第42話 シャルルの事情 ⑲

「――それではこれから社交ダンスの試験を開始します」

ハイネ先生の声がやっと落ち着いた講堂内に響いた。


「一番目のアビゲイル=ジョンソン、二番目のアデル=ゴールドバーグ。パートナ―と共に準備をして下さい。準備が出来次第、一番目からテストを始めます…」


「さあ、邪魔にならない様に端っこへ行きましょ」


小さな姉さまの身体の何処にこんな力があるのだろう。

僕は講堂の隅の場所へ移動するのにグイグイと僕の腕を引っ張るピンクのドレスの姉さまの指を剥がすのに一苦労した。


「…姉さま!…ちょっと、そんなに引っ張らないでよ、姉さまってば」

僕は姉さまに向き直り、改めて尋ねた。


「何なの?姉さま。そんなにあっさりとなんて…僕にこんなに簡単に屈していいのかい?」

とは言え、僕は姉さまの言葉と態度が信じられなかった。


「仕方がないわ…とても、とても悔しいけれど、背に腹は代えられない。|

わたしの負けよ」


姉さまは僕を見上げると、頷いてあっさりと言った。

姉さまのやや投げやりな回答に、僕はあんぐりと口を開けた。


(姉さまにとって…この戦いはそんな程度のものだったのか?)

「…ねぇ、分かってるの?ヘイストン家の当主争いが絡んでるんだよ?

それをこんなに簡単に諦めるの?」


すると――姉さまはうっすらと笑いを浮かべたまま僕を見上げ、少し得意気に説明を始めた。


「シャルル…当主争いはね。これからまだ何度でも出来るのよ」

「は?…どういう意味さ、それ…」


「…実はね、あんたには言ってないと思うけれど。

お父様にはもう頼んで了承も得ているわ。

社交界デビューした後も、16歳でわたしが成人してからも、お見合いや婚約や結婚の準備よりも優先的にわたしをヘイストン家の当主争いに参加させて下さいって。

そしてって」


「失礼…何だって?聞いていないよ。高等科卒業って18歳までって事かい?それって…って事?」


初耳の情報に僕は思わず聞き直してしまった。

『父上が許したって?』


その家の当主である権利は、通常成人した時――16歳で持つのだ。


僕が来年社交界へとデビューすれば、一応当主候補として大人たちと交わっていく付き合いを始める。

僕は勿論そのつもりだった。


一方女の子といえば、学園の高等科へ進むと直ぐにデヴュタントをするのが普通だ。

そこでお見合いや紹介を受けて結婚するのが通例である。


社交界の中で様々な男性貴族と交流を深めつつ、大抵卒業と同時に(時に卒業を待たずに)結婚や婚約をする貴族の娘が多い。


「…姉さま。ったね?」

自分の声が冷ややかになるのを感じながらも、姉さまを見下ろして僕は言った。


姉さまは小さく頷いてから、僕へ曖昧な表情で微笑んだ。

「…その通りよ。でも言っておきますけれど、最終的にヘイストンの当主を決めるのはあんたやわたしじゃなくてお父様よ?

でも、それにはの」


「条件?何だい?それは…」


姉さまは僕を真っ直ぐに正面から見上げて言った。

「それはね、『シャルルをさせる』って事よ」


姉さまの言葉を聞いて僕は思わず笑ってしまった。

彼女はやはり賢い。


「ふふ…僕が本気じゃないと…、手を抜いていると何時分かったの?

今回の『出来ない振り』は、僕も流石に飽きちゃったからやっていないよ」


姉さまは『そうでしょうね』と頷いた。


「…前々から少し変だなとは思っていたの。でもがハッキリと分かったのは学園に入ってから。明らかにわたしよりもしっかりと勉強が分かっているのに、テストの点数になると途端にわたしと同じかそれよりも低くなる」


姉さまは少し声のトーンを落としてから僕を見上げた。


「でもそれが分かった時、ほんの少し寂しかった…『シャルルはわたしを対等な相手として見ていない。結局わたしの事を適当にあしらっている』って思ったわ」


「姉さま…それは違う。僕は…」

姉さまの言葉にぼくは慌てて否定したが、姉さまはまた俯いて言葉を続けた。


「本気のシャルルに…正当な男である後継者シャルル=ヘイストンに勝てなければ、わたしはあんたを差し置いて、ヘイストンの女侯爵にはなれない。

だからシャルルを煽って…本気にさせる必要はあったの」


姉さまは微笑むと、僕を見上げて言った。


「…返って良かったのかもしれない。

少なくとも…今回はシャルルを本気にする事が出来た。

今回の勝負でシャルルには負けたけれど、わたしにとって…これは『勝ち』の一つよ。

やっとシャルルが、わたしと同じ土俵に降りて来てくれたんだから」


 ++++++


(…何てことだ)

