二千億年後の君へ
鈴梁
二千億年後の君へ
本当に気のせいだったんじゃないかと思った。現実というにはあまりにも何も残ってないし、自身自身、昨日までそんなこと信じないという顔をしていたから、自分にそう非現実的な思い出がうかんだことすら受け入れ難いとも思った。
家の近くにヴァイオリン教室ができて、急に自分もあんな音を出していたことを思い出した。試験時間が終わった一秒後みたいだった。急に過去の記憶を思い出すと毎回心の中で苦笑する。とにかく、今回もあまりいいきもちにはならなかった。
引っ越してから、逃げるようにヴァイオリンの練習はしなくなった。言い訳はいくらでもあった。別にプロになりたいわけじゃないし、とか、もとからそんなに好きじゃなかった、とか。もとから好きじゃなかったのは言い訳じゃなくて事実だけれど。今思えばもうちょっと好きになってやればよかったと思う。運動も勉強も容姿も真ん中ぐらいなんだから、ヴァイオリン一つぐらい真面目にとりくんでいれば何かいいことがありそうなものだ。そうすればもっとまともな初恋だってできたかもしれない。
幼稚園児のお世辞にも上手とはいえないヴァイオリンでよみがえる初恋とか、安っぽい感じがして嫌だ。僕の初恋はもっと神秘的で崇高なものだって信じていたのに。
そんなことを後から思っても、小学校のときからやっぱりヴァイオリンの練習は面倒くさくて、四年生の夏ぐらいから抜け出すという知恵を身につけた。そのときの家から十分くらいのところの神社の裏に、林に囲まれ原っぱがあった。そこにヴァイオリンを背負って逃げ出して、基礎練習も音程もそっちのけで、弓を弦に適当に滑らせて遊んだ。僕は週六で習い事があったから、一日限定の休日に付き合ってくれるような友達はいなかった。
秋になって、また僕はヴァイオリンの練習をさぼろうとしていた。でもその日は林をぬけると、もう先客がいた。所謂シルバーの髪の毛の、同い年くらいの女の子だった。迫り来る冬を感じる季節だというのに、その子は薄物の白いワンピースと裸足で空を見上げて立ち尽くしていた。なんとなく気分が萎えて、回れ右をして、帰ろうと思った。
「弾かないの?」
その子はそう言った。丁度体をもときた方に向けたときに言われたからだろうか、妙に意味を理解するのに時間がかかった。寒そうな格好をしている女の子は確かにそのときは僕の方を向いていた。女の子の目は多分象牙色というらしい色をしていた。
「何を。」
「ヴァイオリン。弾くんじゃないの。」
「弾かないけど。」
「なんで。」
「弾きたくないから。」
「じゃあなんで持ってきてるの?」
僕はだんだんいらいらしてきた。そもそもこの子が先客なんじゃない。僕の秘密基地にこの子が勝手に入ってきただけだ。
「どうだっていいだろ。」
「ふうん。じゃ、遊んでよ。」
「はあ。」
ため息にもならない間抜けた声がでた。それがさらに僕をいらだたせた。でも、遊びに誘われることなんてなかったから、密かに舞い上がっていたりもした。
「きっとつまらないから嫌だね。」
「じゃあヴァイオリンの練習とどっちがつまらない?」
「なんでそんなこと言うんだよ。」
「ほら誤魔化した。遊ぼうよ。」
「いーや嫌だね。まずなんで君と遊ばなきゃいけないのさ。」
いらだちは対抗心にすりかわっていた。その子は歯を見せて笑って、
「つまんないの!」
と言った。その次の瞬間に、その子は視界から消えていた。僕の後ろを何かが横切った。
「捕まえてみなよ。」
その子の声がした。その子は裸足で草の上を走っていた。僕は呆気にとられて、その子を目で追った。しばらくそうしていると、その子が僕の目の前を横切った。
「もしかして捕まえられないの?」
その一言が遠ざかりながら聞こえた瞬間、僕はヴァイオリンのケースを置いて走り出していた。その子は足が速くてなかなか追いつけなかった。久しぶりにまともに走った。いつしかテレビで見た獲物を捕ろうとするトラはこんな気持ちなのかと思った。
