夢物語に栞は挟めない
僕らはいつでも、『まとも』になりたかった。
いつも通りの休憩時間。教室のあちこちからざわざわと煩さが漣のように押し寄せてくる。そんな中で机から一冊の文庫本を取り出した。
中学の修学旅行で自分用のお土産に買った栞を挟んだ箇所を開く。銀色に縁取られ、透明な紅葉を切り取ったような栞はお気に入りだった。栞を筆箱の中へ入れ、開いたページに視線を落とす。教室の音が膜を一枚隔てたみたいに遠ざかった。
本の内容は、なんてことない冒険譚だ。とある町に住む少年が、小さなきっかけで旅に出て仲間を得ていく話は、高校生が読むには少し幼稚かもしれない。異世界ファンタジーとでもいえばいいのか、本来ならば存在しないような種族も多く棲む本の中は、夢の中に似ていた。
この本はシリーズ物で、最終巻が発売されたのは私が小学生の頃だ。図書館に通って何度も読み、誕生日に親へ強請って買ってもらった本は、すっかりと色褪せている。何度も読み返しているから、気を付けないとお気に入りのページに飛んでしまうこともあった。
本の中には、なんでもあった。主人公の少年は、自分では解決出来ない問題のために旅へ出る決意をした。途中で出会う仲間達は、すぐに仲良くなるものもいれば、最初は敵であったものもいる。道中、無実の罪で責められることもあれば、小さなことで大袈裟なまでに感謝されることもあった。主人公のしたことは、一見無駄に思えても、巡り巡ってどこかで彼の糧になっていた。
膜の向こうから予鈴の音がする。筆箱から栞を抜いて、本に差し込んだ。ぱたん、と本を閉じて机の中に仕舞うと、急速に音が戻ってくる。
予鈴が鳴ろうと、ざわつきが止むわけではない。騒ぐものは騒ぐし、大人しいものは大人しい。そんなことは、小中高とずっと、変わらなかった。
膜を取っ払った世界に、ふと、誰かの声が入ってくる。
「もう進路決めた?」
反射的に片手を机の中へと押し込んだ。指先に当たる紙の感触がいくつもあったが、その中から先程まで読んでいた本を探し当てる。表紙をゆっくりと撫で、ちいさく、ちいさく、呼吸を繰り返した。
小学生から中学生になって。
中学生から高校生になって。
高校生から大学生になって。
大学生から社会人になって。
どこかで誰かと恋愛をして。
結婚をして、子供を産んで。
疑うことすらしなかった『当たり前』だった。誰かに提示されたわけでもないのに、脳内にずっと存在する『まとも』な生き方だ。
レールが敷かれているのだと、思い込みたかったのかもしれない。別段、努力をしてなかったというわけではない。やるべきことはちゃんとやっていたし、教師から見ても真面目寄りな生徒ではあったはずだ。
それでも、ガタンッ、と。
想像するより簡単に、未来は脱線してしまうのだ。
「──まともになりたいなぁ」
寝起き一発目で口に出すような言葉ではないことを、自分が一番よく理解している。けれど、どうしようもなく、渇望してしまうのだ。どうすればいいかも分からないのに。
短編 胡桃 @asagi_666
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