誰にも渡さない

 んん、とソファで寝ていた柊セナがうめき声をあげた。


「おはよう、もう夜の八時だけど」


 キーボードを打つ手を止めて回転椅子を九十度くらい回し、上体を起こしてまだぼんやりしている柊に話しかけた。開き切らない目をゆっくりとこちらに向けたかと思うと、彼女の腹から膝上を覆っていた布――おそらく彼女は身に覚えがないであろう――に視線を落とした。


「私のカーディガンだよ」不思議そうに見つめ続ける柊に説明した。「考え事しているうちに寝ちゃったんでしょ? 風邪ひいちゃうといけないから……嫌だった?」


「いや、おかげでよく眠れた」


「それは何より」


 やりかけのレポートを保存してモニターを閉じ、上体を起こしてぼんやり虚空を見つめるセナの隣に立った。


「夕食買いに下のコンビニに行こうと思うんだけど、何かいる?」


「……じゃあ肉まんを」


「ん、了解。そのカーディガン着て行きたいんだけど」


 カーディガンを受け取るために差し出した手が空中で待ちぼうけになる。セナは私のカーディガンを胸元に抱いたままその手を心底不思議そうな顔で眺めて、それから私の顔に視線を移した。


「どうして? この寒さならこれは着なくてもコートがあれば充分だろう」


「今日一度も部屋から出なかったくせに……それじゃあ寒いんだよ」


「部屋からは出た。だから今こうしてジュリの部屋にいる」


「……じゃあ訂正。セナは自分の部屋を出て階段を上がってきた。とにかく建物の外は寒いの。もう日も落ちてるし……」


「…………」


 無言の意思表示のつもりか、セナはカーディガンをぎゅっと抱き寄せて口元を埋めた。普段は五センチ上から見下ろしてくる彼女の打算のない――私はそう信じている――上目遣いに悔しいが可愛いと思ってしまった。


 しかし今のセナが可愛いことはカーディガンを諦める理由にはならない。……いや、諦めてもよかったのだが、想定外に長引いた攻防が私を意固地にしてしまった。


 どうやら正攻法は通用しない。私は攻める角度を変えてみることにした。


「へぇ、そんなに私のカーディガンが好きなんだ?」


 口角を上げて眉をひそめ、わざとにやけ顔を作ってみせた。セナは人一倍馬鹿にされることが苦手な人間だから、こんな風に言われれば反射的に否定したくなるはずだった。


 しかし彼女はふふ、と笑いをこぼし、「ああ、好きだ。柔らかくて温かい。それに」とろけたように目を細めて鼻先までカーディガンを寄せた。「……いい匂いだ」


 予想外に素直な態度になんだか恥ずかしくなって、力ずくで取り返そうと手を伸ばすと、セナはするりと私の横を抜けた。振り返ってその姿を追うと、さっきまで私のいたデスクの近くまで逃げて、セナはどこか勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。


「……こら、返せって」


「ダメだ。少なくとも……」セナはふわりとカーディガンを肩にかけた。「ジュリの匂いが消えるまでは誰にも渡さない」


 諦めて、セナの言ったようにコートを羽織った。ポケットにモバイルを入れ、ちょっとした仕返しにセナが枕がわりにしていたマフラーを拝借した。


 セナに鍵を閉めておくよう言い残して部屋を出た。ひやりとする廊下でマフラーを巻くと、彼女のヘアオイルや柔軟剤が混ざった甘いような匂いに包まれた。



*診断メーカー『140文字で書くお題ったー』より《誰にも渡さない》をお借りしました

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