追いつく前に僕の体力の限界がきた。僕は足を引っ掻けて、転んでしまった。草の上を三十センチくらい滑って、頬が少し切れた。立ち上がって服についた千切れた草を払うとその子は近くによってきた。
「大丈夫?」
「君がいうの?それ。」
僕より走っているはずのその子は汗ひとつかいていなかった。僕ははっとして、その子の方に手を置いた。
「捕まえた。」
その子の肌は冷たくて、さわったときに少し体がぞわりとした。その子は目を見開いて僕の方を見て、それから苦笑した。
「やっちゃった。」
僕たちは目を見合わせて、今度は声を出して笑った。
それから僕がヴァイオリンを持ってそこにいくと、いつもその子はいた。初めてその子にあった日、僕が汗だくで、顔に土をつけて帰ってしまったからお母さんにひどく叱られてしまった。そんな話もその子はこの前みたいに笑った。僕たちは色んな話をした。その子は最近引っ越してきたこと。二人とも同い年の中で背が小さい方であることなど。回りの木の葉が色づいて風が吹くと落ちてきても地面の草たちの青さは夏のままだった。
「四つ葉のクローバー探ししようよ。」
十月の最後、僕たちは地べたに張り付いて四つ葉のクローバーを探した。
「どっちが先に見つけられるか競争ね。」
僕は張り切って這いつくばって探した。葉と葉が重なって、四つ葉に見えても実は三つ葉だったりした。いつもおしゃべりな僕たちもそのときは何も言わずに四つ葉を探した。
「あった!あった!」
後ろでそんな声が聞こえた。僕はばっと顔をあげてあの子がいる方を見た。その子は僕の方に走りよってきて、僕の目の前で四つ葉のクローバーをちらつかせた。
「今度は私の勝ち。」
大きな目を細めてにやにやと笑うその子を見て今度は楽しい気分になった。
「見つけられなかったあなたにこれをあげよう。」
その子は芝居がかった風にそういって、四つ葉のクローバーを僕に握らせた。その子の言い方がおかしくて僕は吹き出した。
「あ、ひどい。お詫びに何かやってよ。」
その子はまた芝居がかった台詞を言った。
「何かってなんだよ。」
「たとえば?ヴァイオリン弾くとか。あ、渾身の一発芸とか。」
「一発芸とかないから。」
「ええ。じゃあヴァイオリン。」
「言っとくけどそんなに上手じゃないよ。」
「はーい。期待しないで待ってまーす。」
「おい。」
僕はヴァイオリンのケースにその子から貰ったクローバーを忍ばせた。家族や親戚以外から何かを貰ったのは初めてだった。ヴァイオリンをケースから出して、チューニングをしている間に何を弾こうか考えておかないといけない。何しろまともに練習していないからテレビで見るようなかっこいい演奏はできない。かといって簡単すぎる曲を弾いて笑われるのも嫌だった。
最終的に僕が選んだのはG線上のアリアだった。わざとかしこまってその子の前に立つと、その子も何かものものしい顔つきになって、笑ってしまいそうだった。僕の上手ではない演奏は、冬の走りの曇り空にこもったように聞こえた。
「へたくそ。」
その子はにやにやしながらそう言った。
「うるさいな。」
僕はややむっとして言い返したが、それすら初めての友達はうきうきした気分にさせた。
ふっと空を見上げると、一番星が目の端に見えた。そらはもう薄紫色で、足元の草も暗い色に見えた。
その子に背を向けると、その子はいつも、もう帰っちゃうの、と言った。僕は心の中でまたかよ、と思いながら、暗いから君も早く帰った方がいいよ、と言った。そうして林を抜けた後に、僕は毎度あの子の名前も住んでいる場所も知らないことを思い出すのだった。今度会ったとき聞こう、今度会ったとき聞こう、と思って、一度も聞いたことはなかった。
僕はその子に会うために、雨の日でも林をぬけて原っぱに行った。その子は冬の雨の日でも裸足に半袖の白いワンピースを着て、傘を指さずに髪を濡らしていた。首に髪の毛が張り付いた状態であの子がこちらを見たとき、おそらく僕は恋に落ちた。風邪をひくよ、と言って傘を傾けたのは多少下心があったからだ。でもその子はただ僕の目を見、それから空を見上げて、いらない、とだけ言った。
