琥珀の思い出
うつりと
カオル
あれは雨の日、六月のこと。
土砂降りでもない、小雨でもない、傘を手放して歌えるほど余裕もない確かな水の重みを傘に感じるくらいの雨だった。
その日は先方に今度やる企画のプレゼンがあったから、普段スニーカー派の私が未だ慣れない黒いヒールを履いていた時だったと思う。
朝出勤する前に確認したときは雨の予報はなかったものの、梅雨の変わりやすい天気を思って折り畳み傘を鞄に入れていた。
資料を整えてプレゼンに向かったものの、結果は惨敗ですごすごと帰る水曜日。
これが金曜日だったらまだ良かった。飲んで帰れなくても、少し高いお酒やテイクアウトの料理でも買ってそれこそ冬眠の熊のようにこんこんと眠ってしまえばよかったから。
けれど中日、明日も普通に日々が続いていく。少しでも早く寝て明日に備えたいと足早に帰る途中、やはり雨が降ってきたので、折り畳み傘を差した。瞬間、突風に吹かれた。
やはり長傘じゃない折り畳み傘の強度なので、風に煽られ、踏ん張ったが、誰が言ったか足が綺麗に見える8㎝ヒール、その時点でぽきりと折れてしまったのだ。
そしてその煽られた傘で飛び散った雨が他の人に当たったようで舌打ちを盛大にされた。踏んだり蹴ったり。
最悪な日だった。雨は、嫌いだ。近くに店もないから替えの靴も買えない。
あまりの心細さに呆然としていると、路地裏にその場所はぼんやり浮かんできた。
あれはオレンジの光の電球だろう、今では珍しいLED以外の温かそうな光が切れかかっているのかちかちか光って切れかかった看板に「思い出」とだけ書いてある。
温かそうな光に群れる虫はこんな心境か。
ふらふらと吸い寄せられるように店内に入ると
「いらっしゃい、災難でしたね。」
と、白髪のご婦人がバーテンダーのようなベストとシャツを着て出迎えてくれた。
白髪をオールバックにまとめているご婦人だ。見事な白髪と趣深いしわに重ねた年齢を思うが、パウダーでごまかさなくても抜けるような肌艶とマゼンタの口紅がひかれた口元に女性の華やかさを想う。
店のママの着ているような豪華なドレスじゃないパリッとしたシャツを着たかっこいいご婦人だ。
「まずはこちらを。私の替えのシャツはあるからよかったらこちらも。
サイズはぴったりのはずだから。」
ご婦人は温かい濡れたタオルと乾いたふわふわのタオル両方用意してくれていた。
そしてスリッパも。
「いや、ここまでしてもらうわけには」
「どこまでならしていいのかしらね、困っちゃうわ」
せっかくなのでマスターの好意に甘えて、お手洗いで軽く着替えることにした。トイレ内は黒い石の水面台は磨き上げられていて、サンダルウッドの香りが立ち込めていた。ご丁寧にというべきかフィッティングボードが
そなえつけられていたから、そこで着替えを行うことにした。
温かい濡れたタオルはこちらも暑くもなくぬるくもない最適な温度で、濡れて冷たくなった肌に心地よかった。その後で乾いたタオルで髪と改めて身体を拭くと一気に体温を取り戻したのか人心地着いた。
マスターから借りたシャツはマスターの言う通り私に袖も首筋もぴったりだった。スリッパはふかふかしていた。
着替えて店内に戻るとマスターが
「ぴったりでよかった」
と微笑んでいた。
「これはブランデー入りのホットミルクよ。良かったら召し上がってね。」
温かい。優しさと温かさがじんわり体に染み渡る。
段々からだがもとの体温を取り戻してきたのがわかる。
ただありがたいとは思うが、ここまでしてもらったら逆に警戒をしてしまう。
「メニューがないようですけど、料金は?」
「いえ、ここは決まった料金はないんですよ。お客様のお気持ちを頂いています。」
お気持ち。苦手な言葉だ。ここまでしてもらったからには弾まないとまずいだろう。ひとり悶々としていたら
「本当に言葉通りお気持ちを頂いているので、そんな困って頂きたいわけじゃ
ないんですよ。どうかごゆっくり。」
とはいっても普段こういう店に来なれてない私は困ってしまう。寛ぎようにも寛ぎようがない。一分一秒が長く過ぎるようだ。
いつ言い訳をしてお暇しようか、そんな心持ちで時計を見ようとしたらつけている時計が止まっている。スマートフォンでも確認しようとしたら、やはり止まっていた。故障か。自分の不運はまだ続いていたのかとお財布の中身を嘆かずにいられないが、
「すみません、今何時ですか。」
と確認を入れた。
「あぁ、ごめんなさい、ここは時計がないんですよ、生憎時間が止まっていまして。」
時間が?
