飛行少女

黒月 郁

飛行少女

 私は空を飛べる。


 この鬱屈とした世界からいつでも飛び立てる。


 少しずつ大人になる内に、いつからか閉塞感を感じていた。世界は広くてどこまでも自由に見えていたのに。地上は人も物も過去も未来も何もかも行き詰まって、壁に頭をつけて歩いているようだった。


 ビルに反射した西日に目を細めた。大通り沿いのホーム、排気臭い景色はいつもの。宙を舞う塵、誰かの残り香、電車の風が乱暴に吹き上げていく。ドアから同じ顔が入れ替わる。無機質に繰り返す光景をしばらく見ていた。


 もう行かないと。


 改札を押し出されたのも束の間。人ごみ押し流される雑踏の中で、行き先もわからないまま息を止めてしまいたくなる。


「ー こっち ー」


 遠い彼方、空の声が聞こえた気がした。導く声に振り返ることもできず、濁流の中、私は小枝のようでそのまま人波に飲まれてゆく。


「ハナー! どこ行くのっ こっちー」


 空が私の腕を掴んだ。金色の艶やかな髪をたなびかせながら、私の手を引いたまま華麗に雑踏をすり抜けていく。いつのまにか交差点を渡っていた。


「もー大丈夫? ほんと人混み歩くの苦手よね。都会っ子とは思えないわ」


 空は少し呆れたように笑った。


「ほら、急ぐよ。映画始まっちゃう」


 再び颯爽と歩き出す彼女。見失わないようピッタリ背中について行く。


 彼女は浮島 空。なんと浮遊感と爽快感のある名前だろう。キリッと大きな目、端正な顔立ちは人形のようだ。見事に染まったその金髪は、美しい香りを背後に残していく。


「あれっ、ハナ?ついてきてる?」


 少し歩いた彼女が、見回して振り向く。彼女の金髪が私の鼻先を掠める。


「ちょっと笑。近すぎ、気配消しすぎ。まぁいいや、ちゃんとついてきてよ」


 背中に引っ付く私を豪快に笑い、再びグングン歩き出す彼女に歩幅を合わせる。


 私は草木 花。

こんなに地に足がついた名前もそうないだろう。私はどこでも目立たないタイプだ。道端の小さな花のように、人知れず一生を終えるだろう。


 空を追いかけて私はそのまま歩いた。


 映画は好きだ。映画館で観るのは尚良い。照明が落とされると体は霧散し、光るスクリーンに吸い込まれていく。


「映画久しぶりだね」


 まだ暗くなってもいないが空のポップコーンは半分くらいしかない。


「前観たのミュージカルのやつだっけ?」

「えー違うよ、なんかあのロボットのやつよ確か。花がつまんなそうにしてた笑」

「えーそうだっけ、覚えてない」

「だろうね、花途中から寝てたもん」


 空とは時々遊びに行ったり寄り道して帰る。大抵誘ってくれるのは空だ。


 映画を観た後はバーガー屋に行くことが多い。


「けっこう良かったねー、花おじさん撃たれたシーンで泣いてたでしょ笑」


 空がポテトをつまみながら言う。彼女の指は美しい。細いポテトが映える。


「あのおじさんいい人だから悲しかった」

「あんな序盤で泣いてるからびっくりしたわ。一番の泣きどころで泣いてないし笑」

「空も泣いてなかったじゃん」

「あたしは、そう簡単には泣かないからねっ」


 空はおどけて変な顔をした。鼻にポテトを突っ込んでやりたい。私はチーズバーガーを頬張って、ソーダで流し込んだ。

 

 映画はけっこう良かった。


* * *


 3階の教室、窓際の席から眼下の工事現場を見下ろす。正門の向かい、古いマンションが取り壊されている。建物は下層階の外壁が少し残るばかりで、もう工事も終盤だろうか。崩れた廃墟のような雰囲気が漂い、中々にいい景色だ。


