11-3話 告解

 あれからどうやって戻ったか憶えていない。だけど気がついたら寮に与えられた自室の寝台の上、制服を脱ぐことすらせず突っ伏している。

 きっと今の私の顔はひどいものだ。

 目はやけに熱っぽくて腫れぼったい。思考もあれから一歩も前に進めていなかった。

 溢れかえる激情と自己嫌悪を誰かに、どこかに吐き出したくて。けれどもそんな宛なんて──。


「…………、……あ。」


 一人だけ思い浮かんだ。

 この時間に部屋の外を出歩くことは本来寮則に反しているのだけれど、相変わらず理性とはちぐはぐな身体は、音を立ててドアノブを開いた。



 ◆ ◇ ◆



 誰もいない夜の校舎。階段を上がり扉を開ければ、暗い室内の向こうに月が浮かんでいる。吸い込まれそうな金から逃げるように目を逸らし、執務室の引き出しを開けた。

 中に入っているのは手紙と封筒、そして封蝋のための道具。太陽のしるし


 ソルディアの者が使える封蝋の印は、手紙を早急に送り先へと届ける呪文がかけられている。緊急時に発動が可能な其れを教えられたのは組織に所属して間もない頃。


 何を書くかすら混乱しきった頭では考えられない。筆ペンに浸したインクを二度乾かすほどの時間をかけて、ようやく短い文を綴った。


『突然の手紙すみません。今度、話がしたいです。』


 いくら早急と言えど手元に直接届くわけではない。以前ルイシアーノが兄から手紙を受け取った時は、書簡入れに音を立てて入ったと聞く。

 時計の短針も頭上にくるほどの時間帯。手紙を受け取ったところですぐ連絡など来ないだろう。良くて以前のように、空気を震わせて声を通してくれるか。


 教わった通りに封蝋をした手紙を空へとかざせば、淡い光を立ててふっと消えた。

 やれることはやった。いつ返事が来るのかもわからないのだから戻るべきだ。そう思いながらも足は鉛のようにその場に留まる。僅かに残る光の残滓。少しだけ休んでから、部屋に戻ろう……。


「シグリア。」


 私を呼ぶ静かな声に顔を上げる。月灯りに照らされた金糸はその光を反射した。


「…………リュミエルにぃ。」

 ぽつりと私は、影の名前を呟いた。



「はは。久しぶりにシグのそんな泣き顔を見たな。俺が奉公に行くって言った日の朝ぶりじゃないか?」

 一歩、二歩。近づいてきた彼はしゃがみ込んだ。視線が揃った翠はいやになるほど柔らかく。いまだに涙伝う私の頬を親指でなぞって微笑みを浮かべる。


「リュミエル兄。」

「うん、なんだい?愛しいシグ。」

「私、変なんです。」

「どうしたんだい。一体。」


 耐え切れずに吹き出して笑いを噛み殺す兄に理不尽に苛立ちを感じながらも、支離滅裂なまま胸の中の衝動を口に出していく。


「おかしいんです。だって私、ヒロインには幸せになってほしいのに。ユーリカとヒロインを重ねないようにって思っても、あれだけ良い子ですから。誰よりも幸せになってほしくて。良い人と、そうでなくとも彼女が選んだ人と幸せになってほしいって。思ってて。」


 誰よりも愛らしい少女。

 人の善なるものを信じようとして、精霊に愛される才もあって、それでも自らの努力も忘れない子。

 あんな良い子が報われないはずがない。幸せになってほしいという思いは今も変わらなくて。


「でも、ダメなんです。ルイスとあの子が笑いあってて、お似合いだって思ったのに。それなのに私、台無しにしてやりたいなんて。ルイスのロクでもないところも何も知らないのになんでって。そんなこと。」


 しゃくり上げるようにしながらも言葉を紡ぐ。

 失望すれば良い。ユーリカだけでなくてルイスにまつわるもの全て。そうすれば周りを見ることを恐れないで済むだなんて。

 そんな風に一瞬でも考えてしまったのが心底愚かしい。ゲームの中のシグルトの行いを、あれだけ侮蔑していたというのに。


 こんな話をしたら幻滅されるだろうか。否、たとえ世界の誰が幻滅したとしても、彼だけはそれを否定しないでくれると思った。別の世界を知っている来訪者だからではなく、私の兄である彼ならば。