この子は宇宙人なのではないか、と思った。初恋が一瞬にして潰えた負け惜しみにしても滑稽な考えだ。隣で、空だけを見ているその子をちらりと見ると、やはり人間の造形をしていた。それでもやはり何も言わず、ただ空だけを見つめる美しいその子は、故郷を思う月の住人を彷彿とさせたし、冬でも真夏のような格好をするその子には多少気味の悪さを感じ是ざるをえなかった。僕はその子が見ているのと同じあたりを見てみた。ただ灰色の雲が見えるだけで、目に雨粒が入りそうになって目をつぶった。この子には何が見えているのだろうか。はるか遠くにある、故郷の星でも見ているのだろうか。
「何かある?」
僕は探りをいれようとしてあまりにも間抜けな質問をした。
「見えなくても、あるものはある。」
「そっか。」
「うん。」
言われたことがよくわからなくて、とりあえず間抜けな相槌をうつことしかできなかった。もう少しうまいことが言えそうな気もしたけれど、でかかった言葉は雨に濡れて重くなってしまったようだった。もうずっとその子は空を見つめていたから、僕はこっそり帰ってしまおうと思った。僕が後ろをむいてもいつもみたいに引き留められなかった。ただ林に足を踏み入れようとしたとき、
「またね。」
とその子が言った。後ろを振り返ってみてもその子は雨の中空を見上げているだけだったけれど、確かにその子はまたね、と言ったのだ。
僕はわけがわからなくなってしまった。またね、と言われただけで、その子を宇宙人だと疑ったことがとんでもなくひどい罪であるように思われた。でもそんな僕の中にもその子が宇宙人であることを期待する僕がひっそりと隠れていた。
なんとなく気まずくなってしまって、一か月ほど原っぱには行かずにヴァイオリンの練習をした。当たり前のことではあるけれど、真面目に練習した分、僕のヴァイオリンはいくらか上手になった。友達がいなくても週六の習い事で寂しさを感じることもなかった。
クリスマスの日。僕は人生で初めて、夜一人で家の外に出た。
僕の家は毎年クリスマス・イヴになると車に乗ってフレンチレストランのディナーを食べに行く。その日は隣の市に住むおじいちゃんとおばあちゃんもきて、一緒に名前もを聞いただけじゃなんだかわからないような料理を共にする。そして、食材がいいんだな、さすが本場の味は違うね、とか、分かっていそうに聞こえる適当な言葉を並べて、大人はそれを肴にいつもよりいいワインとやらを飲むのだ。いつも瓶に入ったお酒といえばビールしか飲まないおじいちゃんがそんなことをしているのは大人がままごとをしてるように見えて、毎年僕は居心地が悪かった。
その年のディナーでも、僕は退屈な思いをしていた。オードブルは酸味の強めの牡蠣だった。あいにく僕は牡蠣が苦手で、いくら皿の上が色彩豊かでも僕の食欲はそそられない。おじいちゃんはそんな僕を見て遠慮せずに食えと豪快に笑って言った。僕は遠慮をしているわけでもないし、お金を出すのはお父さんであっておじいちゃんではない。おじいちゃんはたった一人の孫である僕を大変可愛がってくれたけれど、こういう無自覚な傲慢さにあてられると、相手は行き場のない恥ずかしさに悩まされることに気がついて欲しいと思ったものだった。牡蠣にはまっ黄色のソースがかかっていた。僕はナイフで牡蠣の身を二つに切り、片方をだらだらと口に運んだ。牡蠣の味に感動したような顔を見せると大人は満足そうな顔をした。
そのときはまだ僕は心の中で悪態をつこうと思っていた。たったそのとき、僕は自分を含め全ての生物が、過去の中でしか生きていないということを学んだ。
G線上のアリア。イヴとクリスマスには聖なる夜らしいBGMしか流れないという過去を越えて、G線上のアリアは僕のところにやってきた。勿論僕みたいな下手くそな演奏ではなかった。ただ、僕の中にはあの子のへたくそ、という声が繰り返されてならなかった。誰のどんな気紛れかはわからないが、ああいうのをクリスマスの奇跡というのだと、後付けで僕は思った。
