シュヴァンクマイエルの薬

 アパートへ帰宅すると、キッチンから甘い香りのする湯気がたちのぼるマグカップを持って出てきたシュンと共有廊下ですれ違った。


「おかえり、コハル」


「うん、ただいま」

 

 カーディガンの裾を翻して、するりと前を通り過ぎようとするシュンの顔に違和感を感じて、袖口を摘んだ。


「シュン、ちょっと待って」


 振り返って、少し驚いたように見開いたシュンの目の下を指差した。


「目元にクマができているよ。最近ちゃんと寝てる?」


 記憶を探るように、シュンは灰色の目を彷徨わせた。


「睡眠時間は短くなっているかもしれないが、寝てはいる。新しい香水のアイデアを試しているところだ」


「君が研究熱心なのは構わないけど、少しでもゆっくり休む時間を作らないと……」


「ありがとう、でも必要ない。頭の中が忙しくて眠りたくても眠れない」


 言いながら階段を上っていくシュンの足取りが僅かにふらついているような気がした。


 やはり、友人が寝不足なのは心配である。それも自分の健康の優先順位を低めに置いているシュンならなおさらだ。


 自室に戻った私は手早く学生服からスウェットに着替え、ベッドに座ってモバイルを手に、広大なネットの海に解決策を求めた。


 検索ワードを変えてみたり、下の方までスクロールしてみたりして30分が過ぎた。なかなか納得のいく提案に巡り会えない。たまにこれはと思う見出しを見つけて開いても、ほとんどの記事が寝不足本人の精神に向けられたもので、寝不足気味の他人を寝かせたい人に向けて書かれたものではなかった。


 それでも何かあるだろうと調べを進め、またしてもそれらしい見出しを見つけてあまり期待せずにタップした。


 見慣れた白地に柔らかい黒の小さな文字がずらりと並ぶ。見出しには『安眠効果のあるブレンドハーブティー11選』の文字。正直、似たような見出しの記事を既にいくつか読んでいるが、その度に新しい情報はないかと期待してしまう。今回も例外ではなかった。


 一応全部目は通しておこうと記事を飛ばし読みしつつ画面をスクロールしていた。カモミール、ラベンダー、カフェインなど見慣れた文字や、白いつるりとしたティーカップに紅茶が入っている画像が流れていく。


 6つ目のカモミールとハチミツのブレンドを流し読みして7つ目、初めて見るその少々怪しげな文字列に目を留めた。


 シュヴァンクマイエルの薬。


 読み進めると、どうやらそれはハーブティーではなくハーブティーに入れると安眠効果のあるエッセンスのようなものであるようだ。レビュー曰く、ほんのり蜂蜜のように甘く、3滴程度で効果は絶大。超即効性で、体内に入って5分も経たないうちに眠くなる。


 聞いたこともないブランド名と恐ろしいほどの即効性に多少の不信感はあったが、無名だからといって品質が悪いとか詐欺だとかいうのはただの言いがかりだ。紅茶を飲んで精神的なリラックスを促すだけより、少々怪しげな『薬』だとしてもよほど効果的に思えた。


 ネットショップのリンクをタップして、情報を入力して注文した。8mlの内容量だが、標準的な文庫本が2冊買えるほどの価格だ。後払いで、返品や返金が可能であることが救いだった。


 * * *


 2日後、ポストを確認すると私宛の小さな小包が届いていた。送信者の名前を確認し、私は早足でシュンの部屋のあるA号室へ向かった。

 

 私は届いたばかりのシュヴァンクマイエルの薬を脇に抱え、シュンの部屋のドアをノックした。しばらくして「どうぞ、鍵なら開いている」と部屋の中からシュンがどこか上の空な声で言った。


 部屋に入ると、彼女にしては珍しく甘いフローラルな香りが充満していた。声の状態から感づいてはいたが、案の定シュンは作業机に並べた大量の香料を睨みつけて格闘していた。その目元にできているクマは以前よりもさらに濃くなっていた。


