第34話 シャルルの事情 ⑪


(――嘘だろう?)

僕のが下着と制服のトラウザーを持ち上げる感覚を感じて、僕は一瞬パニックに陥った。


『一体、何故?』


『ここで?』

『この場面で?』

『僕のナニが反応するのだ――?』


そちらに気を取られたお陰で、床に散乱する羊皮紙だか新聞紙だかに足を滑らせた姉さまが、僕の方に倒れてくるのに反応するのが遅れてしまった。


「返して!シャルルッ、おねっ…きゃあっ!」

「うわっ!」

勢いがつき転がり込んできた姉さまが僕の方に倒れて来た。

彼女は僕をドンッと思い切り押しながら、二人共ベッドの上に倒れ込んでしまった。


「痛た…」

少し頭だけを持ち上げてみると、目の前と云うか僕の丁度身体の上で姉さまが小さく身体を震わせているのに気付いた。


僕は姉さまの身体にナニが当たらない様にさりげなく腰を横にずらせた。

が分かったら…)

姉さまに嫌われるどころか軽蔑されてしまうかもしれない。


僕は僕の胸の辺りで顔を伏せたまま動かない姉さまのサラサラの髪を、片手でよしよしと何回か撫でた。

「ごめんよ、姉さま。僕の悪ふざけが過ぎたね」


「……」

「大丈夫かい?思い切り転んだみたいだけれど」

「……」

姉さまは小さく首を振って動かないままだった。


けれど僕の着ていた制服のシャツの――姉さまが俯いている辺りが生暖かく濡れている感触があった。


「…姉さま?」

「…ん…シャルル…」


姉さまの声はハッキリと分かる泣き声だった。

なんと、姉さまは小さく肩を震わせて泣いていたのだ。


「…ごめんね…」

「何で姉さまの方が謝るのさ。そもそも僕が姉さまの…」

(小説を取り上げて、なんと言うか…恥をかかせてしまったのに)


僕は姉さまの頬を両手で包む様に挟み、その俯いた顔を少しだけ上に向かせた。


サラっとしたなめらかな感触の…長いストロベリ―ブロンドの髪が僕の顔に掛かって、いつもの姉さまの甘い匂いがする。


顔を少し上げた姉さまは、真っ赤な顔のまま涙をボロボロと僕に落としていた。


僕は驚くと同時に胸が痛くなった。

こんな泣き方をする姉さまを見たのは、母上の葬儀以来だ。


「…ごめん、シャルル…」

「姉さま…」

僕は少し身体を起し、小さく身体を震わせながら涙を落とし続ける姉さまの顔を見つめた。


「…泣かないで、姉さま」

(姉さまを慰めてさしあげたい)

僕等はあの日の小さな姉弟の様だった。


そして――僕は。

気が付くと小さく震える姉さまの身体を自分の腕の中に抱きしめていた。


 ++++++


姉さまの小さく呟く声が聞こえた。

「シャルル…」


「泣かないで…」

僕は姉さまの涙の溢れる瞼にそっとキスをした。


姉さまのピンク色の睫毛が小さく揺れている。

「…泣かないで姉さま」


そして…その涙の落ちる濡れた柔らかい頬にも唇を寄せた。

「姉さま…泣かないで」


唇を少し噛みながら泣き続ける姉さまの唇の端にも、そっと僕はキスを落とす。

「…そんな風に唇を噛んじゃダメだ。可愛い唇に痕が付いてしまう」


僕は囁きながら、姉さまのピンク色の唇を指で優しくなぞった。


涙に濡れたストロベリーブロンドの睫毛が、明るく淡いグレーの瞳が、揺れながら僕を何か言いたげに見つめている。

(姉さまは…美しい)


僕がそのまま姉さまの小さく開いた唇にキスをしようとした――その時。


「――ダメ。シャルル…」

姉さまの白い指がそっと僕の唇に置かれた。


 ++++++


唇に姉さまの指の感触を感じながら――僕はぴたりと身体の動きを止めた。


「ダメなの。シャルル…」

もう真っ赤で半泣きになってはいない、普段の姉さまに戻っている。


けれどまだ瞳を涙で揺らしながら僕を見つめていた。

僕は姉さまをじっと見下ろしながら訊いた。


「何故?…何故、ダメなの?」

「……」

姉さまはまた無言だった。


僕はそんな事はもう当たり前なのに――真っ暗な沼に転がり落ちる様な絶望的な気持ちになりながら、姉さまに小さな声で訊いた。


「――姉弟きょうだいだから?」

「…一般的には…そうだけど。でも、違うわ。わたしがダメと云う理由の本質はの」


姉さまはやたらきっぱりと大人びた言い方をした。

ずっと姉さまは自分自身で考えていたのかもしれない。


そして一度小さく鼻を啜ると、俯いたままいつもよりも低い声で姉さまははっきりと言った。


「…シャルル、あんたが思っている以上にわたしはこの勝負にいろんなモノを懸けて挑んでる。

わたしがヘイストン家の当主としてふさわしいか…それも含めて戦っているの。

だからお願い、手を出さないで。当主争いが関わる以上…これ以上あんたの手は借りられないの」


姉さまの話を聞いて、すうっと僕は自分の身体の血が引いて行く気がした。


同時にあの時のデヴィッド=ブレナーの言葉が脳裏に甦る。

『アリシア=ヘイストンは、ヘイストン家当主の座を争う直近の敵となる方ですよ?』


(姉さまは既に僕を当主の座を争うライバルと認識しているという事なのか?)

「――じゃあこの勝負は…僕の手を借りたらヘイストン家当主候補としては失格という事なんだね?」


僕が改める様に姉さまに尋ねると、姉さまは両手をぎゅっと握り合わせて僕を挑戦する様に見上げた。


「その通りよ、シャルル。あんたの手を借りたらわたしの負け。だから絶対にあんたの手は借りずに…ダニエラ=フィリプスに勝つわ」

 

 +++++


僕に分かるのは、彼女はもう僕の手を望んでいないという事だけだ。


「…分かった。僕からはこれ以上言う事は無い」

僕は姉さまのベッドから立ち上がると、また床の散乱物を避けながら部屋の扉まで歩いた。


「お休みなさい、シャルル」

「お休み、姉さま――勉強を頑張って」


細く開けた扉の隙間から姉さまは僕を見送った。

扉が閉まる前に、僕は姉さまの握り締めた手が小さく震えているのを見た。


――僕等は…似すぎていたのかもしれない。

プライドが高く、負けず嫌いで、ヘイストン家に誇りを持っている。


僕は今でもこの日の事を思い出しては、後悔をしている。


何故あの時、姉さまにもっと詳しく事情を訊かなかったのか。

一体彼女が何故あんなに懸命に戦っていたのか…知ろうとしていなかったのか。


知っていればもっと別の未来があったのかもしれない。

アリシア=ヘイストンを失わずにすんだのかもしれない。


いや――それも今となっては分からない。

もう既に過去になってしまった事なのだから。

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