僕はなんだかそわそわして、まともに料理の味なんて気にならなかった。今さら、あの雨の日、あの子になんて言ったかなんていうことを考えては、もしこう言っていたらどうなっただろうと妄想した。その中で僕は一つ恐ろしいことを思い描いた。あの子があのまま雨にうたれたまま死んでしまって、あの子の死体は草たちに飲まれていくのだ。勿論近所で死体が出たなんて話はないけれど、一度思いついてしまうと心配で、今すぐにでも高速道路を走って、あの原っぱに行って確かめて見なければおさまりそうになかった。やはりそれでも、僕は心の隅の、隅の方で、あの子ならそんな姿も美しいだろうな、と呑気で他人事であるかのような呟きがあることも知っていた。目の前に運ばれてきた肉の断面は嫌に艶かしくて、一口食べると禁忌をおかしてしまったかのような罪悪感が口の中に広がった。
それからの料理がどうで、帰りの車でどんな話をしたかということは信じられないくらいに何も覚えていない。まだお父さんとお母さんが寝付くまで秒針が何回カチカチいったかの方が思い出すのは簡単なのではないか。
その夜僕が夜ずっと起きていたのはサンタクロースの正体を確かめるわけではなかった。隣の部屋から寝息が聞こえてきて三十分ほど待ってから、僕はコートとマフラーをしてそうっと玄関のドアを開けた。いくら音を出さないようにしても、完全に出さないことは無理で、自分でたてた音にびくびくしながら家に鍵をかけた。
夜の空気は鋭く、それでいてどこまでも澄んでいた。大きく息を吸い込むと胃袋から浄化されるみたいで、僕は俄然走りだした。後ろには油でできた水溜がどんどん広がっていくところを想像した。駅の方のビルはまだところどころに電気が点いていて、僕は生意気にもそこにいる人々に仲間意識を抱いた。緩やかで長い坂を登り、二回角を曲がる。なるほど脱獄囚というのはこんな気持ちなのだと思った。考えるより先に足が動く。ただ解放感だけで、針を飲まされるような外の空気さえも背中を押してくれるかのように錯覚するのだ。
そんな風に高ぶっていた僕の心を神社の裏の林の入り口は一瞬にして鎮めた。林はあるべき場所を抜け出してきた僕を、追いかけもせず、かといって罵りもせず、ただ見つめていた。僕はこのとき、自分にも見つからないように隠しておかなければいけない気持ちというものがあるということを悟った。林の入り口は決して僕を責めたりはしていない。また、今ならまだ引き返せるぞと、深い慈悲の心を持ちながら、決して僕を許してはいなかった。
僕は引き返そうかと思った。走って熱くなっていた頭もいくらか冷め、夜の空気が刺さった。僕はいよいよいたたまれなくなって、回れ右ををしようとしたとき、視界の端に消えかかりそうな細い、細い月が見えた。金色の月なんかではなく、ただただ黄色くて、黄色かった。存在感などは感じられなくて、本当に消えかかりそうだった。月はそもそも輝いてなどいない。輝いているように見えているだけだ。僕はそのとき、どんな月もきっとこんな感じなのだろうと思った。そうだとしたなら、月が輝いていない世界でなら、僕のこの異端の心も人々が追い求める真実というものの、断片なのではないかとさえ思った。
僕は回れ右をやめて、林の入り口の方に歩いていった。林の入り口はやっぱり不気味だったけど、足を止めることはできないと、僕は勝手に思った。
林の中に一歩踏み出すと、落ち葉ががさりと鳴り、小枝が折れてぱきりといった。頭の斜め上の方で、何かが鳴いていた。僕は一歩ごとにそれらの音にびくつきながら進んでいった。
林を抜けると、ぱっと目の前が開けた。僕は呼吸の仕方も忘れて立ちすくんだ。
あの子が、全く変わらぬ姿で立っていた。その子は空を見上げていたが、やがて僕の方を振り返った。そのとき、ぼくはあっと声が出るかと思った。
その子は、輝いていた。夜の暗い原っぱはその子の周りだけやや明るく見えた。その子の髪が、肌が、目が、白くぼうっと、しかし美しく、わずかに光を放っていた。