 いまだにぼんやりとした視界で目の前にしゃがむ兄を見上げれば、その手が私の髪を撫でる。


「そっか。シグリアはその子と他の男の子が、おんなじように笑ってても嫌だなって感じる?」

「……いいえ。ミラルドやハイネ先輩が、話してるのは微笑ましいなと。」


 フラグの建築具合にひやりとすることはあれど、胸を暗いもやがよぎることはない。首を横に振れば乱れた金の髪が頬に付着して、それを整えるように兄の指がなぞる。


「なら逆はどうだい?ルイシアーノ殿が卒業後に、シグが解任された後にでも別の令嬢と婚姻を……と。聞くまでもなさそうだね。」

「…………、」


 なんですかその物言いはと、言おうとして言えなかった。困ったようにわらう兄の相貌からして、よほどひどい顔をしていたのだろう。

 月明かりがいやに目に眩しい。逃れるように目線を私たちの影へと落とした。


「シグ。俺は君じゃないから、その感情に勝手に名前をつけることはできない。けれども誰かを想い、それに焦がれ、苦しんでいるその姿は──」

「それ以上言わないで、兄さん。」


 言葉を遮る。

 誰に言われずとも分かっているのだ。物語の少女たちは誰だって、甘やかなそれを繰り広げていた。だから是が其れだと、そうではないと分かっていた。


「恋ですって?これが?そんなこと、あるはずがありません。」


 縋るように凭れかかり、その胸元を強く握りしめる。月の光が照らす執務室の中、逆光に照らしだされたシルエットは一枚の絵画のようで。けれども私の胸の内に澱むのは、溶岩にも似た汚泥だった。


「こんな醜いものが、悍ましいものが、痛ましいものが。恋なんてものであるはずが、愛なんてものであるはずがありません。」


 頬を熱が伝う。

 物語の少女たちは皆、甘い恋をしていた。葛藤はあれどもめげることはなく。ましてや愚かな選択に身をやつすこともない。この感情はそのどれとも明らかに違う。

 だからここで吼え泣いて、それで全てを終わらせようと思っていた。こんな醜い感情は、棄てて朽ち果てればいいと。


 けれども、そんな甘い選択を目の前の男が許すはずもない。つむじの上、羽毛に触れるような口づけが落ちる。

 いつだって私を慈しんで、その選択を尊重して、けれども同時に試練を与える人。


「シグ、愛しいシグ。よく聞きなさい。恋も愛も、決して美しいものだけを指すものではないんだ。喜びでもあり苦しみでもあるものだ。その感じた想いは、決して間違ったものではない。」

「でも、兄さん。」


 この想いを抱え込むのは。痛くて、苦しくて、息すら出来なくなりそうなのです。

 その言葉を音にはできずとも、如実に想いは伝わったようで。苦笑にも似た笑みが深まる。


「それはね。生きている以上、人と繋がる以上は多かれ少なかれ抱える痛みだよ。精霊とかゲームとか、そんな要素とは何一つ関係ない。

 俺はね、シグ。君が誰かにそれだけの感情を傾けられることそのものが嬉しいんだ。だから、その想いを無にしないでほしい。叶うかは分からずとも、戦うことは出来るはずだよ。」


「…………、ご自身が、どれだけ残酷なことを言っているかお分かりで?」

「勿論。でも俺は、その苦しみを抱えてもなお歩いていける子だって信じているよ。耐えきれなくなったなら、今日みたいに呼べばいい。」


 いつだって話を聞くよと私の背中を撫でる兄。きっとその言葉に偽りはなく、また私が弱音を吐いたら文字通り飛んでくるのだろう。今日のように。


「誰かの感情を得ることはいつだって容易いことじゃない。時には道を踏み外すこともあるだろう。でも、シグリアは今日その想いに、あやまつ可能性に気がつけた。それは素晴らしいことだよ。だから、そんな風に恐れ慄く心配はない。……それとも。」


 慈愛の中に悪戯めいた輝きが混じる。


「ルイシアーノ殿はシグがヤンデレを発揮したらそれで引いて関係を断つ人かい?」

「いえ、あの俺様ですから絶対に胸ぐら掴んで何をやってるのか文句を言い……、」

「そうだろう?なら、心配はいらないさ。シグが心配するようなことをしでかしたら彼は止めてくれる。それは君たちの間の信頼あってこそだ。」


 腫れぼったいまぶたを幾度も瞬かせながら、次第に身体のあちこちに入った力が抜けていく。


「……良いんでしょうか。私のこれは、あの子に比べれば綺麗なものじゃない。」

「心根の清濁など測れるものじゃないよ。」

「ルイスやユーリカを……傷つけるかも知れない。」

「そうなる前に止まる聡明さを、今日正に見せただろう?止まれるか不安になったら、その前に俺や信頼できる人に助けを求めれば良い。」

「──……それでも、報われないかもしれない。」

「うん。それを決めるのは俺ではないから、大丈夫なんて保証はあげないよ。でもね、その想いを棄てるのなら、後悔はしないと高らかに言い切れる時にしなさい。」


 優しいけれど厳しい言葉。何よりも残酷で、けれどもきっと、本当にダメだと言ったら受け入れてくれるであろう安心があった。

 瞼が重くなり、思考の緩慢さが一層増していく。髪を撫でている手が頂上へと載せられる。意識が完全に途切れる寸前、遠くで声が聞こえた気がした。


「だから今はおやすみシグリア、俺の愛しい妹よ。願わくばその想いの果てに、お前に一つの報いが訪れますように。」

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