その3 教育的オイルマッサージ(withキャンドル)

「ふぁ……あー、眠い。いつにも増して眠すぎる」


 ここ最近、寝不足による眠気がより悪化している気がする。まさか後輩のお節介がむしろ逆効果になっているとは、当の後輩本人は1ミリも思っていないことだろう。


「……まあ、だからって別に? 断るほどでもない、けど」


 何故だろう。決して癒される訳でも寝落ちできる訳でもないのに、妙に中毒性があって、気がつけば次の動画をひそかに心待ちにしている。

 不眠を改善したいと願う一方で、そんな風に思う自分がいることもまた、確かだった。


「おはござまーす! 先輩!」


 ガラガラと勢いよく扉を開けて、今日も部室のムードメイカーがやってくる。相変わらずの元気っぷりに、俺の眠気も吹き飛んでしまいそうだ。


「今は放課後だし、挨拶を微妙に端折はしょるな。三文字削ったところで長さは変わらない……無駄な抵抗はやめろ」

「ええー? じゃあ、こんちゃーす」

「野球部だったら、今のでグラウンド10周は確定してるぞ。よかったな、俺が優しい先輩で」


 呆れる俺とは正反対に「本当ですね!」と満面の笑みを見せて、後輩は隣の席に勢いよく座り込む。舞い上がった短いスカートからのぞももの白さに、俺は慌てて目を逸らした。


「そういえば、どうでした? 昨日の動画。結構自信作なんですが」

「……絵面えづらはともかく、音だけはよかったよ。は」

「ふむふむ、なるほど。画面に映る私が可愛すぎて眠れない、と」

「どう訳したらそうなるんだ! というか、あんなことしてマイクの方は大丈夫なのか? 下手したら二度と使えないだろ」

「へえ……もしかして、心配してくれてるんですか? 流石、優しい先輩を自称するだけはありますね、えへへ」

「は!? いやいやいや、そういうわけじゃ……」


 焦ってしどろもどろになる俺を見て、満足そうに微笑む後輩。こ、こいつ、さては俺をからかって楽しんでやがるな……!


「ま、大丈夫ですよ。とりあえず今日の動画でなんとかするつもりですから!」


 その自信に満ちた発言に、俺は詳しく追求することもできず、ただ「そうか」と返すのみだった。

 この時の俺は、まだ知るよしもなかった。後輩が「今日の動画」ではなく「今日の動画」と言った、その真の意味を……。






『マイクよし! L、R……よし!』


 いつもより少し離れ気味に、後輩はマイクチェックを済ませている。それもそのはず、粘着剤まみれのマイクに髪の毛などついたが最後、大惨事になること間違いなし。後輩も、そこまでのお馬鹿さんではないということだろう。


『さてさて、今日はお耳のマッサージ! ということで……』


 そう言って取り出されたのは、一本の、業務用サラダ油。


『こちらでオイルマッサージをしていきますよー!』


 正直、絶句した。せめて……せめて、そのインパクトのありすぎるボトルは隠しておいてほしかった。

 オイルマッサージは、あのお洒落な感じも含めてオイルマッサージなのだ。サラダ油が担うには、その主役の座は重すぎる。あまりにも、庶民の味方感が強すぎる。


『うわぁ……先輩の耳ベトベト……』


 誰のせいだと思ってるんだ、誰の。そう思っている間に、後輩の両手からしたたるサラダ油が、にゅるりと耳介を撫でていく。


『ねえ先輩、知ってましたか? ハエ取り棒の粘着剤は、簡単に言えば油とゴムを混ぜたものらしいですよ。つまり、水彩絵の具が水で落ちるみたいに、油には油を使えば簡単に取れる……と、いうわけです』


 ……変なところで無駄な知識を得てしまった。


『ニュル、ヌルーリ……ズモモッ!』


 滑らかに耳を這う後輩の指が、ついに穴の内部に入り込む。粘着剤が取れているかどうかはともかくとして、いい音であることには間違いない。


「地味に、成長している……のか?」

『うーん、何か物足りない気が……。あ、そうだ! マッサージには雰囲気も大事だよね』


 目を閉じて音を堪能していたところで、後輩はまたまた懐から何かを取り出した。

 その左手には小さなろうそく。右手にはマッチ。ここにきて、百物語でもおっ始めるつもりか……?


『本当はアロマキャンドルがあれば良かったんだけど……火を見ると人は落ち着くっていうし……』


 今更か、などと思っているうちに、後輩はその手のひらサイズのろうそくを両耳の近くに立てて、マッチをなんの躊躇ちゅうちょもなくこする。

 ちょっと待て。これは、凄く、嫌な予感が……。


「馬鹿! 火に油は……!」

『シュボッ……ジジジジジ……』


 しかし、俺の「マイクが火だるまになる」という最悪な予想に反して、灯された火は耳の側で温かく揺らめいていた。


『……あっはは! ドキドキしましたかー、先輩! サラダ油は気体になりにくい油なのでちょっとやそっとじゃ燃えないんですよ? また一つ、賢くなっちゃいましたね!』


 そうだったのか。画面越しに気持ちを悟られ、さらに煽られ、なんだかとても悔しい気分だ。悔しいが、素直に感心してしまった。後輩のくせに。本当に生意気なやつだな、こいつは。


「悔しいが、教育動画としては満点だな。でも……」

『ふーっ、ふーっ……!』


 ろうそくを耳元で吹き消された瞬間、鳴り響く爆音の嵐。台風中継さながらの音割れが、俺の鼓膜をいじめ倒した。


「でも、ASMRとしては……残念ながらボツだ!」

『あっ、熱っ! 耳、熱い!』


 はたして後輩は、本気で俺を寝かせる気があるのだろうか? 火傷やけどを息で必死に冷やすその姿に思わず苦笑がこぼれる。だらしなくニヤけた自分の顔が、暗くなった携帯の画面にふと浮かび上がった。

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