もう僕は難しいことは何も考えられなくなって、ただその子を美しいとだけ思った。そのとき僕が感じた美しさは、今まで感じたことのある美しさとは圧倒的に違う何かがあった。美しいではとても足りなかった。言葉で言い表せるとしたら、それは辞書には乗っていない、僕らには知りえない言葉に違いなかった。
「もう来ないかと思ってた!」
その子は僕を見るとにやっと笑い、そう叫んだ。その声を聞いて、僕はようやく呼吸の仕方を思い出した。僕はゆっくりとその子の方に歩いていった。何を話せばいいかなんて考えていなかった。そんな僕と反対にその子は啖呵を切ったように話し出した。
「急に来なくなって、どうしたのかと思った!私はいつも待ってたのにさ。知らない。でしょ。もう。凄く心配したんだからね。」
僕は小さく、ごめん、と言うことしかできなかった。
「本当に!君がそこの林の横の崖から落ちて、自然に還ってる妄想だってしたんだからね。」
僕は思わず顔をあげた。彼女は僕と同じ妄想をしていた。
「勝手に殺すなよ。」
僕は震える声でそう言った。必死におどけたつもりだった。
「そんだけ心配してたってことじゃない。」
「まあ、そうだけどさ。」
「で、珍しいね。こんな時間に。」
「珍しいっていう言葉使うか?今。」
意外にもそれまで通りの会話が出来ていた。僕の心臓は小動物みたいだったけど。
「君こそなんでこんな時間にいるんだよ。こんな薄着で。風邪ひくだろ。」
「なんで私の質問に答えてくれないんですかー。」
「別に?特に理由なんてないからだよ。」
そう言うとその子はいたずらっ子そうな笑みを浮かべた。
「ふーん。ま、いいや。私はね、星見。」
「星見?」
「そう。星見。」
僕はそのとき、星を見ることはあっても星見は多分したことがなかった。
「ここ明るいからそんなに星無くないか。」
「見えなくても、あるものはある。」
またその子はそう言った。僕の言いたいことは勿論そんなことではなかった。けれど、どうにも言い返せなくなって、僕は話題を変えようとした。
「今は、オリオン座か。オリオン座なら明るいここでも見えるからね、いいよね。新月ならもっといい…。」
「ふーん。」
その子は僕の蘊蓄じみた誤魔化しをさも興味がなさそうな相槌で遮った。
「…月が綺麗だね。」
僕は苦し紛れにそう言った。僕はその頃、この台詞が愛を唄う言葉となった漱石の逸話は知らなかったし、多分あの子も知らなかった。言葉というのは不思議なもので、口に出すと本当に月が綺麗に感じられた。輝きのないまっ黄色は、意味のわからない料理よりもずっと魅力的だった。
「そうだね。」
その子はそう言った。そのときの月は、オリオンが昇っている空よりずっとその子の視界の隅っこにあった。そのときのその子にどんな言葉をかけても、川床の魚のようにするすると通り抜けてしまいそうだった。
「ねえ、知ってる?」
僕は半ばなげやりになっていた。もとから独り言だと、心の中に安全地帯をつくった。
「地球から見えてる星の光って、何百、何千年も前の光なんだって。」
「前の光…うん…!」
横目でちらりとその子の方を見ると、食い入るように僕の方を見ていた。僕は呆然としてしまって、言葉に間が空いた。
「だからさ、今遠くの星が消えても、何百年かはあるように見えるんだよ。なくてもあるように見えるんだよ…ってこの話こんなに面白い?」
「じゃあ、もしさっき言ってた…オリオン座だっけ?の、星が一つ今消えたとするでしょ。でも、ここからその星はまだ『見えてる』わけだよね?」
「そうだけど。」
「じゃあ、そのとき、オリオン座はオリオン座のままなの?」
「はあ。」
僕はその子が何を言いたいのか理解できなかった。
「まあ、こっちからはわからない訳だし。」
「じゃあ見えなくなっても、オリオン座はオリオン座のまま?」
「さあ。星座なんて人がつくったものだからいくらでも変われんじゃない?」
僕は早口でそう言ったあと、
「まあ、見えなくなる前に星座の方が変わってるかもね。」
と付け加えた。