「シュン、少しいい?」私は言った。


「だめ」シュンは作業する手をとめずに即答した。


「すぐ済むから」


 私が食い下がるのは予想外だったのか、少し驚いたような様子でビーカーの中をかき混ぜていたガラス棒をを置いた。


「君には今から強制的に寝てもらうよ、シュン」


「前も言ったと思うけどね」シュンはため息をつきながら言った。「私は眠くないし、少なくとも今は眠れない」


「君が自力で眠る必要はないよ」私は言った。「通販で見つけたこれを使うんだ」


 小包を開封し、シュンの机に並んでいる香料のような小さな遮光瓶を取り出した。シュンは興味深げにその瓶を眺めた。


「これは?」シュンは目を細めてラベルの文字をなぞりながら言った。


「飲み物に混ぜて飲むと眠くなる……睡眠薬みたいなものだよ」


「そんなものを通販で買うなんて」


「大丈夫だよ、多分。それに」私はわざと煽るように間をとった。「気になるでしょ? これの効果がどんなものか」


 * * *


 好奇心の誘惑に勝てないのはシュンの欠点の1つだった。


 シュヴァンクマイエルの薬を混ぜるためのコーヒーを淹れ、椅子に座って待つシュンの元へと運んだ。


「インスタントか」くんくんと匂いを嗅いだシュンは言った。


「いいでしょ別に」私は言った。「そこじゃなくてベッドに移って」


「どうして」


「シュヴァンクマイエルの薬はかなり効果が強力みたいで、5分くらいで効いてくるらしいんだよ。前に倒れて脳震盪を起こしたくないなら言うこと聞いて」

 

 少々不信そうに眉をひそめながらも、シュンはおとなしくベッドに腰掛けた。私は彼女の正面に立った。


「2口くらい飲んだら私にカップを渡して」


 効果の程が気になるのか、シュンは立ち上る湯気を強く吹き飛ばしてコーヒーを飲む。カップを私に押し付けるように手渡し、じっとどこか一点を見つめて効いてくるのを待っていた。


 2、3分が経ち、突然シュンはがくりとうなだれた。


「ああ……コハル……もう、眠くなって……」


 それだけ言い残してさらに前に倒れ込もうとするシュンの肩を押して、ベッドに上体を倒した。


 作業机に預かったカップを置き、シュンの背中と膝下を支えてベッドに仰向けに寝かせた。


 あまりの即効性に不安に駆られ、私に特別な医療知識はないが、首元に触れて脈を取って額に触れて熱を測った。正確な判断ではないのかもしれないが、すーすー寝息を立てる彼女に特に異常があるようには思えなかった。


 一安心はしたものの事態が急変する可能性がないわけではない。私は作業机に収納されたイスに座ってシュンが目覚めるまで見守ることにした。

 

 シュンは寝返りもせずに眠っている。どんな夢を見ているのかは私にはわからない。しかしそこに苦痛はないようで、穏やかな様子を保っていた。


 初めて見る寝顔は普段の言動に比べて幼く、シュンが後輩であることを改めて私に自覚させた。枕に沈む暗く赤茶けた癖毛の頭をそっと撫でると、シュンは満足そうに口角をわずかに上げた。


 それから何事もなく5分ほどが経過し、瞼がゆっくりと持ち上がりまだぼんやりした灰色の目が現れた。

 

「おはよう、シュン」暇つぶしに眺めていた雑誌を作業台に置き、ゆるゆると起き上がるシュンに声をかけた。「随分と幸せそうだったけど、どんな夢を見てたの?」


 シュンはいまいち焦点の定まりきらない目を瞬きさせ、小首を傾げた。


「内容はあまり覚えていない。だけど」シュンは穏やかに微笑んで、「隣には君がいて、とても良い夢だった気がするよ」

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