短編

胡桃

名無しの激情

 腹の奥で煮え立って沸き上がる感情を怒りと呼ぶのならば、心臓を切り裂いて締め付け凍えさせるこの感情をなんと呼べばいいのだろう。



 壁に背をくっつけて、膝を抱える。回した腕に爪を立てて、耳鳴りを伴う感情を押し込め続けた。心臓はばくばくと音を立て、噛み締めた唇の隙間からは嗚咽が零れて止まらない。流れ続ける涙を拭う余裕すらなかった。

「っ、は……う、……」

 やり過ごせ。

 やり過ごせ。

 自己暗示を繰り返す。脳内で何度も何度も唱え続けた。その度に心臓が嫌な音を立てて軋み、頭はずきずきと痛む。それでも、荒れ狂う感情を制御するには、ただ、自分を騙すしかないのだ。

「、……」

 痛い、痛い、と訴える心を押し潰す。物理的には出来ないと理解しているのに、手は勝手に胸元を握り締めていた。力が込められたせいで服に深い皺が刻まれていく。

 どうしようもなく、寒かった。

 どうしようもなく、苦しかった。

「どう、して……」

 零れた声を拾うものなど、一人も居はしない。拾って欲しいわけではない。なのに、なんの応えも返ってこないことが、心臓の痛みを増幅させた。

 はくり、と喉が動く。頬を伝う雫は熱いのに、体中が冷えていた。


 心臓が脈打つ度に、どろりと血が溢れ出す。傷口は塞がることを知らず、広がり続けていた。ぱくりと開いたそれは収縮を繰り返しては叫びを上げる。

 痛い、痛い。

 苦しい、苦しい。

 誰にも届かない叫びはいっそ、滑稽だ。心に出来た傷など視認出来るわけもなく、確かめてはもらえないのだから。出来ることは自己暗示を繰り返してやり過すだけ。子供騙しの、無意味な努力だと本当は理解していた。けれど、やめるわけにはいかなかった。

 指先が凍えたように冷たくなって、噛み締めた唇の間から震える息が落ちていく。心が寒いから、体も寒いのだ。部屋の室温を上げようが、服を着込もうが、その寒さが消え去ることはない。寒さを訴える箇所を暖める術はどこにもなかった。

 いや、そうではない。寒さをずっと、暖め続けて来たのだ。その術が手のひらから零れ落ちてしまったから、もう暖められないだけだった。

 涙が流れれば流れるほど、体温を持っていかれるような錯覚に陥った。体の中で、熱を宿す部分は涙だけだからだ。その涙は瞳を濡らし、眦を汚して、頬を伝い落ちていく。自分の体内から外へと、放出され続けていく。

 熱が、逃げていく。

 体中が、凍えていく。

 こうなってしまえば、もう、残された手段は一つしかなかった。

 だから、いつかそれが効力を失うまで、馬鹿の一つ覚えみたいに唱え続けるのだ。

 大丈夫、と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る