その4 脳内シャッフル告白睡眠法

 新しい朝が来た。徹夜明け、絶望の朝だ。缶コーヒーの苦味だけが、雲散霧消うんさんむしょうしそうな意識をかろうじて現世に繋ぎ止めている。


「ハローございます! 先輩っ!」


 不意に背中を叩かれて、思わず流し込んだカフェインを吹き出しそうになった。まあ、登校中に歩きながら飲んでいた俺も悪いのだが。


「何だ、丸瀬か」

「何だとは何ですか、もう! せっかく可愛い後輩が挨拶してあげたというのにー」

「はいはい、朝から賑やかで結構。……ったく、何人なにじんだよお前は」

「え、どこからどう見ても日本人ですが……」

「知ってるわ、アホ」

「急な罵倒! 酷い!」


 騒がしく頭を抱える後輩の手が、ふと視界の隅に映る。そういえば昨日、油で火傷やけどしていたっけか。


「なあ、ちょっと手、貸して」

「え、いいですけど。何、に……」


 引き寄せたてのひらは、思った以上に小さくて柔らかい。指先もほんのり温かいだけで、特に問題はなさそうだ。


「わ、ちょっ、せ、先輩!? 手を貸すって……物理的に!?」

「あー、ごめん。昨日火傷してただろ? 少し気になっただけだから」


 ホッとして手を離すが、後輩は自分の手を見つめたまま微動だにしない。そんなに手を触られたのが嫌だったのか……?


「わ、悪かったって。もう、しないし……」

「……うぁ」

「おーい、大丈夫か?」

「おぉ……お、お」

「お?」

「お構いなくうううーっ!」


 朝の澄み切った空気を割いて、後輩はあっという間に校門まで駆け抜けていく。何だか周囲の視線がやけに痛い。


「はぁ……調子狂うなぁ、全く」


 心臓がかすかにうなるのは、いまだ胃でくすぶるカフェインのせいか。空き缶を近くのゴミ箱にそっと押し入れて、俺は欠伸あくびを噛み殺した。


 放課後、いつものように部室の扉をくぐると、既に部屋の明かりがついていた。どうやら先客がいたらしい。

 開きっぱなしのディスプレイに繋がれたちぢれ麺のようなイヤホンが、先程までそこにいたであろう後輩の存在を主張する。


からまりくらい使う前にきちんとほどけよな、もう……一応、高級品なんだから」


 見た目より頑固な結び目に悪戦苦闘していると、画面の中、一つの音声ファイルが目についた。


「没、音声……?」


 その作成日は、ちょうど俺が後輩と連絡先を交換したあの日付。つまり、俺に送るつもりで録音した、一番最初のASMRということだろうか。


「……まずい。このままじゃ気になって夜も眠れないぞ」


 元々眠れていないというツッコミは置いておくとして……頭ではダメだとわかっていても、手は正直にマウスへと伸びる。

 まだ見ぬ没ASMR。すなわち、後輩がボツとしたASMR。それは、今まで俺が経験してきた後輩のASMRを上回るポテンシャルを秘めた、まさにパンドラの箱とも呼べる代物なのだ。


「少しだけ……1分だけだ。許せっ、後輩!」


 すぐさまカーソルを合わせ、解いたばかりのイヤホンを両耳の穴にぶち込む。

 俺は、パンドラの誘惑に負けた。




『右、左……うん、いい感じ』


 心なしか、少し上擦うわずった後輩の声。緊張しているのだろうか。そのマイクチェックからは、どこか初々しさのようなものを感じる。


『えーと、突然ですが……先輩は脳内シャッフル睡眠法ってご存知ですか?』


 脳内、シャッフル……? 俺の頭にふと、ヘッドバンキングする後輩の姿が浮かぶ。


『コホン。では簡単に説明しますね。これから私がゆっくり、ランダムに単語をささやきます。先輩はただ目を閉じて、言われたものを頭の中でイメージしてください。そうすると……あら不思議。気がついた時には夢の中、というわけです』


 なるほど……仕組みはよくわからないが、一つだけわかったことがある。俺の馬鹿みたいな想像は、どうやら間違いだったらしい。


『あくまでリラックスして、授業中に寝落ちするみたいな感じで聞き流してくださいね。それじゃあ早速、始めます……』


 ゆっくりと、目を閉じる。右耳にそよぐ息遣いを感じる。


『りんご……』


 赤い果実が、暗闇に浮かび上がる。


『ゴリラ……』


 左耳にかかる甘い吐息。黒い動物が脳内でドラミングを始める。


『ラッパ……』


 典型的なしりとりすぎて、もはやランダムではないような気もするが……今までのものに比べれば、かなりちゃんとしたASMRだ。

 どうしてこれがボツなのか。そんなことを思う間にも、言葉はさらさらと流れ続け、骨のずいまで心地よい感覚に包まれていく。


『パラシュート……』


 最近の疲労も相まって、既に限界だったのかもしれない。俺の記憶は、そこでプッツリと途絶えた。




「……先輩、気持ちよさそうに寝てるなぁ」


 遠くの方で、透き通った声がする。


「ごめんなさい、変なものばっかり送りつけて……。最初は本当に先輩を寝かせるつもりだったし、連絡先だけで満足するつもりだったんですよ? でも、もし実験が成功しちゃったら、それっきり……先輩と話すきっかけがなくなりそうで、怖くて」


 意識がゆるやかに浮上していく。俺は……寝ていた、のか?


「それに、先輩に聞かれてると思うと恥ずかしくて……。ダメですね、照れ隠しでふざけすぎちゃうのが自分の悪いクセだって……わかっていたつもり、なんですけど」


 ああ、そうか。そういえば、後輩のASMRを聞いて寝落ちしたんだっけ。どれくらい眠ってしまったのかはわからないが、随分と長めの音声だったみたいだ。


「でも……聞かれちゃったなら、しょうがないですよね。わざと変なの送ってたなんて、嫌われて当然だもん」


 さわさわと、髪をくような音が頭に響く。その手は、ひたいから耳を伝って、ほおを優しく撫で付ける。


「わかってる、わかってるんです。それでもやっぱり、諦めたくない……。私……わた、し」


 柔らかな感触。温かい。温かくて安心する香り。……香り? ちょっと待て、何の感触だコレ。


「ずっと、先輩が、好きだか、ら……あ」


 ……目と目が合う瞬間とは、こんなにも気恥ずかしいものなのだろうか。

 耳の奥深くまで差し込んだはずのイヤホンは、とうの昔に抜けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る