、ヒステリックな声で叫んだ。


「いい機会だから…どうせなら、この場で皆に全部ぶちまけてやる事にするわ!」


試験用のオーケストラの音に紛れてはっきりとは聞き取れずとも、エリー嬢の声に生徒の何人かが僕等の方を向いた。


「姉さま…大丈夫かい?顔を見せて…」

エリー嬢に張られた為に短くなった髪が更に乱れ、右頬に手を当てながら俯く姉さまを僕が覗きこんだその瞬間――。


「――皆様!聞いてください!

実はのです!」


僕は嬉々として叫ぶエリー嬢の背中を見上げた。


「――は…?…何だって?…」

(――僕?)


僕は突然の――ダニエラ=フィリプスのに呆然とした。


この時の僕は自分がゲイである事を一部の人間にしか伝えていなかった為に、『淫らな行為云々』よりも自分がゲイだとバレてしまう方が怖かった。


それを受け入れられる貴族社会では無かったし、(それは今もではあるが)その事で自分が異端の目で見られる事は分っていた。


大人になるにつれその様な関連コミュニティが出来たが、バイセクシャルの生徒会長ですらその性癖を隠していたのだ。


一瞬頭が真っ白になった僕は――ダニエラ=フィリプスの言葉を理解出来なくなった様にパニックに襲われた。


『何故…彼女が生徒会室で行われていた事を知っているのか?』


『エリー嬢は一体何を知っているのだ?』


『学園内ってどういう事だ?』


って…何処まで分かっているのだ?』


『僕がゲイだという事もバレてしまっているのか?』



そこで僕はまたハッと気づき――姉さまの方を見た。



『…姉さまは…?』






姉さまは――講堂でまだ試験をしている女生徒と先生達に向かってオーケストラに負けじと大声を張り上げるエリー嬢を、怒りに燃える凄まじい眼差しで睨み上げていた。


そして次の瞬間、僕の耳に姉さまの息を吐く『ひゅっ』とした音が聞こえた。


 ++++++


「皆様、お聞きください!ここにいるシャルル=ヘイストンは!

彼はなんと…高等科の生徒会室で生徒会委員といかがわし――…」


エリー嬢は最後まで台詞を言う事が出来なかった。

姉さまが獣の様な声を上げて、彼女に向かって猛烈なタックルを仕掛けたからだ。


姉さまとエリー嬢の二人が、絡まるようにドタン!と派手な音を立てて、講堂の床に倒れた。


「姉さま!」

「――止めなさい!二人共何をやっているのですか!?」

床に倒れる音で気付いたハイネ先生の声が講堂内に響いた。


今度は完全にオーケストラの音も止まってしまった。

踊っていた学生も完全に足を止めて、一斉にこちらを見ていた。


姉さまはそのまま素早くダニエラ=フィリプスの身体の上に馬乗りになった。

(『こうやって昔彼女は喧嘩をしたのか』と思う程のスムーズさではあった)


そして姉さまはその細い上半身と右腕を鞭の様にしならせて、エリー嬢の左頬をバシンッ!と思い切り張った。


見事と言える姉さまの平手打ちの衝撃で、エリー嬢の目の焦点が一瞬合わなくなる。


「きゃあ!なんて野蛮な…」

「止めなさい!アリシア=ヘイストン!」


女生徒の悲鳴と、ハイネ先生の厳しい声が講堂内に響いた。


そして今度は同じように――左腕も振り上げた。


呆然としていた僕は慌てて姉さまの振り上げた左腕を掴んだ。

「姉さま!…姉さま、もう…もう駄目だ!」


姉さまは僕の掴んだ手と自分の左腕をハッと気付いた様に見ると、そのまま大きく息を吐き――暫くしてから落ち着いた様な静かな声で僕へ言った。


「…離して頂戴、もう大丈夫だから」


僕の手を離す様に左腕を少し振った姉さまは、馬乗りになったままエリー嬢を冷ややかな眼で見下ろした。


そして左頬を赤くし半泣きになっているエリー嬢へ向かって、背筋が凍りそうな程ぞっとする低く冷たい声で言った。


「――これ以上わたしとの約束を破るつもりなら…あんたが今まで臨んできた試験でカンニングしてきた事実を全て公表するわ。

『どの試験で誰に頼んだのか』まで調べは付いているんだから…覚悟なさい」

 

 ++++++


姉さまがエリ―嬢へ馬乗りになったまま最後通牒をした時に、ハイネ先生が僕等の元へと走ってきた。


そしてハイネ先生は厳しい声で、まだ馬乗りになっている姉さまとエリー嬢を交互に見てから重々しく告げた。


「――アリシア=ヘイストン…貴女のダンスの試験も失格とします。

他の生徒の試験を妨害した行為は決して許されません。

二人共しっかりと反省する様に。

残念ですが、今回の事はもう親御様迄連絡が行くでしょう」

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