白うさぎは少女を退屈から救う

 白いコーヒーカップをあおり、底に少しだけ残っていたかつては温かかったコーヒーを飲み干した。


 平和だ。全くもって、完璧に平和だ。

 

 木曜日、講義を終えた午後3時。特にすることがなく、ドーナツ屋の窓際のカウンターでぼーっと外を見ていた。雲が少ない晴れ空の下、老若男女の人間、時には犬や猫がそれぞれに目的を持って目の前を通り過ぎていく。


 ああ、平和だ。


 忙しなくも何も起こらない、穏やかな景色に食傷してテーブルに伏せておいたモバイルに手を伸ばした。すると、ダークブラウンの癖毛をなびかせながら目の前を早足で通り過ぎる少女の紙袋を抱える腕から何かがこぼれ落ちた。しかし、周囲の誰も拾わないし、本人も気付いた様子はなく戻ってくる気配もない。


 私は特別善人というわけではない。ただひたすら、この状況に飽き飽きしていたのだ。


 コーヒーカップととうの昔に皿の載ったトレイを返却口に置き、店から駆け足で飛び出した。通りに出て、私が先ほどまで座っていた席の前あたりを見回すと、茶色い小さな遮光壜が道の端に落ちていた。


 拾い上げ、もうずいぶんと遠くへ行ってしまった少女を追いかける。幸い、埋もれて姿が見えなくなるほどの人通りはなく、2区画分ほど走ったところで少女に追いついた。


「すみません」軽く乱れた息を整えながら、斜め後ろから少女に話しかける。


 少女は私の声に気づいていないのか不審に感じて意図的に無視しているのか、立ち止まってくれない。もう一度声をかけると、少女はようやく立ち止まり振り返ってくれた。


「すみません、これ落としましたよ。あなたのですよね?」

 

 薄氷のような目が私の手の中の壜に落ちる。しばらくの間、少女はスキャンでも取っているかのように観察した。それからパッと顔を上げ、


「ああ、確かに私のだ。どうもありがとう」少女はいかにも親切そうな笑みを浮かべた。「悪いが、そのまま部屋まで着いてきてくれ。この通り手がふさがっていてね」


 少女は苦笑いしながら、胸元に抱いている紙袋の存在を揺らして示した。その紙袋には見たことのないロゴが印刷されていて、私が拾った遮光壜に似たものがいくつか覗いている。


 確かに、あの袋に入れてもまた落としてしまうかもしれない。今回は運が良かったものの、今度も破れないとは限らない。


 私は頷いて彼女の後について行く。「すぐそこだよ」と少女が言った通り、メインストリートを右に折れて住宅街に入ると、2区画目にあるテラスハウスの手前から2番目のドアの前で立ち止まった。


「ここだよ。鍵はかけてないから開けてくれ」


 ノブを引いて黒いドアを開けて少女を先に入れ、彼女に続いて室内に入った。ライムグリーンの壁紙が目に優しい、至って普通の家。少女は向かって右側の壁沿いに作られた階段を上がる。ついて行く。上りきり、再びドアの前。今度のはミルクチョコレート色だ。


「さあ、着いた」


 すっかり彼女のドア係になった私は仕事をして部屋に上がる。


 ワンルームの部屋はカーテンが半分閉められているせいで薄暗く、非常に雑然としている。まず第一に、物が多い。遮光壜や禍々しい表紙のハードカバー本、ラップトップなどが所狭しと置かれている。第二に、それらは系統立てて置かれていない。少なくとも、私にはそうであるように見えた。


「それをこっちに持ってきてくれ」


 作業台に紙袋の中身を広げながら少女は言った。私は遮光壜を台の上に置いた。それから、早速何やら作業を始めた少女の手元を眺めた。


「気になるか?」


「ああ、いや、ごめんなさい、邪魔して」


「いいや、構わないよ」


 少女は楽しそうに作業を再開した。ガラス製カップに入った透明な液体の中に、注意深く選定した遮光壜から数滴垂らしてはガラス棒でかき混ぜている。


「何を作ってるんですか?」


 胸の奥で膨張を続ける好奇心に耐えられず、私は質問した。


「そうだな……あえて言うなら『不思議の国の鍵』だな」


 あまりに比喩的で訳がわからず首を傾げていると、少女はふふ、と笑った。


「これはきっかけに過ぎないが、これが無ければ奥へ進めない」少女は言った。「よければそこに掛けていて」


 少女はにこりと笑って、作業台の横に置かれたソファを指差した。言われた通りにする。それでも気になってちら、と彼女を見る。どうやら作業に夢中で気づかないようだ。


 初めてきた場所なのに妙に落ち着く。肘掛けに腕を置き、背もたれに上半身を預けて脱力して天井をあおぐ。ぼんやりと眺めているうちに、いつの間にか眠ってしまった。


 ストロベリーのような甘い香りで目が覚めた。


「やあ、起きたか」


「すみません、眠り込んでしまって」私は目元をこすりながら、かき消すように別の話題を持ち込んだ。「何だか甘い匂いがしますね」


「ああ、フレーバーが完成したんだ」


 そう言うと、少女はくるりと作業台に戻り、小さなガラスのカップを手に戻ってきた。


 ルビーのような鮮やかな赤い液体が半分ほど入っている。微かにしゅわしゅわと気泡が弾ける音が聞こえる。


「優しい夢のように甘く、しかしほんの少し危険で刺激的」少女は歌うように朗々と言った。「君のおかげで想像通りのものが完成したんだ」


 どう返したものかと戸惑う私をよそに、少女は続けた。

 

「本来はチョコレートに混ぜ込むためのものなのだがね、炭酸水で割ってみたんだ」


「何か味はするんですか?」


「少し甘いはずだ」


「人体に害は?」


「さあな」少女は挑戦的に笑った。「飲んでみる?」


 私は差し出されたガラスのカップに手を伸ばした。


「もちろん!」

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