 ふと蝶々が視界に入る。


 ここまで飛んでくるには随分小さな羽根をしている。淡色の羽根で健気に羽ばたき、窓越しに私の目の前で舞ってみせる。廃墟の様な景色を背に、彼女の羽ばたきが一層切なく写った。


 日差しに煌めく淡色の蝶は、少しずつ舞い上がり、遥か高く窓枠から消えていってしまった。


 風のいたずらなのか、小さな羽根でどこまで昇っていったのだろう。見上げた瞳に、薄ら雲越しの日差しが眩しい。



「く さ き はなー、聞こえてるかー」


 名前を呼ばれた。そういえば授業中だった。


「おー、工事現場見るのがそんな楽しいかぁ、草木ぃ。もうちょっと授業聞いてほしいなぁ。一生懸命やってるのに先生悲しいなぁ、おい」


「あっすみません、蝶々がっ」


 みんながふふふっと笑った。


 先生は呆れたように半分白眼を剥き、無精髭の口元を歪めた。チャイムが鳴る、授業が終わった。昼休みだ。


「あー、それじゃ次は新しいとこからだからなー。みんな予習してこいよー」


「おい草木」 

 少し遠くから先生に呼ばれる。

「お前今日進路面談だからな」



 忘れていた、ついハッとした顔をしてしまう。


「やっぱり忘れてたなぁ、授業中もボーっとしてるしなぁ、先生の話をちゃんと聞いてほしいなぁ」

「すみません…覚えてます」

「…まー いいや、よろしくなっ」


 そのままフラッと先生は立ち去る。よりにもよって授業で怒られた日に面談とはついてない。


「ハナーー、お昼食べよー」


 空が廊下から顔を覗かせた。


 空とは別のクラスだ。よくお昼を誘いにきてくれる。昼食場所は彼女の気まぐれで日替わり。空のお昼は菓子パンか惣菜パンが多い。


「あっ花、ウィンナー、タコさんじゃん。一個ちょーだいよ」


 返事を聞くまでもなくウィンナーをつまみ上げる空。


「んふふっ」 


 満足気な彼女の笑顔は憎めない。


「空もう進路の面談あった?」

「まだー、たしか来週。花は?」

「私今日の放課後みたい」

「さては忘れてて怒られたんでしょ」


 にやける空に見透かされる。


「そうなの、しかも授業中怒られたし、帰りたい」

「アハハッ、やらかしてるじゃん。大丈夫でしょ、まきぴー緩いし」


 担任の牧瀬先生は一部からまきぴーと呼ばれている。背が高く垂れ目で痩せて無精髭。くたびれた中年教師だ。無愛想でとっつきずらいが、ゆるい感じがけっこう人気だ。私は少し苦手なタイプだ。


 何を話そう。進路などまだ何も決まっていない。進学するほど勉強も好きじゃないけど、就職するほどやりたいことも得意なこともない。


「進路って何話せばいいのかな」


 不安気な表情の私を励ますように空が笑う。


「まぁ、まだうちら高2だしさ、”まだ分かんないです” でもいいんじゃない。相談のつもりで行きなよ」

「空はもう進路決まってるの?」

「まぁーなんとなくかなっ」

 空が少し変な顔をしながら言う。


 空は昔からけっこうしっかり者だ。自分から率先して色々やるタイプだし、勉強も運動も私よりずっと得意だ。大人に対しても物怖じしないけど、問題を起こす不良ってわけではない。同級生からも頼られるけどあんまり群れない。なんとなくと言いつつしっかり決まっているのだろう。かえって不安になりそうなので詳しくは聞かなかった。


 午後の授業はいつもより手につかなかった。なんとなく憂鬱な気持ちのまま時間だけが過ぎていった。


「はい、それじゃ特に連絡事項はないなー?放課後ここは面談で使うから早めに出てくれー。草木ぃー10分後に面談始めるから帰るなよー」


 クラスメイトがゾロゾロ帰っていく。

「花がんばれー、顔死んでるよー」

「うんー」


 誰も居なくなった教室に1人。部活も始まる前、運動部の声も楽器の音色も聞こえない。不思議な静けさに、孤独でもない安らぎを感じた。少し眠気すら感じ始めた頃に、荷物を持った先生が教室にくる。


