飛び去るように

 あの黒いものが彼女だったのか、それとも彼女は別の場所へ行ってしまったのか、私にはわからない。

 なにしろ一年近くも前のことである。

 今ではあの店も店主も姿を消してしまい、そこには当然彼女の姿も、黒い物体もないため、真実を確かめる術さえない。


 店主とは半年ほど前に一度、道で逢ったことがある。

 おそらく彼は私のことなど覚えていなかったのだろうし、すぐそばを通る私のことを認識していたのかさえわからない。


 店主は、彼女を失ったあの男は、まるで魂でも抜けてしまったかのように死人の顔をうなだれて、夢遊病者の足取りで私の前を通過していった。


 きっと彼女は、彼の心の奥深くまで、太く強く根ざしていたのだろう。

 彼女がいなくなるということは、彼の全てが根こそぎなくなってしまうことと同義だったのだろう。


 私はそう考えるたび、ほっと胸をなでおろす。


 あれ以上彼女にのめりこめば、私も店主と同じようになっていたに違いないのだから。

 彼女に人生を食い尽くされないでよかった。

 確かに彼女の愛おしい姿は未だに心の中で輝いているけれど、あんな人形一体に心を奪われていただなんて、今となっては信じられない。

 彼女がいったいなんだったのか、果たして本当に人形だったのか、思い返せば疑問は尽きないけれど、彼女のことを忘れることがなによりも大切なことだと、私は自分に言い聞かせてきた。


 平穏で、正常な生活。


 彼女はいないけれど、とても充実した日々。


 最近の私は、そんな毎日に喜びを感じて生きてきた。

 明日からも、私の中から彼女の影は薄れ続けるのだろう。


 もう、夢の中にすら彼女の姿はない。

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