僕は少し呆然としていた。


みすみす姉さまの策略に乗って…僕はいつの間にか本気を出してしまっていたのである。


姉さまはやけに晴れ晴れとした表情で、僕を見上げている。

『何だよ、その顔は。僕が望んでいた展開とは違うじゃないか』


僕はこんなスッキリとした姉さまの表情を望んでいたわけじゃない。


(もっと姉さまを地べたにひれ伏させたかったのに。

 僕に敵わないと泣いて――僕に屈させたかったのに)


『それでこそ――僕は勝利を実感できるのに』


僕の中で真っ黒いモヤの様な――どうしようもなく攻撃的な感情が湧き出てくるのを抑えられない。

「…そんな事を云っても、今回姉さまが僕に負けたのは変わりはしないんだよ?」


姉さまの晴れやかな笑顔に激しく反発を覚えた僕は、まるで子供の様な口調で姉さまに反論していた。


「分かっているの?…姉さまは今回――僕に負けたんだ」


姉さまは僕の言葉に頷き見上げて――なんと不敵に笑った。


「…そうね、今回の負けは認めるわ。でも…わたしは切り替えが早いの。

今負けても、まだ当主争いの勝負を挽回出来る機会がきっと来るわ。

最終的にわたしが勝てればいい。


シャルル…わたしみたいなのがあんたみたいに強敵に勝負を挑む時はね。

あんたみたいにを考える。

どうしたら損を少なく実を取れるかを考えるの」


「あんたとはきっと戦い方が違うわね」


そう言った姉さまを見て、僕は今朝の食事の会話を思い出した。

『人間はね、霞を食べて生きているんじゃないのよ』


そうだった。


小さな頃から庭で泥だらけになって遊び、馬乗りになって喧嘩もする姉さまが、泥臭く戦うのは、元々彼女の十八番だったのだ。


「実際今回のダンスの試験は元々不安要素が大きかった。

後半のイーサンとのダンスの相性が悪くて、正直言うと全体的な出来栄えはあまり良くなかったの。

どちらにしろエリーとの対決は危うかったから、返ってわ。

あんたとの勝負はまだチャンスがあるだろうけれど、エリーとはだから絶対に負けられないじゃない?」


つまり姉さまは『僕との勝負は捨てる』と『フィリプス家との勝負を選んだ』――と言いたいのか。


何と云うか…僕は姉さまの言葉にすっかり毒気を抜かれてしまった。


確かに姉さまの言う通り、僕と姉さまの『ヘイストン家の絶対勝利』を目指す目的は同じでも、その過程と拘りは違うのかもしれない。


 ++++++


ちょうどその時、ハイネ先生とアシスタントの声が聞こえた。


「…一番目と二番目の生徒の講評をする間に、三番目のアグネス=チャップマン、四番目のアリシア=ヘイストンは準備をしてください」


「呼ばれたわ…行きましょう、シャルル。準備をしなくちゃ」

「…嫌だよ、僕。姉さまが僕に何も訊かず勝手にパートナーに決めたじゃないか」

「…ええ!?だって…このままじゃフィリプス家に負けちゃうわ。だからシャルルが来たんじゃないの?」

「…そうだけれど…」


(フィリプス家に負けてはいけないとは分かっているけれど)

僕は自分が子供の様に…駄々っ子の様に姉さまに反抗をしているとは理解はしている。


これは僕の予想した流れでは無い。


なぜなら僕はもっと…。

僕の本心はもっと…のだ。


 +++++++


今になって思い返せば、この時の僕は大変子供っぽく、自分の勝負事しか考えていない本当に――愚か者だった。


この時も自分自身の勝敗と姉さまの諦め宣言(仕方が無い状況ではあったが)と初耳の当主争いの情報で頭が一杯になり、様々な情報を深く追求しなかった事を後に激しく後悔した。


その後の姉さまとの当主争いで僕が実感した実際の彼女は

『驚く程タフで、用意周到で、諦めが悪い』という事実だ。


そう…諦めの悪い姉さまが、何故僕との戦いを様な形で早々にリングから下りたのか。


それは次のからだった。


彼女エリー嬢に勝つ』為に――多分姉さまは、僕に決して意に添わない降参をしなければならなかったのである。

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