「おー待たせたなー。それじゃ始めるから、ちょっと机動かすの手伝ってくれ」


 先生と向かいあって席に着くと、扉のところから見慣れた金髪が顔を覗かせる。


「おーやってんねー。まきぴーあんま花のこといじめないでよー笑」

 空がおどけて言う。


「お、なんだ浮島か。ふざけてないで早く帰れー」

「べぇー、花バイバーイ」


 先生に舌を出し、私にウィンクすると空は消えていった。


「お前浮島と仲良いんだな、去年も別のクラスじゃなかったか?」


「空とは小学校から一緒なんです」


「おーそうなのか、なんかおもしろいコンビだなぁ」

「まあそれじゃ、始めようかあ。どうだ、草木は進路何となく決まってるか?」

「…まだあんまりよく分かんなくて」


「そうかあ、まぁまだ分かんないってやつもけっこういるけどな、少しずつ考えてはいかないとな。進学はするっていう認識で大丈夫か?」


「…それもどうしようかなって」


「なーるほどなぁ、まあ最近は進学するやつの方が多いなあ。就職するやつもいるけどやりたいこと決まってないとなあ」


 少し困ったような顔をしながら私に投げかける。黙りこくりそうな私を見て、先生は荷物の段ボールから何か取り出した。


 オセロの盤だ。怪訝そうな私の顔を見て先生が笑う。


「そんな変な顔すんなよ。俺、将棋部の顧問だから色々持ってんだよ。チェスもあるぞ?」

「オセロでもやりながら肩の力抜いて話そうや」


 突然オセロ外交が始まりあっけにとられていると、先生は淡々と準備を進める。


「じゃ俺黒な」


そういうと先生は先手を打つ。


「ほれ、草木は白だ」

私は黒がよかった、不思議な時間が始まる。


* * *


 パチッ パチパチ

 オセロの石が心地よい音を鳴らす。


「まー将来の事決めるってのは難しいことだよな」

「とりあえず進学って言わないあたり、他の人より考えてるのかもな草木は」


「そうなんですかね」


 パチッ パチパチ


「学校の勉強は嫌いか?」


 パチッ パチパチッ


「あんまり楽しくないです」


「そうかぁ、まあ勉強が全てでは無いからなぁ。なんか趣味とかあるのか」


「本とか映画とか音楽とかですかね」


 パチッ パチッパチッパチッ


「どっちかっていうと芸術系なのかもな。よっぽど好きならそっちの専門分野で進学するのもありかもな」


 パチッ パチッ


「作る方向で進んでもいいし、その業界でなんか仕事見つけてもいいしな、もちろん簡単ではないと思うが」


「そうですよね」


 パチッ パチパチパチッ


「今すぐ将来の事決めなきゃって訳でもないし、決めてもそうなれるかは分からんけどさ」


 パチッ、角を取られた。


「はい」


「やっぱ若いうちの方が選択肢が豊富だし可能性も圧倒的にあるのよ」


 パチッ パチパチッ


「なるほど」


 パチッ パチッ 


「そうそう、だからまあ今のうちから考えるに越した事はないってことよ」


 パチッ パチッ


「あっ、ちょっと待った」

「え、待った無しです」

「カーッ、厳しいねぇ」


 パチッ パチパチパチパチパチパチッ


「まあとはいえまだ、17だしな、頑張りゃそこそこ何にでもなれるよ」


「そうですかね」


「草木はちっちゃい頃、将来の夢とか無かったんか」


 パチッ パチッ


「…宇宙飛行士になりたいって言ってました」


 パチッ パチッ


「おっ、そりゃ勉強頑張らないとな、まだ思ってるなら」


「はい」


 白黒つかない返事をする私に、先生は他にも色々話をしてくれた。


