第15話


「千尋!」

 

 わたしは思わず叫んでいた。倒れ込んだ千尋にかけよる。

 しかし手を差し伸べる前に千尋はすばやく立ち上がった。人の手など借りるかと言わんばかりの勢いだ。視線はボールの行方を探している。


「ごめんなさい、大丈夫?」

「大丈夫です」


 清奈が声をかけるも、千尋はろくに顔も見ずに答える。

 さっきは二人の足元が絡まったように見えた。清奈が千尋の足を引っ掛けたか、踏んでしまったのかもしれない。見た感じディフェンス――清奈のファール。でもそれを判断できる審判なんていない。

 先生は向かいのコートでやっている試合の方についていて、こちらは生徒しか見ていない。


 コート上が一瞬静まり返る。その中を、千尋は悠然と歩いてボールを拾った。

 じっと彼女を注視していたわたしは、ここである変化に気づいて千尋の腕を指差す。


「肘! 血が出てる!」


 垂れるほどではないが、皮膚の表面に赤く、じんわりとにじんでいる。床で擦りむいたらしい。

 千尋は腕を曲げて、無表情に自分の肘を見た。腕を持ち上げると、舌を伸ばして傷口をなめた。


「これぐらい大丈夫です。こっちボールですよね」


 うーんワイルド。

 質問には誰も答えなかったが、異論はなかった。有無を言わさぬ雰囲気。

 千尋は何事もなかったかのようにすぐさまリスタートする。いつまでもぼうっとするな、とばかりにわたしにパスを投げてくる。


 たぶん聞かないだろうなこの子は。

 そう思ってわたしも試合を再開した。パスをくれと手を上げる千尋にボールを戻す。

 清奈はというと、まだ立ち呆けていた。

 バスケ部員が体育で素人相手に軽くケガをさせたとあっては、何か思うところあるのだろう。咲希も遠目に、心配そうな顔で清奈を眺めている。

 一方の千尋はチャンスとばかりにゴール下に切り込んでいって、シュート。外すが自分で拾ってもう一度シュート。ゴール。

 

「本当に大丈夫?」


 自コートに戻りながら千尋に近づいていって尋ねる。

 千尋は大丈夫、としか言わない。目はめくられたスコアを睨んでいた。

 

 それ以降、清奈の動きが急に鈍くなった。それと連動するかのように、咲希もおとなしくなる。

 反対に味方の士気が上がってきた。テクニックはないが必死に動いている千尋の姿に感化されたか。千尋本人も俄然勢いづいている。

 敵チームも清奈と咲希以外のメンツはこちらとほとんど同じレベル。試合は徐々に盛り返し、ついには逆転したところで、終了の笛が鳴った。



 


 試合後、わたしと千尋は体育館を抜けて保健室に向かった。

 千尋が大丈夫、と言って憚らないので、わたしが先生に告げ口した。武内さんが転んで擦りむいたみたいです、と。

 保健室で診てもらってきなさい、と先生に言われると千尋はおとなしく従った。さすがに教師に逆らうことはしないみたいだ。そこは真面目。

 で、わたしも付き添いという名目でついていく。いらないって言われたけど。

 

 ノックののち、おそるおそる保健室の戸を開ける。

 部屋には誰もいなかった。電気はつけっぱなしなので、保健の先生はちょうど席を外しているっぽい。


「なんでいないんだよ~。職務怠慢じゃん」


 などと言いながら入っていく。

 千尋はおとなしくわたしに続いて、戸を閉めた。

 

 保健室ってあんまり利用したことがない。そういえばこの前来たときも誰もいなかった。そのときは部活中で、放課後だったけど。手当とかもセルフサービスですませた。

 わたしは千尋を振り返って尋ねた。

 

「ちょっと腕見せて」

「だからたいしたことないですって」

「いいから」


 腕を取って傷口を確認する。やはり少し血が滲んでいる。痛いは痛いはずだ。

 その拍子に体操服の袖からちらりと腋が見えた。きれいだった。ムダ毛とか、ちゃんと処理してるのかな。

 ……なんだろう、なぜかこっちが恥ずかしい。

 目をそらして腕を解放すると、わたしは室内を物色する。

 

「ないかな~? 消毒液みたいなの」

「勝手に触ったら怒られませんか?」

「だって先生いないんだもん」


 やっぱり変なとこでは真面目。ルールには厳しいというか。

 壁際のラックにごちゃごちゃと救急用品が入っているのを発見。

 ガーゼとか絆創膏……の前に消毒か。


「あった、消毒スプレー」


 わたしがスプレーを手に取るとすかさず千尋が、


「貸してください」

「いや、わたしがやってあげるから」

「自分でできます」

「自分でやりづらいでしょって」

「いやできますって」

「やってあげるっつってんだろが」


 いい加減キレた。まったくもう本当にこの子は。どんだけ助けを借りたくないのか。

 千尋はなおも不満そうな顔。しぶしぶといった様子でだらんと腕を伸ばしてきた。反抗のつもりか、傷口があさってのほうを向いている。手のかかる子供か。

 わたしは千尋の手首を引っ張ると、傷口めがけてスプレーを吹きかける。


「痛い? しみる?」

「大丈夫です」

「ほんとに~?」


 千尋は表情をぴくりとも動かさない。

 またやせ我慢しているのか。いやこの人もしかして痛覚ないのか。

 表情を観察しつつ、もう一度スプレーを吹きかける。やっぱりノーリアクション。

 痛いしみるぅっ、ってちょっとは弱みを見せてくれてもいいのに。まあ痛くないに越したことはないけども。


「もういいですか?」


 消毒は終わった。

 いいはいいけども、そんなもう満足ですかみたいな言い方されるのはね。

 なんか物足りない。というか本気でちょっと心配になってきた。わたしはスプレーをしまうと見せかけ、千尋の背後に回り込んで両脇を指でつついた。


「ひゃっ!?」


 背筋がびくっと伸びて、かわいい声が出た。

 よかった。皮膚の感覚が死んでいるというわけではないみたいだ。


「な、なにするんですかもうっ!」


 怒った顔が振り返ってきた。頬が赤らんでいる。かわいい。

 まではよかったけど、そのあとのことは考えてなかった。

 千尋はわたしに詰め寄ってくると、おもむろに手を伸ばして、正面から脇を指でつついてきた。


「あっ……」


 勝手に口から変な声が漏れる。

 くすぐったい……というよりも、え? と頭が混乱する。

 まさか反撃を受けるとは思ってなかった。負けず嫌いなんだろうなとは思っていたけども、これは想定外。

 しかも倍返しとばかりに二回、三回と続けてつつかれる。いや三倍返し? 容赦ない。


「ちょ、ちょ、ちょい!」

 

 慌てて体をよじるわたしを見て、千尋は少しだけ笑っているような気がした。ドSか。

 負けじと手を伸ばす。反撃の反撃。

 しかし不意打ちでないからか、まったく千尋の反応がない。いや我慢してポーカーフェイスを作っているに違いない。


 くそ、こうなったらもう揉んでやろうか、と胸元に手を伸ばしかけたそのとき。

 ノックとともに保健室の戸が開いた。姿を現したのは清奈だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る