冗談だろうかと思い、女性の顔を見てみたが、瞳は穏やかな湖のような眼差しで嘘をついているとは思えない。口元にも静かな笑みがたたえられていた。
冗談であればまだ笑えたが、この状況はやはり笑えないと思い、シャツもタオルもありがたかったが、早くお暇しようと思って財布から今持てる限りのお金をバーカウンターに置いて外に出ようとした。けれどドアノブは開かずに止まってしまった。
「開けてもらえませんか。」
「開けてあげたいけど、開けられないのよ。私の力では。」
スマホも故障。連絡手段も皆無。閉じ込められた、と思った。
「どういうおつもりですか。」
「私は貴方に何かしたい訳じゃないわ、ここはこういう場所なのよ。貴方に見てもらいたくて存在しているの。あなたの手で開けるしかないわ」
言っている意味が要領を得なくていまいちわからない。訝しんでマスターを見ていると、奥から木箱を取り出した。
「これを見て。」
「これは…琥珀ですか。」
「そう、琥珀って木の傷跡から出来ているでしょう。これも傷跡から出来ているの。これは木から出来ているわけじゃないんだけどね。
これをね、この機械を使ってここに映すのよ。」
マスターは明かりを落として、琥珀を機械にセットすると白い壁に映し出した。
映画の上映のように、けれどフィルムがカタカタと回るわけでなく、静かにぼんやりとその情景は浮かんできた。
なんだろう。女の子の後ろ姿だ。かごから出てきた犬に抱きついている。弾ける笑顔、とはこのことか。見たことのある人。見たことも何もこれは確かに私自身だ。これは確かハルが初めて家に来たときの出来事だ。
「あなたの新しい家族よ。私達はあなたのそばになかなかいられないから。」
母が私の頭に手を置いてくれた。
両親に「ありがとう、ありがとう」と何回も繰り返している。両親は肩を組んで私を見ていた。
画面が揺らぐと、場面が飛んだ。
確かこれは十七歳の夏。小さい時からまるで兄妹のように一緒にいた愛犬のハルに対して、私は素直に向き合えなかった。
あの頃もうおじいちゃん犬で「ハル」は嘔吐ばかりしていた。散歩も少し歩けば疲れてしまう。便も軟便ばかりしていた。あんなにリードを力強く引っ張って私をぐいぐい散歩させるハルとは大違いだった。
昔と違う。そんなハルが見ていられなくって、心配ではあったけど、今まで私と一緒にいてくれた存在が亡くなるのが怖くて、いやで、日常の世話こそしていたものの段々ハルの存在が重荷になってきた。
文系・理系に分かれていよいよ大学受験に備えようとしていた時期、他のプレッシャーもあった。
少しでも気晴らししようと思って友達と遊んで帰った帰り、ハルは亡くなった。雨の日だった。
「悲しいのはわかるけどさ、あんまりそうしていちゃだめだよ。
家族が亡くなったわけじゃないんだしさ。」
友人は私を慰めようと思わず言ってしまった言葉なのだろうが、思いのほか私のこころに刺さった。ハルは家族だ。共働きだった両親よりもずっと私に近い。私はきっとすごい顔をしていたのだろう、
友人も咄嗟にしまったという顔をしていたが、後の祭り、何も言えずに頷くしかなかった。そんなやるせないちっぽけな後ろ姿、それが私だった。
そんな些細な行き違いで段々友人と上手くいかなくなり自習室で黙々とペンを走らせている十八歳。短大には受かったものの周りと上手く溶け込めなかった十九歳、まだお酒の飲めない年齢なのに勧められて断り続けていたら「つまらないやつ」と嘲笑を受けた。
着物だけ一等綺麗な振袖着せてもらった二十歳。カメラマンの「笑顔で!」の言葉に必死に応えようとして私の笑顔は少し引きつっている。
仕事を覚えるためだけに日々を費やした二十一歳、ノートには言葉をうまく拾えなかった端切れが残っている。
初めて後輩の出来た二十二歳、「先輩になったんだから。」の上司の叱責、そして後輩の
あの人要領悪そうですもんねの給湯室での声。そのドアを開けることが出来なかった。
ずっと見ていた私の過去の思い出。今までの過去を見終わった後、なぜか涙が頬に伝った。
「これは…」
「この琥珀はあなたの傷から出来ているの。その瞬間の記憶と思い出が閉じ込められているのよ。」
マスターは静かに続けた。
「この琥珀は生きている間にどんどん溜まっていくの。傷ができるたびにね。琥珀自体は綺麗だけどね、これを見ている間は時間が止まってしまうし、でもちゃんと見てあげないと時間は進んでくれないのよ。」
「そうですか。」
「さ。上映会はおしまい。雨は上がっているはずよ。その折れたヒールは置いていってそこのスニーカーを履いて帰りなさい。」
玄関におろしたての靴を用意してくれていた。
「あの。お代は。」
「はじめに言ったでしょ、気持ちを頂けたら十分よ。さよなら、もう会えないと思うけれど。心残りのないようにね。」
ドアが開いた。雨は上がっていた。
琥珀の思い出 うつりと @hottori
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