 オセロと和やかな時間が過ぎていった。


「おーし、そろそろ時間だな。まっ、ゆっくり考える時間を作るといいよ。友達とか親御さんにも相談してな。今日のが何かいいきっかけになれば最高」


「ありがとうございました」


「おう、ありがとー。気をつけて帰れよー」


 先生は思っていたよりいい人だった。


 オセロは私が勝った。


* * *


 帰りの電車、車窓から夕日が沈みきっていく。街のシルエットをなぞる私をレールが揺さぶる。1番低い手すりで体を支えながら、最寄駅に着くのを待っていた。


 家に近づく頃には街灯が辺りを照らしていた。ご近所からカレーの匂いがする。うちもカレーだったらと少し期待をしながらドアを開ける。


「ただいまー」


「あら、おかえりー」

リビングから母の声がする。


「遅かったわね、空ちゃんと遊んできたの?」


「いや違うー、先生とオセロしてた」

「へぇ先生と仲良いのね」


 部屋に荷物を置き制服を脱ぐ。なんかすごくお腹が減った。


「今日、大地は?」

「今日から修学旅行よ、昨日話したじゃない」


 そういえばそうだった。父は出張なので数日は母と2人というわけだ。


 大地は弟だ、草木 大地。大自然の力強さを感じる。父は幹生、母は梢。おそらく結ばれる運命だったのだろう。


「今日晩御飯なあに」

「今日は麻婆豆腐よ、もう食べる?」


「食べる、お腹減った」

「あら珍しいわね。あ、お弁当箱出しておいてね」


 母と2人の食卓は久しぶりだ。

「そういえば面談があるってプリントに書いてあったけど、花はいつなの?」


「あっ、もう今日終わった」


「あら、進路の話か何かあったの?」


「そう、牧瀬先生と面談した」


「面談してオセロしたの?」


「んー、オセロしながら面談した」


「…変な先生ね」


「そうなの、でもいい人だよ」


 母の作る麻婆豆腐は美味しい。カレーの次に。


「先生はなんて?」


「まだ全然分からないって言ったら、ゆっくり考える時間を作るといいって」


「そうねぇ。お父さんもあんまり言わないけど、心配してるからね、ちゃんと考えるのよ」


「わかってるよ」


「…花は宇宙飛行士になるのかと思ってたわ」


「いつの話よ」


「だって花、宇宙好きだったじゃない」


「行ってみたいとは思うけどね」


「お母さんいつか花ちゃんに宇宙旅行につれ行ってもらえると思ってたのに」


「…お母さん、宇宙飛行士をなんだと思ってるの」


 親子2人きりの穏やかな夕食。今日はご飯をおかわりしようかと考えていると、母が思い出したように言った。


「花、最近飛ばなくなったわよね」


 なんだか意表を突かれた。


「…そうかもね」 


「何かあった?」


「いや別に、なんとなく」


「そう、ならいいんだけど」


「大丈夫、元気だから」



 母は大抵なんでも感づく。


 結局ご飯はお代わりした。


* * *


 ある日の昼休み、また空が顔を出した。なんだかいつもと様子が違い、少し興奮しているようだった。


「花っ!弁当持ってこいっ!行くぞ!」

 いつもより小声で強引だ。言われるがままについていくと、空は屋上へつながる階段を登っていった。


 階段を登り切ると彼女はポケットから鍵を出した


「ジャーン! これなーんだ!」


「えー屋上の鍵?どっから持ってきたのー、職員室?怒られるよー」


 彼女はケタケタ笑って言う。

「当たりー。でもそんなとこから持ってきたやつじゃないから大丈夫!バレやしないって!」

