55話 その気持ちの名前

 そしてその日の帰り道。

 もっぱら二人の話題はテストの結果だった。


「私も夜空くんも、中間テストの順位を大幅更新。二人で頑張った甲斐があったね」


 学校から駅まで続く通学路。

 段々と傾いてきた夕陽が辺りをオレンジ色に染める中で、俺の隣をテクテクと歩く詠は、今日何回言ったか分からない、喜びの言葉を口にした。


「ありがとう、詠のおかげだよ」


 彼女のその言葉に対して、これまた俺も、今日何回彼女に伝えたか分からない、感謝の気持ちを伝えた。

 

 俺一人ではここまで真剣にテスト勉強と向き合うことはできなかった。

 今回の俺の成績の大躍進だいやくしんは、言葉どおり、全部詠のおかげといっても過言ではない。


「ううん、そんなことない。夜空くん自身の努力の成果だよ」


 詠はそんな俺の謙遜けんそんを笑顔でキッパリと否定する。

 優しい彼女らしい言葉だなと感じる。だけど、このままじゃ俺の気が済まなかった。


「詠にはホントにお世話になったからさ。なにか恩返しがしたいんだよな」

「ええ? そんなの別にいいよ」

「そうはいかないよ。俺としては、是非、何かの形で詠に報いたい。なんでもいいよ、好きな本プレゼントするとか、美味しいご飯を奢るとかさ」

「うーん、そう言われると、魅力的な提案だなぁ」

「あ、でもあんまり高価なものは……応相談でお願いします」

「ふふ。もちろん、わかってるよ」


 俺の提案を受けた詠は、顎に手を当て、考え込む仕草を見せる。


「えーっとね……どうしようかなぁ」

 

 それから、少しだけ無言の時間が流れた。詠は俺からのについて考え込んでいるようだった。

 

「……あ」

 

 やがて、詠が口を開いて立ち止まる。

 俺は振り返って、彼女の顔に視線を向けた。


「お願い、見つかったかも」

「なに? 言ってみて?」


 俺の促しに応じて、詠は遠慮がちに、ゆっくりと口を開く。


「えっと。夜空くん、覚えてる? ブックカフェで、夏休みに入ったら、私とに行こうって約束したこと」

「ああ、もちろん」

 

 それは、詠と交わした大事な約束だ。忘れるはずがない。

 俺の答えを聞いた詠は「よかった」と言って安心したように笑ってから、言葉を繋ぐ。


「――それでね。七月三十一日に、夏祭りがあるんだけどね。夜空くんと一緒に行きたい」

「夏祭り」

「ダメ?」

「ううん、まさか。一緒に行こうよ。俺でよければ」


 当然のように俺は即諾した。

 というより、俺にとってその申し出はすでに決定事項のようなものだ。今更、断る理由なんてあるはずもなかった。

 

「ほんと? 嬉しい!」

 

 それなのに、詠は本当に嬉しそうに笑う。

 その満面の笑みがあまりにも嬉しそうだから、俺も思わず釣られるように笑ってしまった。


「ていうか、詠。それお願いになってないよ」

「え?」

「だって一緒に夏祭りに行くっていうのは、もう俺たちの間で約束済みのことなんだから。今のはお願いっていうより、ただの確認だと思う」

「あっ、そっかぁ。えへへ」


 俺の指摘を受けて、詠は可愛らしく舌を出して苦笑いした。


「ねえ詠。もっと他のお願いはないの?」

「他のお願い?」

「今のだけじゃ、ゼンゼン、俺の気が晴れないよ」


 俺は悪戯っぽく笑いながら、詠に別のお願い事を促す。


「いいの?」

「もちろん」


 詠は再び、深々と思考を巡らせる。

 今度の沈黙の時間は、中々に長かった。


 そしてようやく、詠は何か思いついたようで、「あのね……」と小さな声で呟き始める。


「……」


 しかし彼女はそこで黙り込んでしまった。

 再び、俺の方をチラリと見てくる。

 

「どうしたの? 遠慮しないでなんでも言って?」

「うん……」

 

 詠は小さく首を縦に振った。

 しかし、彼女はなかなか口を開こうとはしない。俺から顔を背けて、地面を見つめながらモジモジとしている。

 

「詠?」

 

 不思議に思って名前を呼ぶと、彼女は頬を赤く染めながら俺の方を見た。

 それから、恐る恐るという感じで、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

「えっとね……もしよければ、なんだけどね」

「うん」

「手を――」

「て?」

「手を繋ぎたい。夜空くんと」


 詠は消え入りそうな声でそう言った。


「手を繋ぐ? 俺と?」


 彼女の発した言葉の意味が、ひどく他人事に感じた。だから、馬鹿みたいに彼女の言葉をオウム返しに繰り返す。


 詠は、俺と手を繋ぎたいらしい。

 手を繋ぐ。


 え?

 俺が、詠と?


 手を繋ぐって。それって。

 

 それって……!


 俺の脳は、たっぷり数秒をかけて、彼女の願い事のその意味を、理解する。

 だけど、その願い事の意図については、さっぱり分からない。


 そんなことを考えていると、俺の顔に徐々に熱が集まってきた。


「……」

 

 俺は、言葉を発することができなかった。

 何も言えないまま、自分の右手と詠の左手に視線を落とす。

 それから詠の顔をチラリと伺うと、彼女も同じように、視線を落としていた。

 その顔は、耳まで真っ赤になっている。

 

「ゴメン……変なこと言って……ダメ……だよね……」

 

 詠は目を伏せながら、不安そうな、消え入りそうな声をあげた。


 違う。ダメじゃない。ダメなはずない!

 俺は詠にれたい。その手にさわりたい。

 そして、詠の方から、俺と手を繋ぎたいと言ってくれている。

 

 なら何も問題はない。早く行動しろ!

 

 けれども、この胸を締め付けるような痛みは。

 この手を硬直させる戸惑いは。

 

「……」

 

 俺は無言のまま、詠の手に向かって、ゆっくりと、自分の手を伸ばしていく。

 彼女の手が、俺の視界の中で大きくなっていく。

 

 あと少し。もう少し。

 あとほんの少しで、詠の指先に触れることができる。

 

 心臓の鼓動がうるさい。

 顔の熱さが限界に達しそうだ。

 俺は、なんとか震えそうになる唇を動かした。


「ダメじゃない――」

 

 詠と視線が合った。

 その琥珀色こはくいろの瞳の中に映る、自分自身の小さな影法師を見る。

 互いを見つめ合いながら、息をすることすら忘れてしまいそうだ。

 

 そして――

 

 俺は、詠の細い指先に、そっと触れた。

 

 そのまま、しばらく時間が流れる。

 俺たちはただ、お互いの体温を感じるように、手を重ね合っていた。

 

 やがて、詠が口を開く。

 

「夜空くん」

「うん」

「ありがとう――」

 

 詠は優しく微笑んだ。

 その笑顔を見て、俺の胸の奥の痛みが、より一層激しさを増していった。


 この痛みから、もう目を逸らすことは出来なかった。

 

 俺は、君のことが――……







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