59話 握りしめた拳の行方は

 ガンッ!


 狭いトイレの中に黒野の身体が叩きつけられた音が反響した。


「お、おいっ! やめろよ! なんだよ突然……!」


 黒野の取り巻きが狼狽したように声を上げる。

 だが、俺は取り合わず、真っ直ぐ黒野の顔を見据えた。

 生来の目つきの悪さも相まって、たぶん悪魔のような顔をしていたことだろう。


 だけど、黒野は慌てるでもなく、怯えるでもなく、口元に薄ら笑いを浮かべて、俺を見据え返していた。


「あー……今の話、聞かれちゃった感じ?」


 いつもどおりの調子で、これから世間話でもするように、そう尋ねてくる。


「お、俺――人呼んでくる!」


 取り巻きがバタバタと駆けていく足音を聞きながら、俺は黒野に向かって言った。


「……最初から終わりまで、全部聞いてた」

「そっかぁ」


 黒野は天井を仰ぎ見るようにしながら、大きなため息をつく。そして視線だけをこちらに向けると、再び薄ら笑いを浮かべて言った。


「まあ、落ち着けって。さっきの話は冗談半分で話盛はなしもっただけだよ」

「笑えない冗談だったよ」


 俺が言葉を返すと、黒野は更に口元の歪みを強めた。


「つーかさ。俺がどんな風に恋愛しようと。それは俺の自由だから。お前にあれこれ言われる筋合いはないと思わない?」

「……それがお前の本性だったんだな」

「本性っていうかー。んー、そうだな。お前みたいなには分からないだろうけど、俺みたいにゼンブ持ってる人生ってさ、案外退屈なんだよ」

「退屈――?」

「そ。だから恋愛はその暇つぶし。暇を潰すためには、色々と趣向を変えてみたいと思うのは当然じゃね?」


 こいつは何を言ってるんだろう? 一瞬、理解できなかった。


 だけどすぐに、ストンと胸に落ちるものがあった。

 ああ、なるほど。そういうことなのか――


 黒野にとって恋愛とは、ようはなのだ。


 俺が漫画やラノベを読むように、ゲームで遊ぶように。

 気軽に手を伸ばし、飽きたら途中でやめて。また別のものに手を出す。


 今日はFPSを遊んだ。明日はRPGで遊ぼう。

 この漫画は、アニメはつまらない。ここで切ろう。


 そんな感覚で、誰とでも付き合うことができる。飽きたら別れればいいだけのことだから。


 確かに、それは個人の価値観の範囲なのかもしれない。

 倫理的に褒められたものじゃないかもしれないが、別に法律に違反してるわけじゃない。

 その振る舞いをしたうえで、本人が人間関係をコントロール出来ているのであれば、少なくとも第三者からアレコレ言われる筋合いはない――黒野のその主張も一理ある。


 だけど、それでも、許し難い!

 お前のその価値観で、詠が傷つきかねないことが。


「――まあ、青井が怒る気持ちもわかるよ。だって、お前、詠ちゃんのこと好きなんだもんな? 自分の好きな娘が、陰キャが必死こいて仲良くなった娘が、俺みたいなヤツに取られたらイヤだよな?」


 黒野の言葉に、俺は思わず眉根を寄せた。

 俺の表情を見た黒野は、更に愉快そうになって言葉を続ける。


「なあ、答えろって。彼女のこと好きなんだろ?」


 黒野は挑みかかるような目で俺をまっすぐ見つめた。

 

 ああ、そうさ。俺は、詠が――

 言え。言うんだ!

 ハッキリと!


「――ッ」


 だけど、この期に及んで。

 俺は、その気持ちを言葉にして、黒野にぶつけることができなかった。

 

 なぜ。どうして。

 どうして俺は自分の想いを言葉にすることができないんだ?


 俺は――


 俺はその言葉を言う代わりに、黒野の胸ぐらをつかむ左手の力を弱めた。そのままダラリと腕を下ろす。さっきまで握り拳を作っていた右手も、だらしなく緩んでいった。

 

 そして絞り出すような声で言った。


「頼む……詠を……彼女を傷つけるようなマネだけはしないでくれ。お願いだ」


 蚊の鳴くような、弱々しい声だった。


「はあ?」


 黒野の顔から笑みが消える。

 代わりに心底軽蔑するような表情を浮かべた。


「なんだそれ? 気持ちワル……お前さぁ――」


 黒野が何かを言いかけたところで、勢いよくトイレのドアが開いた。

 俺も黒野もドアの方を向く。


「おい、黒野! 大丈夫か!?」


 取り巻きが、クラスメイト達を何人か連れて中に入ってきた。

 

 彼らの目に映った光景は、至近距離で向かい合う俺と黒野。

 そして、黒野の胸元は、今しがたまで俺に掴まれていたせいで、シャツが伸びて大きく乱れていた。


 この光景を見たクラスメイト達が――


 

「青井! お前何やってんだよッ!」


 駆けつけた大柄なクラスメイトが、俺と黒野の間に割って入った。それに続いて、取り巻きが黒野の元に駆け寄る。

 

「黒野、大丈夫か、ケガしてないか!?」

「ああ、ヘーキ」


「何? 何があったん?」

「ケンカ?」


 ザワつくその他のクラスメイトたち。

 

 この光景を見た彼らが、俺が一方的に黒野に暴力を振るったと状況を察するのは、無理からぬ話だ。


「俺と黒野がトイレで用を足してたら、いきなりコイツが出てきて――問答無用で黒野を壁に叩きつけたんだよ! マジで意味わかんねーし!」


 事情が分からぬクラスメイト達に、取り巻きが補足説明。コイツも嘘は一つもついていない。


「え、こわっ」

「なんでそんなことすんの?」


 動揺が、そして俺に対する不信感が、真っ白な半紙にこぼされた墨汁ぼくじゅうのように、じわりと広がっていく。


 何か反論しようと思った。

 だけど、なぜ自分がこんな行動をしたのか、上手く説明ができなかった。

 いや、説明するのが怖かった。


「ごめん――」


 俺は虚空こくうに向かってつぶやく。

 それは何に対する謝罪だったんだろうか。

 

 黒野に手荒なマネをしたことに対する?

 クラス会をぶち壊してしまったことに対する?

 それとも。


 とにかく俺は、一刻も早くこの場から離れたくて、逃げ去るようにトイレを後にする。


 トイレの外に出ると、廊下に女子生徒達も集まっていた。

 一様に困惑した顔を浮かべた中に、詠の姿もあった。


 彼女は心配そうな表情でこちらを見つめている。

 

 俺は彼女と視線を合わせることなく、うつむきながらその場を離れた。


 ごめん。


 心の中でもう一度謝る。

 それは、詠に対する謝罪の念だった。


 今日一緒に帰る約束を破ってごめん。

 

 詠も楽しんでいた、クラス会を台無しにしてごめん。


 黒野の問いに、何も言えなくてごめん。


 

 俺なんかが、こんな気持ちになってごめん。

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