 完全に悪人モードの空は鍵をあけ扉を開けた。


 瞬間、開放的な風が2人を吹き抜ける。


 屋上だ、空が広くて近い。


「ドア閉めて! 風でバレる!」

 私が急ぎながらも静かに扉を閉めると空が鍵をかけた。

「これでダイジョーブ!」

 こんなヤンチャな顔は久しぶりに見た。


「やーやっぱ眺めいいなぁー、やっぱ屋上だよなぁ」

 私も屋上からの景色に心奪われていた。


「貸切だ!真ん中でお昼食べよう!」

 はしゃぐ空は焼きそばパンにミルクティー、小さなクーラーバックを持っている。いつもより荷物が多い。


 貸切の屋上で食べるお昼は格別だった。

2人ともいつもより小声だが興奮気味にお喋りを続けた。私がお弁当を食べ終わると空がクーラーバックからアイスを取り出した。


「ジャーン!デザートでーす!一緒に食べよー」

「えーまじで、ありがとー。最高だね」

「へっへー空ちゃんの奢りですよぉ」


 いつもより変な顔をした、準備万端な空が愛おしい。こんなにアイスにがっついたのは小学生ぶりだろう。


 ひとしきりはしゃいだ私たちは、制服が汚れるのも気にせず寝そべり、黙って流れる雲を見ていた。


 チャイムが鳴ったが2人とも何も言わなかった。

 

 しばらくすると空が言った。

「今日は雲が早いな」


「そうだね」


「空はさ」


「うん」


「なんで私と一緒にいてくれるの」


「え、なんで、分かんない。… 仲良しじゃんあたしら」


「ごめん変なこと聞いた」


 雲が通り過ぎて目一杯の青が広がった


「花さ」


「うん」


「最近飛ばなくなったよな」


「そうね」


「天気は関係ないの」


「うーん、天気はいい方がいいけど、別にそれが全てではないかも」


「そうなんだ」


 どれほどの時間だろう、たわいもない話で笑いあった。声は風に溶けて青色に変わっていった。


「この鍵、花にあげとく」


「えっでも」


「大丈夫、校内でパクったやつじゃないから探されたりしない」

 それだけ言うと空は私に鍵を握らせた。私もそれ以上は聞かなかった。


「失くすなよっ」


 空が微笑んだ。屋上の風に煽られて、このまま彼女と何処かへ飛び去りたかった。


* * *


 なんだか気分の乗らない朝だった。嫌な夢を見たような気がする。今日は学校には行けない。

 

 空いていたから逆方向の電車に乗った。見慣れない景色、そういえばこっちの方に電車で来たことがほとんどない。いつの間にか終点のようだった。


 知らない駅。アナウンスに急かされて降りると、向かいのホームに電車が来ている。そのまま何も考えず乗り込んだ。


 しばらくの後、知らない電車は走り出した。古い車両だが、座席は妙にフカフカしている。ほとんど乗客はいない。どこへ向かうのか、知らない景色が流れていく。


 心地よい揺れにいつの間にか眠りこけていた。だいぶ時間が経ったのだろう。緑が生い茂った知らない景色。次の駅で降りた。


 ひと気の無い山間の駅だった。


 リュックを抱え、ホームのくすんだ赤いベンチに腰掛けた。目の前の山を見上げる。青く茂って圧迫感さえ感じる。鳥の声、木々が揺れる。こんな自然の中に来たのはいつぶりだろう。


 深呼吸をする。山の匂いも音も風もぜんぶ吸い込んで、私は景色の一部になった。頭がすっとしたような気がすると急にお腹が減った。少し早いお昼ご飯を食べることにした。


 のんびりお弁当を食べすすめていると、ホームの端から猫がこっちに歩いてくる。白黒模様、少しくたびれているが野良猫にしては綺麗な方だ。私から席を一つ空けてベンチに飛び乗る。