「そんなに変わっていいものなのかな。星座って。」
その子は少し寂しそうにそう言った。
「変わったら一瞬、皆混乱するかもね。」
相変わらず僕は頭の悪そうな返事しかできなかった。
「宇宙のどこかではまだオリオン座はあるんだよ?」
僕はだからなんだと言う代わりに、ああこの子はやっぱり宇宙人だったのだな、と思うことにした。今度は僕がそうだね、と言った。
それから僕たちは地面に寝そべって星見をした。ずっとそのまま星を見ていても良かったけれど、星がどんどん傾いているのに気がついて僕は慌てて帰った。僕が帰ろうとするとその子はまたもう帰っちゃうの、と言った。
年が明けても、僕が五年生になってもその子は行けばそこにいたし、僕はヴァイオリンの練習を真面目にやらなかった。ただ、たまにその子がヴァイオリンをせがんでも僕は対して嫌がらなくなったし、度々その子が空を見つめて、僕の相手をしてくれなくても、僕は最初ほど驚かなくなっていた。そういうときはその子の横顔を思う存分見つめた。
習い事がある日は夜に家を抜け出してその子に会いに言った。夜の空気も林の入り口も繰り返していくうちに秘密を一緒に隠す共犯者になった。
きっと五月の少し暑い日、僕は白爪草の花冠を作ってその子にあげた。その子は花冠なんてつくれたんだね、と悪態をついて見せた。僕のつくった花冠は花は綺麗に並んでいなくて、ところどころ花がこぼれそうだった。
「そういえばさ。」
その子が僕の肩あたりを見て言った。
「四つ葉のクローバーってまだ持ってるの?」
そう聞かれてぎくりとした。僕はヴァイオリンケースに入れたまま、クローバーを放置していた。ヴァイオリンケースを開けて探してみると、クローバーはあるにはあった。ただ、そのとき僕たちの下にあった草のように瑞々しい緑色ではなく、枯れて乾燥した黄土色だった。必死に体で隠そうとしても、結局はその子は僕の脇から手を伸ばしてそれをひったくり、林と反対の方向に投げてしまった。
「なにするんだよ。」
「隠してたからお仕置きですー。」
その子はにやりと笑った。その顔を見ると僕は何でも許せるような気がした。その頃の僕はすっかりその子が好きになっていて、その子が笑っているのを見ると僕も笑ってしまっていた。
そして君は突然いなくなった。夜には鷲座が高く昇り、もうすっかり夏を感じる頃だった。僕はヴァイオリンの練習を抜け出して、林の中を歩いて言った。例年より暑い夏だったらしく、肌に新しく買い与えられたTシャツが張り付いた。僕は早足でぼうぼうに繁った草むらを歩いていった。でも、林を抜けて、その子の姿を探してもその子はどこにもいなかった。風が吹いて、伸びた草たちは波打つだけで、その子の白い姿も、声もどこにもなかった。今度こそ本当に死んでしまったのではないかと、僕は崖のすれすれのところまで行ってその子を探した。それでもその子はいなくて、僕はヴァイオリンを弾いてその子を待った。やはり、その子は決して来なかった。夜、原っぱに行ってもその子はいなかった。その子のいない夜は何か怖くて、僕は早々と帰ってしまった。
夏休みになると僕は毎日原っぱに行った。その子はいなくて、僕は一人でヴァイオリンを弾き、四つ葉のクローバーを探し、夜は星を見た。話しかけたこともない近所の人に、その子を見なかったか聞いた。妙なことに、その子に会ったことがあるという人すらいなかった。僕はたった一人、その子に取り残された。そうは言っても、僕はその子を探す術なんて持っていなかったから、毎日原っぱに通うことしかできなかった。
夏休みの終わり、僕はお母さんにこっぴどく叱られた。僕にその子について尋ねられた近所の人が、お母さんにその事を伝えたことで、僕がヴァイオリンの練習をせずに外で遊んでいることがばれてしまったのだ。それからお母さんは僕がヴァイオリンの練習をしているときは決して家から出なくなった。僕はヴァイオリンの練習をするしかなくなり、夜も段々腰があがらなくなり、原っぱにはぱったりと行かなくなった。