 しばらく無言の時間が続いた。


 ここの住人なのだろうか、ヨソ者の私は挨拶がわりに話しかけた。


「…お弁当食べますか」


 彼はチラッと私の顔を見る。いらない、あくびをしながら答えた。


 お弁当を食べながら、私は彼に話しかけ続けた。ぶっきらぼうな返事が多いが嫌な気はしていないようだった。食べ終わる頃にはそこそこ仲良くなれた気がした。


 名乗らないのでオセロと呼ぶことにした。


 彼はもう長いこと、この駅に住んでいるらしい。時々来るお婆さんがご飯をくれるそうだ。


「オセロは電車でどこか行ったりするの」


 行かない。ここが気に入っている。彼はそう答えた。


「そうなんだ」


 私は改めて辺りを見渡した。確かにのどかでいいところだ。昼頃でも風が涼しく、時々電車が通ればそんなに寂しさも感じない。


「私もここに住んでいいかな」


 勝手にすればいい。私の軽口は冷たくあしらわれた。もう少し優しくして欲しかった。


 パタパタと小鳥が2羽、足元に降り立った。私の食べこぼしを取り合いながら忙しなく飛び立っていく。


「ねえ、オセロ」

 彼は耳だけこっちに向けた。

「今日学校サボっちゃったんだ」


 学校が嫌いなのか。彼は尋ねた。


 私は答えに困った。別に学校は嫌いではない。ただなんとなく毎日通っていた。


「分かんない」


 そう答えた私に彼から返事はなかった。私はしばらく考え込んだ。なんでこんなに息が詰まるような感覚を、日々感じているのだろう。家族もいて、学校にも通えて、少ないながらも友達もいる。先生の言うように将来の選択肢だってある程度豊富だ。


 ただ、そうじゃない。


 それが問題じゃない。自分の中ではそうだった。


「ねぇ、オセロ、なんでこんなに苦しいんだろう」


 束の間の沈黙の後、彼は答えた。


 分からないな、私は猫だから。考えて悩めばいい。人間はそれが得意だろう。答えなんて出ないんだろうが。


 彼は目を細めてそう続けた。


 私は死ぬまでこの駅にいるよ。


 そう言い残すとオセロはベンチから降り、ゆっくり茂みの中に消えていった。


 取り残された私は山間の駅の静けさの中、1人物思いに耽っていた。答えは出ないんだろうが、オセロの言葉が耳に残っていた。


 足元を見ると私の食べこぼしに蟻が列を成していた。次の電車で帰ろう、そう思いながら昼下がり、ひと気のない駅の景色と足元の行列をただ眺めて過ごした。


 またいつかここに来る事はあるだろうか。


 線路沿いを吹き抜ける風に顔を逸らすと、帰りの電車が遠くに顔を出したところだった。


* * *


 ある日の昼休み、そういえば最近空に合ってないなと急に寂しくなり、珍しく彼女のクラスを訪ねた。


 金髪が見当たらないので、顔見知りに声をかけると、2〜3日来ていないと言う。元々サボり癖のある人間だが、不意に心配になり電話してみる。出ない、留守電だ。メールも入れておいた。


 気晴らしに屋上へ向かった。今日はどんよりとした曇り、あまり風も吹いてない。なんだか食欲も湧かなくてお弁当も食べずに寝そべった。


 雲が厚い。空に会いたい。気分は晴れなかった。


 次の日もその次の日も、彼女は学校に来ていなかった。連絡もつかない。訳を知る者がいなかったので、放課後、担任に聞きに行ってみた。


「そういう個人的なことは教えられない」


 という答えだった。あのクラスの担任は堅物で嫌いだ。きっと何か訳アリだ。なんだか胸騒ぎがした。


 家を訪ねてみようか。そう考えたが、彼女は去年引っ越しをしていた。今の住所を知らない。自分の無関心さが嫌になる。


 気分の晴れないまま、私は今日も屋上で寝そべっていた。相変わらず重たい雲が一面に広がっている。


 ポツリ ポツリと雨が降り始める。動けなかった。どしゃぶりの雨にかき消されながら、私は初めての孤独を感じた。


 空が私の前から消えた。


* * *


 何の音沙汰も無いまま、雨も上がった週明け。空は学校へ来た。


 私は朝一で彼女のところへ行った。


「ごめん、ごめん、久しぶり!お昼にゆっくり話そ!」


 そういうと彼女は教室を去り、何処かへ行ってしまった。


 昼休みになると金髪が顔を出した。私たちはそのまま屋上へ行った。


「もー連絡、返事してよ!ずっと来てないっていうから心配したのに!」

「ごめんごめん、色々あってさ」


 訳を聞いてもそればかりではぐらかされた。こういう時私は無理矢理聞きたくない。彼女もそれを知っている。


 ただ久しぶりに会えたのがとても嬉しかった。私たちはずっとおしゃべりをやめなかった。


 午後は2人揃って全部サボった。


 それ以来、彼女は毎日昼に顔を出した。毎日彼女と屋上で過ごし、放課後も毎日のように遊んだ。彼女が学校をサボることもなくなった。嘘みたいに楽しかったが、なんだかずっと怖かった。


 気づけば夏休み前、最後の登校日。


 明日から学校休みかぁ、屋上も行けないのかなぁと漠然と思っていた。帰り支度をしていると、空が廊下から顔を出した。


「ハナー、行こー」


 今日の空はなんだかいつもより眩しく見えた。


 いつものように屋上で昼ごはんを食べ、たわいもない話で笑いあっていた。


「夏休みになったら屋上これないねー」

 私はなんとはなしに言った。


 空は何か言おうとして黙り込んだ


 沈黙が続いた。


 自然と涙が溢れそうになる。


 長い雲が太陽の前を通り過ぎ、日が翳った時、空が口を開いた。


「あたし学校やめるんだ」


「そんでちょっと遠くにいくから花にもう会えない」


 空も泣いていた。


「なんでよ」


「色々あってさ」


「色々って何よ」

 空が言わないならそれ以上は聞かなかった。


 ひとしきり泣いた私たちは涙でぐしゃぐしゃのまま寝そべった。


「今日が最後なの?」


 もうあんまり声も出なかった。


 空は黙っていた。


「またいつか会えるの?」


 しばらくして空が言った。


「ごめんもう会えないかもしれない」


 目の前がうるんで海みたいだった。


 空もそうだったかもしれない。


「なんで急にいなくなっちゃうの」


「ごめんね、花」


「あたし、花のこと忘れない」

「花もあたしのこと忘れないでくれる?」


「忘れる訳ないじゃん、ばか」


「ごめん、ばかみたいだった」

 空は泣きながら笑った。


「今までありがとう、また会いたい」

「あたしもだよ、今までありがとう」


 空と私は枯れるまで泣いた。


 はっきり覚えてるのはそこまでだった。私は泣き疲れて寝ていたようで、気がつくと日がほとんど沈んでいた。


 空はもういなかった。ちゃんとお別れの言葉が言えたかも分からない。オレンジの残り日がぼやけて見えた。


 私は屋上の鍵を閉め校舎を後にした。


 家に帰る気分じゃなかった。


 空から貰った鍵を握りしめていた。


 締め上げられた胸の奥からジワジワと溶けていくようで、喉の奥が乾いて熱くなった。苦しさを誤魔化したくて、行くあてもなく歩き続けた。


 辺りはすっかり暗くなって、街明かりに自然と涙が流れる。


 私はいつのまにか雑踏の中に立ちすくんでいた。


 もう空の声は聞こえない。


 人ごみに飲まれても、私の手を引いてくれる人はもういない。


 重たくなった身体に息が詰まる。


 涙でぼやける目を閉じ、うずくまって耳を塞いだ。


 この鬱屈とした世界の底で、私はあまりに無力だった。 


 暗く暗く沈んでいく意識のその奥で、私は大切なことを思い出した。


 もう一度立ち上がって夜空を見上げる。


 滲んだ光に目を閉じて、深く息をすると、体が胸の奥から宇宙に吸い上げられていくのを感じた。


 重力は霧散して、私の枷になるものは何もない。


 私はもう一度深く息を吸い、大気に身を任せる。


 フワリと浮かんだ私の体は、街明かりと絡み合うように高く高く舞い上がっていった。


 私は空を飛べる。


 涙でくすんだ私は淡色の蝶のようだった。


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