丁度その頃、学校では宇宙人とか、怪奇現象とか、そういう話が流行っていた。僕に友達はいなかったし、本当になんとなく、僕は宇宙人なんていない、という人々の肩を持った。
そして、中学入学とともに僕の家族は引っ越し、僕はヴァイオリン教室を辞めた。お母さんは辞めても趣味で弾き続けることを望んだようだったけど、友達ができた僕はお母さんの期待に応えるほど暇ではなかった。休日にボウリング行って、テストの点数で勝負して、そこそこに頑張って偏差値五十八位の高校に入学した。
本当に何もないのにそんなことが早巻きに思い出された。僕はもうすぐ死ぬのかと。そんなはずもなく、あまり上手でないヴァイオリンは手を叩く音で止まった。アスファルトの跳ね返した日射しがどんどん強くなって、地面からどんどん白くなっていくように感じた。
僕は歩きだした。地面の感覚が曖昧で、幽霊にでもなった気分だった。
家につくなり僕はヴァイオリンのケースを探した。ヴァイオリンのケースはベッドの下で埃を被っていた。対して中のヴァイオリンは綺麗なもので、チューニングが狂っている意外は紛れもなく小学生のときのままだった。僕はそれと、定期券とお札が数枚入った財布を持って家を出た。
「遊びに行くの?」
と家を出るとき、お母さんが言った。ちょっと遠くにね、と言うと、十時前には帰って来なさいよ、と返ってきた。
僕は六年ぶりに懐かしい土地を踏んだ。引っ越しと言っても百キロも離れていなくて、電車で二時間半程で着いた。
どうやらこの六年間で、随分と人は動いたらしく、町には死の兆候が、まだ忙しそうな町であることには変わりなさそうではあるけれど、ひたひたと迫っていることが感じられた。僕は少し寂しく思ったけれど、同時に安心した。
僕は前と少しも道路が減ったり増えたりしていないことを確認して、坂を上った。いよいよ世界に陰がなくなってしまったように白く感じられてくる。
ふっと目の前に、雑木林が現れた。それは陰がなくなってしまった世界で唯一色があって、黒が交ざっていそうな色だった。それで僕は太陽の光が白い理由を考えてしまった。太陽の光は白い。青でも赤でもない。白い。
五分程、僕は呆然として突っ立っていたが、そんな邪念を振り払って、僕は雑木林に挑んで見ることにした。背の高いくさがぼうぼうに繁り、草で足を切った。顔に寄ってくる蚊を振り払って、草をかき分け、踏み倒して進んだ。青い空が見えるのはほんの僅かで、昼間だというのに暗かった。
雑木林の最後の草を踏み倒したとき、一気に目の前の草が低くなった。僕は言葉が出なかった。本当に時間が止まったみたいに何も変わっていなかくて、僕はあの子を探したけど、それはすぐに断念した。
僕はヴァイオリンをケースから出して、チューニングをした。この暑い中、久しぶりのチューニングは時間がかかりそうだった。
宇宙には大気がない。だからきっと地球は太陽の周りを回り、太陽の光は白いのだ。
ヴァイオリンを弾く僕を見て、何故弾くのか、と聞いた人がいて、僕が正直に答えるのであれば、誰であれ笑うだろう。
そもそも宇宙に音はないと笑う人もいるだろうし、音を向ける方向が違うかもしれないと、考えのなさを笑う人もいるだろう。あの子の存在を語る僕を馬鹿にする人もいるだろう。
ただ、僕には宇宙には音があるように見えてならない。音の進む速さは空気中だと秒速三百四十メートル程。宇宙空間ではもっと遅いかもしれない。あの子のいる場所なんて知る由もないけれど、宇宙に大気があろうとなかろうと、何億年先でも、この音はどこかで必ず存在しているのだ。
僕は狂ったようにヴァイオリンを弾いた。案の定へたくそになっていた。目を閉じるとあの子の「へたくそ」がまだ鼓膜に残っているよだった。僕は、このままずっと、ヴァイオリンの練習はしないようにしよう、と思った。
七月。真昼の空にオリオン座は見えない。
二千億年後の君へ 鈴梁 @hibiya-4NI
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